社会との交流を一切断って孤独に暮らすということ
成果、昇進、嫉妬、競争、義務、税金、借金、老後……
もうそんなことであれこれ悩みたくない。いっそ山奥や無人島にでも移住して、社会との関わりを断ってのんびり暮らしたい。
そんなことを想像したことはないでしょうか。
これまで享受してきた娯楽や快適な生活を捨て去るのは辛いでしょうが、煩わしい社会のあれこれを気にしないで生きていけるのは、それはそれで魅力的ではあります。
代わりに今日食うものの心配をしなくてはいけなくなるので、悩みはむしろ増えるかもしれませんが。
今回取り上げるのは、命と信仰を守るために社会から完全に疎外した生活を40年以上送っていた、シベリアのある家族の話です。
1. ソ連の地質学者たちの"発見"
Photo from Smithonian.com
1-1. 森林の奥地に小屋を発見
1978年、ソ連の地質学者たちが現在のロシア連邦ハカス共和国付近のタイガ(針葉樹林の森林)の探索を行っていました。
シベリアのタイガは深い森に覆われた土地で、冬は雪にすっかり埋もれ人間にとって非常に住みづらく、世界で最も過疎な地域の1つ。
ヘリコプターで探索を行っていた一行は、上空から「人工的に手が加わったと思われる」庭のような場所を発見しました。
そこは最寄りの町から150マイル(241キロ)も離れた森林地帯で、普通に考えたらこんなところに人が住んでいるなんて到底考えられない。
同行した地質学者の1人、ガリナ・ピスメンスカヤはヘリコプターを降りて実地調査をするように主張。メンバーは近くの平地にヘリコプターを着陸させ、庭の近くに歩いて近づいていきました。すると木造の小屋を発見しました。
メンバーは「いくつかの物を詰めた贈り物を片手」に、「もう片手にはピストル」を握りしめ、恐る恐るドアをノックした。
するとドアが開き、長いヒゲが生えた男の老人が、目に恐怖の色を浮かべて現れた。
老人はすぐにはしゃべりださず、しばらく沈黙した後にかすれた声で言った。
「ようこそ客人、遠いところをお疲れでしょう、中にお入りなさい」
1-2. ルイコフ一家との出会い
小屋の中は薪ストーブで暖かったが、床はジャガイモの皮やナッツの皮で覆われて汚く、窓は1つしかなく薄暗く、古びた本が何冊か置いてある。
小屋の中にいたのは老人を含めて5人、老人と4人の子どもたちでした。子どもは彼らを見た途端に狂ったように泣き叫び始めた。
地質学者たちの記録には以下のようにあります。
静寂は阿鼻叫喚に取って代わった。我々が見ることができた人影は2人の女で、1人はヒステリックに祈りはじめた、「これは私たちの罪です、私たちの罪です!」。もう1人は後ろ向きに立ったあと、床に崩れ落ちた。小さな窓から入る光が彼女の顔を照らし、恐怖の目が見えた。私たちは今すぐにここから出なくてはいけないと悟った。
この老人の名前は、カルプ・ルイコフ。
革命ソ連の宗教迫害から逃れて1936年にシベリアに逃亡した、古儀式派無司祭派のうちの小礼拝堂派(チャソヴェンヌィエ)の信徒でした。
この一派は17世紀に発生したセクトで、国家が推進するロシア正教会への恭順を拒否し信仰を守り抜いた一派。近代化を進めるピョートル1世の時代に大弾圧にも耐え、信者は教えを守っていましたが、革命ソ連の反宗教的な政策には耐え切れず、多くの信徒は粛清されたり、国外に逃亡したりしました。
1936年のある日、赤軍の憲兵がルイコフの家にやってきて彼の兄弟を目の前で射殺。すぐにルイコフは荷物をまとめ、家族と共にシベリアのタイガの中に消えていったのでした。
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2. ルイコフ一家との交流
2-1. ルイコフ一家の家族構成
当時小屋にいたのは、カルプと息子のドミトリーとサヴァン、娘のナターリアとアガフィア。妻のアクリーナは1961年に飢えで他界していました。
4人の子どもたちは、両親が持っていた古い聖書を唯一の教材として教育を受けていました。聖書を読んで写し書きをしていたので、彼らはロシア語の読み書きができました。
ですが、当然1936年から1978年の間に起こった世の出来事を一切知らない。第二次世界大戦のことももちろん知らない。子どもたちが知っていたことは、聖書の物語と両親が語る1936年以前の出来事、そして深い森林のことだけでした。
2-2. 地質学者とルイコフ一家の交流
小屋から退散した地質学者一行は、少し離れた場所にテントを張り、しばらくキャンプ生活を送ることにしました。
すると、すぐにルイコフ一家が「手土産」の服と食べ物、パンを手にして恐る恐るやってきて言った。
「申し訳ないが、これを受け取るわけにはいかない」
カルプ曰く、最も若い子どもはパンを見たことも食べたこともなかったらしい。そしてこのような美味しいものを一度食べてしまうと、外の文明への憧れが湧いてしまう、とでも思ったのかもしれません。
地質学者たちは、1936年から現在までどのような技術が進歩しているかを話してみせました。セロハンテープを見せるとカルプは「うわぁっ!ガラスなのに柔らかい!」と叫び、テレビを見せるとぎゃあっという叫び声を上げた後、すぐに虜になったそうです。
代わりに一家は、タイガの中でいかに動物やキノコなどを採るかのサバイバル術を教えてくれました。
3. 一家のその後
Photo from Smithonian.com
地質学者たちは数年現地に留まり、一家に市民生活に戻るよう説得を試みました。
しかし、一家は頑として拒否しつづけました。
1981年の秋、子どもたちのうち3人、ドミトリー、ナターリア、サヴァンが相次いで死亡。2人は腎臓疾患で、1人は肺炎が原因でした。
3人の死亡後、地質学者たちは既に80歳代になっていたカルプと娘のアガフィアに150マイル離れた町に移住するよう説得しましたが、それまた彼らは拒否しました。
そして1988年2月16日、カルプが死亡。
1人残ったアガフィアは、町への移住を拒否し続け、現在もなお1人で森林の中で暮らしているそうです。
まとめ
いかがでしょうか。ルイコフ一家の生活、うらやましいと思えますでしょうか。
ぼくはやっぱり、家族以外の人間と交流を絶ち、昨日も今日も明日も同じ生活が続く、というのは耐えがたいです。この世に生きた証を残すとか、子どもに誇れる仕事をするとかは俗人の考え。 そういう我を捨て去り穏やかに生きるだけの悟りを開ければ、もしかしたら耐えられるかもしれません。
欲を捨て去り、執着から自由になることは、理想的な姿かもしれませんが、いざそれをやろうとするのは結構厳しいですよね。
ルイコフ一家のように、社会から隔絶された場所にでも行かないと無理な気がしますが、果たしてそれは幸せな生活と言えるのでしょうか。
俗にまみれた僕にはわかりません。
参考・引用
TODAY I FOUND, THE SIBERIAN FAMILY WHO DIDN’T SEE ANOTHER HUMAN FOR OVER 40 YEARS