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レソト王国の歴史-レソト建国から英領バストランドの成立-

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アフリカ南部の小山岳国家の歴史

 レソト王国という国をご存じでしょうか。

世界地図が好きな人はたぶん知っていると思います。南アフリカの中に埋没するようにある内陸国です。

なぜこのような小国が存在できているのか、その歴史を追っていきたいと思います。 

 

1. 「アフリカの天井」「アフリカのスイス」

本題に入る前に基本的なレソト王国の知識のキャッチアップです。 

レソト王国は南アフリカ共和国の領土内に取り囲まれた内陸国。国王を戴く立憲君主制の国です。

国民の大半はバンツー系のソト人で、人口は210万人。

面積は約3万平方キロメートルと、四国の約1.6倍程度の大きさ。国土の大半はドラケンスバーグ山脈の険しい山岳地帯で、最高峰は3,482メートル。これはアフリカ南部の最高峰です。それ故、レソトは「アフリカの天井」や「アフリカのスイス」などと呼ばれています。

産業は乏しく、主産業は繊維産業、農業、建設業ですが、収入の半分を南アフリカの鉱山への出稼ぎ労働者の仕送りが占めます。山がちで工作地帯が少なく、食料が自給できずその大半を南アフリカからの輸入に頼っています。一方で牧畜は盛んで、210万人の国民の数よりも家畜の数の方が多いと言われています。遊牧民の男子は牧童として駆り出されるため、男子の識字率が女子よりも低いというデータもあります。

日本との貿易関係もあります。レソトでは山岳地帯の豊富な水源を利用したニジマスの養殖が盛んで、生産したニジマスの約85%は日本に輸出されているそうです。

 レソトは歴史的・地理的に南アフリカの政治・経済の大きな影響を受けてきました。

ソト人よりも南ただしやはり国は貧しく、ソト人の多くは満足にインフラも整っていない祖国よりも経済的に発展している南アフリカで暮らしたがるようで、レソトの住むソト人は約170万人である一方、南アフリカには約355万人が暮らしています

なぜこのような小国が南アフリカに飲み込まれるのことなく存在できているのか。

その歴史を辿っていきたいと思います。

 

2. 南東アフリカの政治的混乱

現在のレソト王国の基礎を作ったのは、レソト王国初代国王であるモショエショエ1世です。

 

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モショエショエは1786年に現在のレソト北部のメンホアネンという場所に、ソト人のバコテリ族の酋長の家に生まれました。若い頃から根性があり、近隣部族に対する「牛泥棒」で名声を高めたそうです。モショエショエという名はあだ名で、南ソト語で「ひげを剃ったカミナリ」という意味です。

 モショエショエはバコテリ族の祖グレート・カリの子孫であることを強調し、バコテリ族のバモコテリ一門、バフォケン一門、アマジズィジ一門らと共同体を作りました。

 

南東アフリカの政治変容

モショエショエの住むソト人の居住地の東の南東アフリカは、18世紀初めにはンドワンドウェ王国とムテトワ王国という二つの王国があり覇権を争っていました。

この両大国の争いは、ズールーという小さな首長国の首長センザンゴカナの長男シャカによって終止符が打たれます。1816年にズールーの首長となったシャカは、ズールー人の戦士を訓練し、南部アフリカの民族では初めての常備軍の育成や、組織的陣形「牛の角」の導入など、これまでの南アフリカではなかった組織的な軍を構築し、指揮官の命令で嬉々として死地に突っ込んでいく精強な兵士団を築き上げました。ズールーは庇護下にあったムテトワの領土を吸収した後、ムシャツセ川の戦いでンドワンドウェを破り、北部ングニ人の領土全域を支配しました。

1820年代の半ばには、ズールー人は北はポンゴラ川、南はツゲラ川、東はインド洋、西はドラケンスバーグ山脈の麓まで支配権を確立しました。

▼シャカ・ズールー

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 ズールー王国は近隣の首長国を併合し、住民にズールーの方言や文化を強制し、シャカへの忠誠を誓わせました。こうして近隣住民の多くはズールー人となっていきますが、その過程は恐怖と暴力を伴うものでした。シャカは1828年に兄弟によって暗殺されてしまいますが、ズールーの拡張路線は後継者にも受け継がれていきました。

