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カナダ軍事史の英雄十人

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あまり知られていないカナダの英雄兵

国にはそれぞれ独自の歴史があり、独自の文脈があります。

その中で、その国では高く評価されてるけど他国にはあまり知られていない英雄という人物が必ずいます。 

ローカルな英雄兵をピックアップするシリーズを書いていこうと思います。

第一回はカナダ篇です。

 

1. レオ・メジャー(1921-2008)

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Photo by Jmajor

二度の戦争で二度の特別功労勲章を得た男

レオ・メジャーはフランス系カナダ人の軍人。

1940年に19歳でカナダ軍に志願し、1941年に西部戦線に合流。1944年6月のノルマンディー上陸作戦に従軍しました。ノルマンディーでの戦闘で彼は4人のドイツ兵を殺害しますが、手榴弾の爆発で片目を喪失。しかし、偵察隊と狙撃隊として従軍を続けました。

1945年4月13日、オランダ東部ズウォレの奪還戦で夜中にたった1人、町を占領するドイツ軍を戦闘を繰り広げました。彼は機関銃と手榴弾を活用してドイツ兵に「カナダ軍の襲撃」を錯覚させ、また8〜10名のドイツ兵を捕虜にし、4名のナチス将校を殺害。混乱したドイツ軍はズウォレから撤退しました。

この活躍によって彼は特別功労勲章(Distinguished Conduct Medal)を授与されました。

メジャーは朝鮮戦争にも従軍。

1951年11月、国連軍と中国軍は「ヒル355」と呼ばれる丘陵地帯の奪取合戦を繰り広げます。ヒル355は戦略要地にあたり、もともとアメリカ軍歩兵師団1万に守られていましたが、中国人民志願兵第190師団と191師団合計4万の投入で徐々に後退を余儀なくされました。

中国軍はさらに圧力を強め、アメリカ軍を包囲したため、カナダ軍第2大隊22連隊の指揮官はメジャーと17人のエリート狙撃小隊を編成し丘に登らせ中国軍への圧力としようとしました。メジャーらは丘の上から確実に狙撃し中国軍をパニックに陥れました。

しかしすぐに発見され、14,000人の兵で丘は囲まれてしまいました。メジャーは後退を命じられますが撤退せず、たった18人で14,000名に囲まれたまま、3日後に増援部隊が到着するまで中国軍の攻撃に耐え抜いたのでした。

この活躍で再びメジャーは特別功労勲章を受章しました。

 

2. フランシス・ペガァマガボウ(1892-1952)

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先住民族の血を引くWW1西部戦線のエーススナイパー

フランシス・ペガァマガボウはカナダ先住民族オブジワ族の男で、第一次世界大戦が勃発すると、部族の地位向上のためにカナダ軍に志願しました。

ペガァマガボウの部隊は1915年4月、ドイツ軍が初めて毒ガスを使用した第二次イーブル会戦に参戦し、10数名のドイツ人を殺害。ペガァマガボウは暗闇の中、星の光だけを頼りにドイツ兵を確実に仕留めていきました。

その後、ソンムの戦い、パッシェンデールの戦いと大規模な会戦を歴戦し、カナダ人部隊の兵の大部分が死傷する中で、ペガァマガボウは最後まで従軍し活躍。記録では378名のドイツ兵を殺害したとされています。

帰国後は、改善されないオブジワ族の地位向上のために居留地の自治を求め、かつて命をかけて守った祖国カナダと対決。1943年にカナダ先住民族政府の議長となり、先住民の地位向上に尽くしました。

 

3. レオ・クラーク(1892-1916)

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ヴィクトリア十字章を受章したウィニペグの英雄

レオ・クラークの家系はイングランド・ウェセックスと強い繋がりがありました。

第一次世界大戦が勃発した時、クラークはサスカチュワン州北部で鉄道測量士として働いていましたが、イギリス軍人の家系であった父ハリーは、息子に「お国の大事」を知らせ、それを聞いたクラークはウィニペグの第27大隊に入隊し、1915年5月中旬にイギリスに出兵。クラークは1915年9月にカナダ遠征軍第2師団と共にフランスに到着し、10月にはベルギーに配属されました。

