ロシアの食卓の過去と現在と未来
留学時代に知り合ったモスクワ在住の友人がいまして、SNSでつながっているのですが、投稿を見ると結構良いもんを食ってんですよね。
寿司ロールのボックスを囲んでピースとかしてる。
ロシア料理食わないの?と聞いたら、あんまり好きじゃないと言ってました。
その子いわく、モスクワではロシア料理屋があまり人気がなくて、オシャレな人たちの外食といえばもっぱら日本料理かイタリア料理らしい。
こんなこと30年前のソ連時代では考えられなかったでしょう。
ソ連時代は帝政ロシアの料理をベースにしながら、国民の食生活の均質化を図ったわけですが、美味しさなど考慮されていないからとにかくマズかったそうです。
今回はソ連時代の民衆の食生活をベースにしながら、前後のロシアの食文化についてまとめていきたいと思います。
1. ロシア料理の特徴
ロシア料理と言われてもあんまりピンと来ないと思います。知ってる料理といえば、ピロシキ、ボルシチ、キャビアくらいですかね。本題に入る前に、イントロダクションとしてロシア料理の特徴をいくつか挙げてみたいと思います。
1-1. ライ麦パン
黒パンとも言います。ライ麦で作られたパンで、酸っぱい味が特徴。白パンより栄養価が高いので、日本の学校給食にも出されています。
ロシア人のライ麦好きは突出していて、2002年のライ麦生産は世界の1/3をロシアが占めています。ライ麦は痩せた土地でも育つため、伝統的に黒パンが愛されていて、現在では品種改良や農業技術の発展で白パンも安く買えますが、それでもロシア人はライ麦パンを愛してやみません。
1-2. ビーツ
Image from Quadell
ビーツはあまり馴染みがありませんが、日本では「赤カブ」という名でたまにオーガニック食品店で売ってるのを見ます。
ボルシチに入れたり、茹でて刻んでサラダにまぶしたり、日常的に食べる身近な野菜です。砂糖大根(テンサイ)の仲間で、身には糖分が多く含まれて甘い。ミネラルやビタミンが豊富で、体には大変よい食品だそうです。
1-3. カーシャ
Image from Laitr Keiows
わかりやすくいうと「穀物粥」です。
大麦、小麦、ソバ、燕麦などで作られ、煮る際に牛乳を入れるものと入れないものがあります。穀物を牛乳で煮るとか、日本人の感覚からしたらちょっと無いですが、ロシア人にとっては大変重要な食べ物です。
日常的に食べる食事であると同時に、宗教儀礼や冠婚葬祭にも欠かせないもので、結婚披露宴そのものが「カーシャ」と呼ばれるほど重要で、新郎新婦はカーシャを一緒に食べて初めて夫婦になるとされました。
現在でも朝食にカーシャを食べるロシア人は多いようです。
1-4. キノコ
ロシア人は短い夏を満喫するために、郊外の別荘地・ダーチャで過ごす習慣があります。その時の楽しみが、森に生えているキノコを採ること。
別荘につくと大きなカゴを抱えていそいそとキノコを探しに行き、夕食には採ってきたキノコを焼いたり炒めたりして食べるそうです。
1-5. 魚
歴史的にヴォルガ川で採れる淡水魚はロシア人の食生活を支えてきました。
宗教的に肉食が禁じらた期間が1年のうち200日近くもあったため、人びとは様々に工夫を凝らして魚を料理しました。特に好まれて食べられたのは、キャビアの親であるチョウザメ、ドジョウ、コクチマス、ウグイの仲間など。後に海の魚であるニシンやタラを食うようになりました。
1-6. 塩、胡椒、香草
ロシア料理は、日本の醤油やタイのナンプラーのような調味料はなく、味付けはシンプルに塩と胡椒。それに香りづけのハーブの類をよく用います。パセリ、ディル、コリアンダー、セロリ、サフラン、エストラゴンなどなど。
夏の別荘・ダーチャにはハーブ園もあって、庭先でハーブを摘んでサラダや肉や魚の焼き物にたっぷりかけて食べるのです。ゼイタクですねえ。
2. 帝国ロシアの拡張と貴族料理の発展
2-1. 庶民は何を食べてきたか
概してロシアの庶民の食卓は質素なものだったそうです。
黒パン、カーシャ、スープが中心で、自宅で栽培する野菜やハーブ、そしてキノコ、魚が加わる。それらはスープに入れたり、塩漬けや酢漬けにして食べる。
これら庶民の食生活は近代以降も大して変わらず、貴族がヨーロッパ文化を取り入れて豪華絢爛な食生活を楽しんでいたのと対象的でした。
2-2. 西欧料理の導入
17世紀末から18世紀前半にかけて帝位についたピョートル大帝は、遅れていたロシアを強国にすべく軍事・経済・教会・貿易など様々なヨーロッパ流の近代改革を敢行。帝政ロシアをヨーロッパの強国にのし上がらせたどえらい男です。
もちろん料理もヨーロッパ化の対象に含まれており、皇帝の強力な指導のもとヨーロッパの食文化がどんどんもたらされました。乳製品やジャガイモ、パスタ、コーヒーなどなど。