シャカはモショエショエの領域に手を出すことはありませんでしたが、モショエショエはシャカの危険性を認識し、彼と「ダチョウの羽」を交換し安全保障を結びました。ダチョウの羽とは文字そのままではなく、「若き処女」を指す隠語です。モショエショエ自身も近隣の部族と「ダチョウの羽」を交換することで約500人の妻を持っていたと言われます。

 

タバ・ボシウへの避難

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Work by  Discott

ズールーの支配から逃れた難民のうち、いくつかのグループはズールーと同様に他地域を征服しようとして、強力なリーダーに率いられ周辺地域で国家を形成しました。

ムジリカジというリーダーに率いられた武装集団は、北方のハイフェルトに移動し、ソト人とツワナ人の首長国を征服し「ンデベレ(マタベレ)」の名で知られる国家を形成。このンデベレの脅威を受け、ソト人の一部は現在のザンビアに逃れコロロという国を形成します。

ソシャンガネというリーダーに率いられた集団は現在のモザンビークに逃れガザ王国を形成。ガザ王国の脅威を受け、カーバという男に率いられた集団が現在のマラウイとタンザニア、ザンビアの一部に新しい首長国を形成します。

一方でズールー北西部の山岳地帯では、ソブーザというングニ人の首長がンニグ人とソト人を吸収し、スワジランド(現在のエスワティニ)を形成しました。

このような社会的混乱の中、モショエショエ率いるコミュニティも無事ではすみませんでした。

シャカの同盟者だったングニ人のウルービー族がズールーから現在のレソト南西部のカレドン川流域に進出しました。この地域に住むソト人が多数殺され、生き残った人々はモショエショエの下に集まりました。モショエショエはソト人の他、侵入してきたングニ人やングニ人と共にやってきた集団の一部を引き連れ、現在のレソト北西部にあるキロアネ高原に逃れました。キロアネ高原は山上にある平たいテーブル状の根拠地で、ングニ人やンデベレら侵入者を拒みました。

キロアネ高原は「タバ・ボシウ」という名前に変更され、その後のボーア人やイギリス人との抗争を経る中でソト人の団結と国家建設のシンボルとなっていきます。

▼タバ・ボシウ

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 Photo by  Martin Schärli

 

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3. ボーア人とイギリス人の進出

モショエショエのレソト王国は、ズールー王国の恐怖と暴力による支配ではなく、融和による統治を原則としました。

レソトでは常備軍は作られず、地方や部族の自立性は尊重され、公の場で民衆が公共の問題を討論するように奨励されました。このような自由な雰囲気が醸成されたのは、リーダーであるモショエショエの存在があったからでした。

モショエショエは「平和とは草を育てる雨のごときもの。戦争とは草を枯らす風のごときもの」と述べ、荒れ狂う南部アフリカの諸国家の中で特異の立場を貫き、終わりなき戦争に疲れた人々の拠り所になりました。

 他の部族から白人宣教師の話を聞いたモショエショエは、宣教師が侵略的な白人に対して大きな外交的役割を担うことになるはずだと確信しました。

グリカス族のクリスチャンであるアダム・クロズは、1833年6月にモショエショエに3人のパリ福音宣教協会の宣教師を紹介。3人の宣教師は外国人顧問団となり、ヨーロッパ世界についての知識をもたらすとともに、ヨーロッパから近代的な重火器の導入も助言しました。

 

ボーア人のグレートトレック

1806年、イギリス軍がケープタウンを占領し、約5,000名のイギリス人植民者が入植しました。

ケープ植民地には17世紀からオランダ人やフランス人、ドイツ人といったヨーロッパ各地からの移民の入植が進み、ボーア人(アフリカーナー)という集団を形成していました。