 この当時のカナダは英自治領であり、まだまだイギリスへの忠誠心が強い人物が大勢いたことが分かります。

狙撃手として活躍して伍長に昇進し、1916年9月9日にソンムの戦いに参加しました。

クラークの部隊は敵の塹壕に銃剣突撃し、敵を蹴散らして塹壕の両端を確保するという危険極まりない任務にあたりました。
左右を確保した後に塹壕の要塞化を続けていたところ、クラークはドイツ兵20名と将校2名の部隊に出くわします。クラークはバリケードを利用しつつ塹壕の中の戦い、足を打たれて負傷しましたが1人で1人を除く全員を殺害・負傷させました。この活躍でクラークは軍曹代理に昇進し、後にヴィクトリア十字章を授与されることになります。

しかし、この活躍からわずか数週間後、彼はソンムの戦いの中のレジーナ塹壕争奪戦の最中に爆発した砲弾の破片に埋もれ、内臓を損傷し、10月に死亡しました。

クラークは、フレッド・ホール軍曹少佐、ロバート・シャンクランド中尉とともに、戦時中にヴィクトリア十字章を受章したウィニペグ中心地パイン・ストリート出身の3人のうちの1人として知られます。彼らの功績を讃えてパイン・ストリートは「ヴァラー・ロード(勇気の道)」と改名されました。

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4. ウィリアム・ビショップ

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無謀な戦闘スタイルを好んだ「地獄のしもべ」

第一次世界大戦では、大英帝国軍の一翼として参加したカナダ軍の活躍は目覚ましいものがありました。空軍もしかりで、カナダ軍のエースパイロットとして名を馳せたのはウィリアム・ビショップ。

元々彼は騎兵隊員として従軍しましたが、派手で展開が早い戦闘スタイルを好んだため、塹壕戦にうんざりしてすぐに空軍の航空機乗りに鞍替え。

すぐに才能を発揮してドイツの航空機を追い詰める活躍を見せました。だんだんと彼の撃墜記録が増えていくのを見るにつれ、ドイツの航空機乗りはビショップを「地獄のしもべ(Hell's Handmaiden)」と呼びました。

根っからの目立ちたがり屋だったようで、単独で乗り出し複数の敵機に戦いを挑んで返ってくるような危ない戦闘スタイルを好んだため、彼の死による士気低下の恐れから、1918年6月にとうとう上司は彼を職務から外してしまいました。

 

5. アーサー・カリー(1875-1933)

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WW1のカナダ軍の将軍 

アーサー・カリーは第一次世界大戦でカナダ軍の将軍となった人物です。

当時の英首相ロイド・ジョージは彼を高く評価し、一時は全英軍の司令官に任命することを検討していたとさえ言われています。

1915年にはカナダ第1師団司令官として、ヴィミーリッジの戦いでドイツ軍を打ち破る活躍をし、1917年8月には70高地の戦い、10月にはパッシェンデール作戦で大きな功績を上げました。

その後カリーは、同盟国を敗北に導く100日攻勢(1918年8月8日~11月11日)の戦術立案と実行で指導力を発揮し、カナダ軍はアミアン、カンブライ、バレンシアヌ、モンスの戦いを含むいくつかの重要な勝利を収め、カナダ軍の重要性と存在感をイギリスに知らしめました。

カリーは有力な家柄の出身で、プロの軍人ではなく民兵の訓練しか受けておらず、入隊後すぐに歩兵第2旅団の司令官となっており、出世が約束されていました。

しかもカリーは入隊にあたって借金を返済するために連隊から1万ドルを着服しており、それが後に問題になります。また、百日攻勢でカナダ軍が輝かしい戦果を挙げる一方で、彼の名声を上げるために無茶な戦闘に兵が動員され45,800人の死傷者を出したという批判もあります。

戦後は政治家やマスコミ、世論から非難を浴び、名誉棄損で新聞社と争ったり穏やかでない引退生活を過ごし、1933年11月初旬に脳卒中を患い、同月末に58歳で亡くなりました。

 

6. ウィリアム・ステファンソン(1897-1989)

