「笑うこと」が非難された中世ヨーロッパ
おかしな話や映像を聞いたり見たりして、大いに笑うことは普通のコトです。
科学的にも笑いは推奨されてもいます。ストレス発散や免疫力の向上など、様々な医療効果があることが実証されています。
テレビ番組もネットの記事も、基本的には「人を笑わせよう」としてますから、現代は歴史上で最も高度に笑いが発達した時代と言えるかもしれません。
ところが中世ヨーロッパでは、笑いは「なるべく控えるもの」であり、大笑いすることは「不道徳なこと」であるとされました。今とは真逆ですね。
笑いが禁止された世界とはどのようなものだったのでしょうか。
記事三行要約
- イエス・キリストは笑いを非難したとされ、笑いは糾弾されるようになった
- 笑いがいかに悪徳かの論理武装がなされ、修道院では笑ったものは厳しく罰せられた
- 徐々に笑いに対し理解が生まれ「笑いは魂の休息」とみなされるようになっていった
1. アリストテレス「教養人はウィットに富んだ笑いを」
古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、著書「ニコマコス倫理学」の中で、教養ある人は陽気に会話を楽しんでも構わないが慎みを持って行うべきである、「エウトラペリア」な冗談を実践するべきである、と述べています。
当時の古代ギリシアでは知識人は、行き詰った雰囲気をブレイクスルーし新たに進歩させるための技術「エウトラペリア」を持つべきだとされました。
エウトラペリアはなかなか説明が難しいのですが、例えば険悪な雰囲気の会議の中で、ちょっと気の利いた一言を言ってその場の空気が和んで、円滑に物事が進むようになる、というニュアンスのものです。
しかしこの考え方は後に否定的な意味を持つようになり、エウトラペリアは「狡猾で無作法な者」を指すようになりました。
緊張をブレイクスルーするのは意外と下ネタとかだったりしますから、下劣だと嫌がられたのかもしれません。
ラテン詩人マルティアリスも、不作法な理髪師をエウトラペルスと呼んでいます。
エウトラペルスな理髪師は仕事がとにかく遅い
ヒゲを剃る間に、ヒゲが生えてきそうなほどだ
(Martial, Epigrams. LXXXIII. ON LUPERCUS.)
その理髪師はいっこうに仕事をせずに、ぺちゃくちゃ喋くっていたんでしょうね。
2. 聖バシリウス「イエス・キリストは笑わなかった」
エウトラペルスの「悪徳」は、キリスト教徒の間で卑しむべきものとみなされるようになりました。
聖パウロは「エフェソス信徒への手紙」の中で、エウトラペリアを控えるように心がけるべきものとしてリストアップしています。
卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません(5章4節)
この考えを引き継いだ中世の修道会は、聖なる教えを実践すべく、笑いを抑制しようとしました。
4世紀のギリシア教会の教父聖バシリウスがまとめた「小会則」にはこうあります。
主はその生涯において笑った者を非難された。だから、キリスト教徒が笑うことができる状況はひとつも存在しないことは明らかである……
聖ヨアンネス・クリュソストモスは笑いを禁ずる理由をより詳しく述べています。
この世は笑うために作られた舞台ではない。われわれは大笑いをするためではなく、われわれの罪を悲しむためにここに集められているのである…。
われわれに楽しむ機会を与えるのは神ではなく、悪魔である…。
笑ったり冗談を言ったりすること自体は明白な罪には見えないが、それは明白な罪へと導く。たとえば笑いはしばしば悪意を含んだ言葉を生み、それらの言葉はさらに不正な行為を生む。そのような言葉や笑いはしばしば嘲笑や侮辱をもたらし、それが暴力や傷害を引き起こして、それが殺人や犯罪を生じさせる。だからあなたがたが忠告を受けいれるつもりなら、悪を含んだ言葉、邪悪な行為、暴力、傷害、犯罪だけでなく、場所柄をわきまえない笑いも避けなければならない。(ジャニーヌ・オロウィッツとソフィア・メナシュの引用による)
確かにしばしばジョークは人を傷つけるし、特に信仰や利害関係がネタになると、深刻な争いの種になる場合もあります。
だからと言って全部の笑いがダメってのは潔癖というか、極端な気がしますが、とにかくイエスの行き方を実践する修道士は笑ってはいけない、と考えられるようになったのでした。
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3. エティエンヌ「こら!笑っているヤツは誰だ!?」
修道院では、笑う行為はもちろん、笑いにつながるあらゆる言葉や行為が禁止されました。
修道委員長は、笑う修道士を見つけるとこのように警告したそうです。
お前は何をしているのか?お前のしていることをよく考えよ。会話の時間は陽気に笑う時間ではなく、われわれの犯した罪を悲しむ悔悛の時間なのだ
現在のフランス・コレーズ県にあるオバジーヌ修道院の創立者エティエンヌは、めちゃくちゃ厳しい男だったようで、修道士が少しでも笑ったら厳しい罰を与えました。
「オバジーヌの聖エティエンヌ伝」によると、
教会の中でだれかが少し目を揚げたり、笑みを浮かべたりすると、ただちに頭で棒をぶたれたり、顔に平手打ちをくらったりした。とりわけそれが子どもであれば、彼をこらしめ他の子どもたちに教父を与えるために、すべての者の耳に届くほどの大きな音を立てて殴られた
修道会が発達すると、なぜ「笑い」を禁止しなくてはいけないかのリクツも発達しました。それだけ笑いを禁止するのが難しかったということかもしれませんが。