ボーア人は黒人奴隷を使った農業を経営していましたが、イギリスは人道的観点から「黒人奴隷の解放」を宣言し、ボーア人の農業経営を大きく圧迫しました。またオランダ語の使用は禁じられ、英語が話せないボーア人は政治・経済的に不利益を被るようになり、たまりかねたボーア人たちは集団で移動を開始しました。

1835年から始まったボーア人の大移動は「グレート・トレック」と呼ばれます。

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Work by Discott

最初の大集団はファール川とカレドン川の間にあるハイフェルトの草原地帯にたどり着きました。ここにはズールーから入植しソト人やツワナ人を追い出して定着していたンデベレ王国がありました。ボーア人は優位な武器を活用しンデベレ人を追い出しハイフェルトに定着します。そして第二波・第三波のボーア人集団は、既にハイフェルトの土地が占領されていたこともあり、さらに北上しズールー人の領土にまで侵入していきました。ボーア人とズールー人の血みどろの戦いの末、ズールー国家は崩壊。

1852年に現在の南アフリカの首都プレトリアを中心とするトランスヴァール地域に「トランスヴァール共和国(南アフリカ共和国)」が成立。1857年、オレンジ川以北の領土にも同様に「オレンジ自由国」が成立することになります。

 

詳しくはこちらの記事をご覧ください

reki.hatenablog.com

 

ソト人の独立を守る戦い

さて、ンデベレ人を追い出してハイフェルトを占領したボーア人ですが、彼らはこの土地はソト人やツワナ人が放棄したと考え入植を進めました。

しかし「一時的にンデベレ人に追い出されていただけ」のソト人とツワナ人は再びハイフェルトに戻ってきました。ハイフェルトの全域はたちまち、ボーア人、ツワナ人、ソト人の集団の争いの場となりました。モショエショエのレソト王国はカレドン川の肥沃な牧草地帯を支配しており、ソト人とツワナ人を吸収して争いを避けようとしていました。

この混乱に拍車をかけたのがイギリスでした。

イギリス軍人のハリー・スミスは1848年に「原住民の全首長の保護」のため「オレンジ川とファール川の全域をイギリスが併合する」ことを宣言。この領域の中にレソト王国の全域が含まれていました。モショエショエからすると、この宣言は到底受け入れるわけにはいきません。1851年、ウォーデン少佐がこの決定を実行に移そうと部隊を進めてきたところでモショエショエのソト人の部隊と衝突が起こり、フィルフートの戦いでイギリスは敗北を喫しました。翌年、スミスの後任のジョージ・キャスカート将軍が、モショエショエに受けた屈辱を晴らそうとタバ・ボシウへ攻撃をしましたが、再びソト兵の激しい攻撃を受け38人のイギリス兵が死亡しました。

 

4. 第一次~第三次バソト戦争

イギリスはハイフェルトの支配を諦めて領地をボーア人に譲り、1854年にオレンジ自由国が成立しました。

イギリス人撤退後、レソトが支配する肥沃なカレドン川流域を今度はボーア人が奪おうとしてきました。1858年、オレンジ自由国第二代大統領J.N.ボショフがレソトに宣戦布告し、ボーア人部隊がレソト王国に侵入し牛を奪い、多数の宣教所を破壊しました。

南アフリカの国や州の争いの背景にはキリスト教伝道団同士の争いという側面もありました。レソトに基地を置いたのはパリ福音協会でしたが、ボーア人はメソジスト派伝道協会で、経済や政治以外にも宗教上の対抗関係も絡んでいました。

しかしこの時はボーア兵は、騎馬したまま重火器を操るソト兵の逆襲にあい、要塞タバ・ボシウに侵入できず、逆にボーア人の家屋や農場がソト兵のコマンド部隊の襲撃を受けたため、ボーア兵は撤退を余儀なくされ、モショエショエが勝利を収めました。

 