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WW2初期の連合軍諜報活動を統括した人物

ウィリアム・ステファンソンはカナダの大富豪の家の生まれ。

第一次世界大戦後は機械などの製造ビジネスに携わっていましたが、ビジネスに携わる中で1930年代にドイツ軍の軍備増強や暗号機エニグマの開発に関する貴重な情報を得て、その情報をイギリスの情報機関に通報したことがきっかけで、諜報活動に携わるようになりました。

ウィンストン・チャーチルが1940年に英首相になったとき、彼はステファンソンをニューヨークに派遣し、アメリカを拠点とするBritish Security Co-ordinationを指揮させました。ステファンソンは、西半球におけるすべての英国の海外スパイ活動を統括し、エージェントの募集や、スパイの訓練、秘密基地の設立と運営などに携わり、1942年にアメリカに戦略サービス局(CIAの前身)が設立されるまで、BSCと米国政府との間の連絡役として働きました。富豪であるステファンソン自身が、British Security Co-ordinationの活動の多くに資金を提供し、連合軍の諜報活動に貢献しました。

1945年にナイト爵を授与されています。

 

7. トミー・プリンス(1915-1977)

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 合計11個の勲章を授与された先住民の軍人

トミー・プリンスは1915年10月、マニトバ州ピーターズフィールドのテントの中で、オブジワ族のブロークンヘッド部の酋長の家に生まれました。

優れたハンターであった父から射撃を教わり腕前を上げたプリンスは、第二次世界大戦が始まった1940年6月3日にカナダ陸軍に入隊し、第1カナダ特殊任務大隊に配属されたプリンスは、アメリカの部隊と共同で作られた突撃専門チーム「第1特別部隊(第1SSF)」に加わりました。

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この部隊は 「悪魔の旅団」のニックネームで知られ、1968年には彼らの活躍を描いた映画にもなりました。

 

 

プリンスはイタリアのアンツィオでは前線近くでの行動で名を上げました。

1944年2月、志願してドイツ軍の砲兵隊からわずか200メートルのところにあった廃墟に1400メートルの通信回線を敷設しました。砲撃で通信線が切断されたとき、彼は地元の農民に変装し、農家の周りの土地を耕すふりをして通信線を繋げました。

1944年の夏には、フランスの山岳地帯を72時間食料も水もない状態で行軍。その後、旅団を率いてドイツ軍の陣地に入り、1,000人以上のドイツ兵を捕虜にしました。

これらの活躍が評価され、プリンスはジョージ6世からミリタリー・メダルとアメリカ大統領に代わってリボン付き銀星章を授与されました。その後8つの勲章を受章しました。

彼は朝鮮戦争が勃発すると再び軍に入り、急襲部隊を率いました。1954年9月に名誉除隊するまで、朝鮮半島で2回の任務にあたり、3つの勲章を受章しました。

 

8. チャールズ・ヘンリー・バイス(1916-1994)

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 特別功労勲章(DCM)を受賞した先住民の母を持つ軍人

チャールズ・バイスの母ルイザは、オンタリオ州出身のムース・クリー族。父ヘンリーは非先住民カナダ人でした。

チャールズ・バイスは1940年7月に歩兵部隊であるレイク・スペリオル連隊(LSR)に入隊。この部隊は後にカナダ第4装甲師団の第4装甲旅団3連隊の歩兵支援部隊に配属され、1944年7月下旬のノルマンディー上陸作戦に従軍しました。
1945年初頭オランダにいたバイスは、1月21日の真夜中に尋問のための捕虜を獲得するためにマース川を渡って敵陣に突入。敵に見つかり攻撃を受けるも、冷静に対処して情報を得て無事に撤退しました。

その後、バイスは6代の装甲車を率い、他の2つの中隊と連携しドイツ軍の要塞ホッホヴァルト・ギャップへの攻撃することになっていました。先行していたバイスの中隊は敵の重火器と迫撃砲の攻撃を受け5台の装甲車を失い、将校全員を含む死傷者が出始めました。バイスは生き残った中隊のメンバーを指揮して戦い続け、自ら殿(しんがり)になって敵兵に攻撃を加えて進撃を遅らせつつ、部下を撤退させました。