ヌルシアの聖ベネディクトゥス(480〜547頃)は、会で定めた会則に以下のように記しています。
冗談や笑いを引き起こす無益な言葉については、われわれはそれを禁じ、あらゆる場所から永久に追放する。弟子がそのような言葉のために口を開いたらなら、その者を許してはならない(第6章)
聖ベネディクトゥスはまた宗教的な観点から、笑いの禁止と謙遜を関連付けて修道士が持つべき徳目を示しています。
謙譲の第十一級は、修道士が話すとき、静かに、笑わず、控えめに、重々しい態度で話すこと、口数が少なく、その言葉は筋道が通っていることである。また「分別のある人は言葉を吟味する」と書かれているように、騒々しくまくしたてないことである(シラ書)
4. ヒルデガルド「笑いは悪魔の特徴」
9世紀に入ると、「笑い」は「悪魔」と結び付けられ、人びとを堕落させる背徳への道であると論理展開されるようになりました。
9世紀ドイツのベネディクトス系女子修道会の修道士ヒルデガルド・フォン・ビンゲンは、笑いは悪魔の特徴であると断言。
彼女の著作ではしばしば、悪魔はおどけた調子でしゃべり、聖女ウルスラに捧げる聖歌では悪魔の笑いが災いをもたらすとしています。
さらに彼女は「笑い」が神学的な問題のみにとどまらず、科学的観点からもいかに笑いが悪であるかを論証しています。
「病因と治療」という論考によれば、「熱狂的な歓喜は肉の快楽と結び付けられる」。
つまり、身体を震わせて笑う時の気の流れと、射精を引き起こす気の流れは同じものであり、笑いに伴って出る涙は、熱い抱擁のうちに放出される精液に類似している、というのです。
そもそも原罪(アダムとイブから受け継がれた罪)以前は「笑い」は存在せず、悪魔の囁きによって人間は笑いを手に入れてしまった。悪魔の笑いは人間に意味のない音を出させて、人間を動物のレベルに落としてしまう、というのがその主張。
9世紀当時は終末論が広く信じられ、イエス・キリストの復活と最後の審判が近いと多くの人が思っていたし、ペストの流行や度重なる飢饉、終わることのない戦争が続いていました。
もはや現世に望みはない、せめて来世によい生活ができるように神の教えを守りぬこう、と多くの人が考えたとしても不思議はありません。
5. 聖フランチェスコ「笑いは神に通じる行い」
10世紀以降になると、特に民衆に接する機会の多い聖職者の中で笑いに対して寛容な態度を取る者が見られるようになっていきました。
説教をする上で、笑いを取り入れると民衆はよく耳を傾けるし、とても有効である、というのです。
修道士が修道院長に会いに来た。
「院長さま、説教はどのようにすればよいでしょうか?」
「ふむ、説教は始めと終わりがよければ良いのだ。それから始めと終わりはできるだけ近いほうがよいな」
中世イタリアで最も著名な修道士で、フランチェスコ修道会を開いたアッシジの聖フランチェスコは、同時代の記録にもしばしば笑みを浮かべていたと記されており、元々芸人志望だったネアカな男だったようです。
フランチェスコの伝記によれば、「聖者はつねに心に喜びをもって生き、優しい心と歓喜という潤滑油を絶やさぬように心がけていた。憂鬱という恐ろしい病にかからぬよう、念には念を入れていた」とあります。
フランチェスコにとって喜びは神の領域にあるもので、笑う行為は神に近づくことでありました。
フランチェスコ修道会の修道士はよく笑うことで有名で、イングランドのフランチェスコ会修道会では、「カンタベリーの拠点では夜になると修道士が火の周りに集まって、濃い粥に水を加えて煮たり、酒を飲んで陽気に騒いだりした。オックスフォードでは、若い修道士がたいそう陽気に振る舞い、顔を合わせば笑い出さずにいられなかった」と、その笑い上戸っぷりが記されています。
6. トマス・アクィナス「節制の取れた笑いはいい笑い」
フランチェスコ修道会は少し極端ですが、人びとは少しずつ笑いを受け入れるようになっていきました。
13世紀の大学者トマス・アクィナスは「ニコマコス倫理学注解」において、適切な笑いを定義しました。
笑いは陽気さに通じる良い感情の「エウトラペリア」と、極端な「ボラマキア」の2種類あり、笑いの倫理もそれと同じく、控えめで品位のあるものでなければならない、としました。
人は一定の仕事しかできない限られた体力しかない。持続して働くには身体の急速が必要である。身体と併せて魂も必要で、魂を休息させるには快楽を与えて理性の中断をし、魂の疲労を癒やさねばならない。しかし極端な快楽は魂を悪い方向に導く。節度ある快楽が必要である。
至極まっとうなことをおっしゃってますね。
こうして笑いは「悪徳」から、「人の魂の疲れを癒やすもの」と位置づけられ、中世以降様々な笑いの文化が発達していくことになるのでした。
まとめ
笑いが禁止された世界なんて何かSFの世界みたいですが、中世ヨーロッパのかなり長い間、笑いは背徳の道と考えられ、非難されるものだったんですね。
笑いによって人が傷つき争いの元になる、というのも分からなくはないし、笑いによって人の心が平穏になる、というのもその通りで、現象をどのような観点で切り取るかで支配者の秩序と常識が決まってしまうのは、なかなか恐ろしい気もします。
参考文献 図説 笑いの中世史 ジャン・ヴェルダン著,池上俊一監修 原書房

- 作者: ジャンヴェルドン,池上俊一,Jean Verdon,吉田春美
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