第二次バソト戦争の敗北

1865年、再び自由国のボーア兵はレソトに侵入。第二次バソト戦争が勃発しました。

8年前とは違い、オレンジ自由国は人口が増えて兵力が増し、有能な指導者であるJ.H.ブラント大統領に率いられていました。

一方でレソトでは、モショエショエが80歳近くと老い指導力が低下している上に、後継者の息子たちの争いが起こっていました。

自由国軍は農作物や家畜を奪いながら各地の要塞を落としていき、モショエショエの次男で北部首長モラポが降伏したため、モショエショエは降伏を余儀なくされました。

 

完全降伏からのイギリス併合

しかしまだ敵対関係は続きます。二人のボーア人が係争中の国境沿いでソト人に殺害される事件が起きました。ブラント大統領はオレンジ自由国で起きた犯罪であるとして、犯人の引き渡しを要求しますが、モショエショエはこの事件はレソト国内の問題であるとして引き渡しを拒否。これをきっかけにして1867年7月に三度目の自由国軍のレソトへの侵入が起こりました。

この戦いでタバ・ボシウを除くレソトの国土の大半がオレンジ自由国に占領されます。モショエショエはオレンジ自由国に領土の大半を割譲する降伏条約に署名することになりました。

ところが1868年3月、レソトがオレンジ自由国に併合される直前のタイミングで、ケープ植民地総督で南アフリカ駐在イギリス高等弁務官のフィリップ・ウォードハウスにより、劇的にレソトはイギリスに併合されることになるのです。

老獪な政治家であるモショエショエは、いずれボーア人が進出してくることを事前に予想していたのでしょう。

1860年代の初頭から、モショエショエはイギリスの保護を得る交渉を水面下で進めていました。モショエショエは好戦的なボーア人よりは、イギリス人のほうがレソトの民から搾取することにそれほど執着しないだろう、と考えました。

ウォードハウスは、ハイフェルトがボーア人により統一されると、ソト人らの難民が近隣に逃れて再び混乱が起こるだろう、というモショエショエの主張に同意し、南アフリカの安全のためにイギリスは責任を果たせなばならない、として本国の内閣を説得しました。レソトは「バストランド(ソト人の国)」という名前でイギリスの保護領となり、ボーア人はこの決定を渋々受け入れざるを得ませんでした。

 

バストランドの領土の縮小

ウォードハウスは自由国の弁務官らは、英領バストランドと自由国の国境について協議し合意をしました。

もともとソト人の領域は、肥沃なカレドン川の流域と山岳地帯からなりますが、協議の結果、カレドン川流域は自由国に割譲され、英領バストランドは狭い山岳地帯に限定されることになりました。

山岳地帯は耕作地が少なく、人口も平地に比べると少ないため、多くのソト人がカレドン川流域に住み続けました。

そのため、現在でも南アフリカに住むソト人のほうが、レソトに住むソト人よりも多くなっているのです。

ソト人を率いた英雄モショエショエは、1870年3月にタバ・ボシウで死亡しました。

彼はソト人を始めとする流浪民を収容して平和的な国を作り上げ、必要があれば戦い国を守り抜き、イギリスの保護領となることで国を残す可能性を将来に託して死亡しました。

そして彼の「賭け」は大勝利をおさめます。英領バストランドは1966年に独立。当時勃興した多くの国が姿を消す中で、レソト王国は現在も小国ながら存続しているのです。

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まとめ

レソトの建国には、有能なモショエショエの存在が大きいです。

モショエショエが思った通り、イギリスはその後レソトを征服することに興味を示さず、領土の割譲はあったものの、ソト人の主権と富を保護しました。

ただ、関心がなかったというのは、裏を返すと投資やインフラ整備をほとんどしなかったということで、保護領時代もイギリスはレソトの発展のための道路整備や鉄道整備などはほとんどしませんでした。

それは現代のレソト王国のインフラの未発達と経済発展の遅れに直結しています。

 

参考文献

"The birth and the existence of Lesotho: A diplomatic lesson" Kutloano Pheko, 03 July, 2017 

"南アフリカの歴史" レナード・トンプソン著, 宮本正興,吉國恒雄,峯陽一,鶴見直城 訳 明石書店 2009年11月30日初版第一刷