貴族たちは競うようにヨーロッパ出身の料理人を雇い、食卓をヨーロッパ風に彩りました。特にフランスかぶれの者が多く、ボルドーのワインを飲み、パリ直輸入のお菓子つまみ、パリにグルメツアーに行くほどフランス文化に憧れを持ったのでした。
2-3. 贅沢な貴族の晩餐
当時の富裕層の食生活はちょっと信じられないほどで、度を超したグルメ文化が花開きました。
例えば、19世紀初頭のグルメ王ラフマノフ伯爵は、200万ルーブル以上という相続財産をわずか8年で使い果たしました。本当かどうか分かりませんが、彼は自分の家禽にトリュフをエサとして与え、ザリガニを水ではなくクリームとパルメザンチーズの中で飼った、と言われています。
2-4. ロシア化と地方料理の取り込み
その行き過ぎたヨーロッパかぶれはロシア人にも嫌悪感を与え、「ロシア回帰」を求める声が上がりました。長いヨーロッパ化の中で忘れ去られたロシア料理を発掘し、伝統を評価しながらもヨーロッパ料理とミックスさせて「ロシア料理」を改善していくという方法が取られました。
さらにロシア料理の幅を拡張したのが、帝国の領土の拡張と鉄道網の整備に伴う異民族料理の導入です。ウクライナ、カフカス、中央アジア、シベリア、極東など領土を拡大していきましたが、征服された地の料理を「ロシア料理」として取り入れることをためらいませんでした。
ボルシチは元々ウクライナ料理だし、シャシリク(串焼肉)はカフカス料理、ペリメニ(水餃子)はシベリア料理、プロフ(焼き飯)はウズベク料理、サツィヴィ(クルミのペーストを入れた鶏煮込み)はグルジア料理。
このような異民族の料理をロシア人は「地方料理」として食卓に取り入れていきました。
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3. ロシア革命 - 貴族の料理を庶民にも
このように、ロシア料理は伝統的な料理をベースにフランス風にアレンジされ、さらに異民族の地方料理が加わって、土台は単純でいて上部や周辺は多様な面を見せる料理に体系化していきました。
ですが基本的にはそのような豪華な食文化を享受するのは貴族や富裕層で、庶民は昔ながらの質素な食事をしていました。
1917年に成就したロシア革命とその後の社会改革は、そのように二分していたロシアの食文化を平準化することを目指しました。
ウクライナ料理のボルシチがロシア全体に広がったのはこの頃だし、シベリアやウラルの地方料理が頻繁に台所に登場するようになり、ビーフ・ストロガノフも庶民の口に入るようになりました。
味はともかく、形式的には庶民ですら昔の貴族の料理と様々な地方料理を食すことが可能になったのでした。
4. 女性を台所から解放せよ
ソ連が目指した社会改革の1つに、いかに女性を台所から解放するか、という問題がありました。ソ連の指導者は建前として「女性の社会進出の促進」を掲げており、そのために物理的に家事労働を少なくさせ、浮いた分を他の労働力に回そうと考えました。
その1つのソリューションが「共同食堂」です。
1923年にモスクワに建設された協同組合「人民の栄養」は、3000人分のスープを一度に作れるほど大規模なキッチンを持っていました。この種の大規模食堂はロシア各地に建設され、1933年までに105にまで増えました。
家は寝るだけの場所になり、生活の中心は職場に移ったわけです。
肝心の味についてですが、ソ連では味についてやかましく言うことは「ブルジョワ的」であるとして非難の対象となりました。
共産主義の進歩的思想からすると、食事はあくまで「エネルギーの摂取」であり、「たくましい肉体と精神」を得られる健康的な食事ができれば目的は達成できており、味などはどうでもよい。味を追求するような時間があれば、1グラムでも多くの鉄や麦を作れというわけです。
そういうわけだから、共同食堂の料理はまあマズかったんでしょうね。
5. スターリン時代の食卓
1924年にレーニンが亡くなると、トップの座を巡った泥沼の政争が勃発し、政敵を駆逐したスターリンが1930年代後半から独裁体制を握ることになります。
1920年代後半には、重工業を中心に置いた5カ年計画を実行する一方で、コルホーズによる農業の集団化を推し進めました。
軽工業軽視で日常品が不足しがちな一方で、政府は「豊かで物があふれ幸せな生活をおくる人民」を喧伝するようになりました。
1934年10月4日付けの「夕刊モスクワ」には以下のようにあります。
食料品部門には38種類のソーセージ、そこには、これまでどこでも売られていなかった新製品が20種類含まれている。(中略)菓子コーナーにはキャンディやケーキ類が200種類以上…。パン売り場には50種類以上のパンがある…。肉は冷蔵用のガラスケースに陳列されている。魚コーナーでは生きたコイ、レシチ、カワカマスなどが水槽で泳いでいる。