この活躍が評価され、バイスはヴィクトリア十字勲章に次ぐ最高の勲章である特別功労勲章(DCM)に推薦されました。

 

9. ヒュー・ケアンズ(1896-1918)

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ドイツ軍相手に無双をやって死んだカナダ兵

ヒュー・ケアンズは第一次世界大戦中の1915年8月、兄のアルバートとともに第65(サスカチュワン)大隊に入隊し、その後部隊の編成によって第 4 カナダ師団第10旅団の一員としてフランスに上陸しました。

フランス到着後、カナダ軍のほとんどの戦いに参加したケアンズは、1918年8月までに軍曹に昇進。同月に100日攻勢(1918年8月8日~11月11日)に参加しました。
11月1日、カナダ軍はフランスの都市ヴァランシエンヌの郊外に到着し、激戦が2日間続きましたが、この戦いでケアンズの活躍は伝説となりました。

彼が率いる大隊は敵のライフル、機関銃、大砲によって阻まれ、他の部隊に比べ進軍が遅れていました。ケアンズはルイス機関銃を掴み、一人で敵陣地に突撃して5人の敵兵を殺害。同日、同じように敵陣に単独で乗り込み機関銃基地の12人を殺害して18人の敵兵を捕虜にし、2丁の銃を捕獲。同じ日に、また別の陣地に突撃して敵兵数人を殺害しました。

その後ケアンズは再びルイス銃で武装した哨戒隊を率いて前進し、さらに60人のドイツ兵を降伏させました。集団を武装解除している間に、敵兵の攻撃があり、ケアンズは重傷を負い失血で倒れ、そのまま死亡しました。

ケアンズは死後、この並外れた勇気が認められヴィクトリア十字勲章を授与されました。

 

10. ロバート・スポール(1890-1918)

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 部下を救うために自らの命を犠牲にした男

ロバート・スポールは1890年3月5日、イギリスのイーリングで生まれた。2歳の時に両親と共にカナダのウィニペグに引っ越しました。

第一次世界大戦が勃発すると、1915年8月にカナダ遠征軍第90歩兵大隊に入隊し、カナダ軽歩兵隊に配属され、軍曹となりました。

スポールが率いる小隊は、1918年8月12日~13日にフランスのパルビエールの戦いに従軍中に敵の反撃を受けて孤立してしまいます。彼は塹壕の上に登り、ルイス機関銃をぶっ放して敵に多くの死傷者を出した後、敵のわずか75メートルの場所でいったん塹壕に降り、撤退のための指揮をし、再び塹壕の上に登り、目の前にいる敵をさらに引き止めるために攻撃を再開しました。

彼の死のおかげで彼の小隊は無事に撤退することができ、彼の自己犠牲を払った献身は多くの称賛と涙を誘いました。その勇気によって、死後にヴィクトリア十字勲章を授与されました。

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まとめ

  国家の戦争では、このように戦場で活躍し勲章を受けた戦争の英雄が、人々の間でヒーローになり、記憶に刻まれる存在となります。こうして人々を戦争に巻き込んでいくので、すごい人たちだとは思いますが第三者から見ると 一歩引いた眼で見たくなります。

ですが、「戦争の英雄」を見ていくと、どのような人物が社会の中で高く評価されているかと、その社会が抱える闇のようなものが見えてくる気がします。

カナダでは「自己犠牲」「献身」が強調されている印象がありました。また、先住民の地位とイギリスとの関係、「カナダ人」のナショナルな意識何か社会的な闇があるのではないかと思えます。

今後、他の国の戦争の英雄もピックアップしていきたいと思います。

 

参考サイト

 "Leo Clarke, VC" Canadian Encyclopedia

"Sir Arthur Currie"  Canadian Encyclopedia

"Tommy Prince" Canadian Encyclopedia

"Charles Henry Byce" Canadian Encyclopedia

"Hugh Cairns, VC" Canadian Encyclopedia

"William Stephenson" Britannica

"Robert Spall" Government of Canada | National security and defence | Canadian Armed Forces | Medals and awards | Victoria Cross recipients