国民生活の豊かさを演出するスターリンの方針で、シャンパンのような高級品の普及も奨励されました。1936年に「シャンパンは物質的幸福の、よい生活な重要な印である」として、大規模な増産体制が組まれました。
6. 食糧不足、飢餓、行列
Image from Real USSR, QUEUES
そのような贅沢品が製造されて「豊かな人民」が宣伝される一方で、普段の食事は一向に豊かになりませんでした。公共食堂のメニューは「キャベツのスープ、ソバのカーシャ、煮た牛肉」などに限定されるようになり、しかも味はマズイ。
食堂やレストランでは、メンチカツやステーキ、ハンバーグなど豪華なメニューが並びますが、品不足で書いてはいるがほとんど作れない状態。
さらに工業化で汚水が川に流入して魚も採れなくなり、食卓はますます寂しくなっていきました。
6-1. 農業不振と飢餓
コルホーズによる集団農業は農村の荒廃を招き、平行して行われた厳しい調達の結果、農村で大規模な飢餓が発生しました。
農民は全てコルホーズかソフホーズに属し、農業の集団化が進められましたが、作っても作っても国家に吸い上げられる仕組みは農民の労働意欲を削ぎ、効率は最悪。
そこで1930年代半ばから、わずかながら自営農地が許され自家消費や市場での売買を許すことになりました。すると、全体の面積のわずか3%の面積の自営農地で生産される食料が、国全体の1/3近くを生産するというアンバランスな事態になってしまったのでした。
6-2. 行列
日用品・食料品は恒常的に不足しており、何かちょっとしたものを買うにも行列に並んで待つ必要がありました。
ロシア人は行列を見つけると、みんな何を待っているか分からないけどとにかく並んで待つ、という習性がついたそうです。
最先端の宇宙技術でアメリカに対抗する一方、国民生活は貧しいままであることを皮肉った有名なアネクドートがあります。
ヴォストーク1号の成功で人類は宇宙空間への進出が可能となった。
共産党の政治集会でもこの偉業はソビエト共産党の偉業と声高らかに宣言された。
「同志諸君。もう少し計画が進めば諸君自らの宇宙船で自由に宇宙に行ける日がやって来るであろう」
「すいません同志。それを我々は何に使えば良いのでしょうか」
「もうマッチを買う為長い行列に並んで買う必要はなくなる。宇宙船に乗ってマッチのある町まで一飛すれば、同志諸君、並んで買わなくてもマッチを買えるであろう」
6-3. 酒がない
ロシア人といえば「酒好き」がステレオタイプなほど濃い飲酒文化を持っています。
現代でもアル中は社会問題で、知り合いのロシア人曰く、ウォッカボトル1本が1ドルで買えるらしいです。
「ウォッカが仕事の邪魔になるなら、辞めればいい!」
「何を?」
「仕事を!」
こんなアネクドートがあるほど人びとは酒を愛してやみませんが、品不足や禁酒令で酒全般が手に入りにくく、庶民は砂糖を原料にして密造酒「サモゴン」を自家製造していました。 どうしても酒も砂糖も手に入らない場合は、工業用アルコールを飲んだり、オーデコロンを飲んだり、果ては殺虫剤、接着剤、靴クリームに含まれるアルコールすら摂取しようとしていたのでした。恐ろしい…。
まとめ・ロシアの未来の食卓
ソ連崩壊後しばらく経済の混乱が続きましたが、プーチンが大統領に就任した1999年以降、 経済が安定し富裕層を中心に豊かな食生活を楽しむ余裕が出てきているようです。
冒頭に述べたぼくの友人(富裕層)も、異様に物価の高いモスクワで頻繁に外食にいくほど。伝統のロシア料理やウォッカは見向きもせず、オシャレなヨーロッパや日本料理に舌鼓を打ち、ワインやビールを楽しんでいます。
友人が語るには、
ソ連崩壊後の混乱期にのし上がった新興財閥オリガルヒが、かつての帝政ロシア期の金持ちたちのように信じられない程の贅沢三昧の暮らしをする 一方、強烈な貧富の差が広がり多くの貧しい人びとが食うや食わずの生活をしている。
特に若い人の間ではそのような貧富の格差に心を痛める者は多く、大きな社会の歪みが生まれていることに危機感を感じている。
しかし、いま国を強くして発展させないと、また「いつか来た道」を辿ってしまう、という思いは強く、豪腕のプーチンに対する信頼は厚い。
また強欲なオリガルヒとは違い、社会貢献や救済事業に力を入れる新興企業の若い経営者も増えてきており、自分たち新しい世代の登場でロシアの社会が変わっていくはずという期待もある。
「いまこの時期を耐えれば、貧富の格差がなくなったもっといい国が作れるはず」という祈りに近い願望。
現状肯定でも否定でもない、未来への希望と不安で揺れるロシア人の本音を聞いた気がしました。
参考文献・引用 世界の食文化19 ロシア 石毛直道監修, 沼野充義,沼野恭子 農文協
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