3大バブル経済の2つ「ミシシッピ・バブル」「南海泡沫事件」
中国株の急落に端を発し、世界経済の行く先はますます不透明さを増しています。
これまで世界経済の成長を牽引してきた中国の急ブレーキは、世界同時不況を起こす可能性すらあると噂されてすらいます。
中国の外貨準備金不足を懸念する海外投資家の中国株売りが投資家たちの間での連鎖的な中国株売却に繋がり、株価が下がるから売られ、さらにまた株価が下がり、という悪循環をもたらして大暴落に発展しました。
このような株価の暴落のシステムは現代も昔も全く変わっておらず、18世紀にフランスで起こったミシシッピ・バブルも不安感から連鎖的な株価売却に繋がり、フランスを財政破綻させてしまいました。
このミシシッピ・バブルは、チューリップ・バブル、南海泡沫事件と併せて世界3大バブル経済と言われています。
これらのバブルがなぜ起こり、破綻したかを書いていきます。
※チューリップバブルは以前の記事【「株式会社」の誕生と発展】で書きましたので、併せてご覧ください。
1. 紙幣の始まり
イギリス紙幣の誕生
17世紀まで、ヨーロッパでは基本的に貨幣と言えば金貨や銀貨のことを指しました。
金や銀はどこの国や地域に行っても価値があるもので、大幅に暴落することもないので資産を変換する素材としてはうってつけでした。
ですが物理的に重たいので、そんなに常日頃持ち歩くこともできない。
そこでイギリスの銀行家たちは、金銀を顧客から預かって、その預かり証を発行することを始めました。その預かり証を持っていれば、好きな時に金銀と交換できる。
1690年代には預かり証の残高は、国内の通貨供給量を上回るようになりました。これがイギリスにおける紙幣の始まりです。
イギリスの株式ブームの発生と終焉
1694年、財政難に苦しむイギリス政府のために財源調達法が成立。
これは、120万ポンドを8%の利子で政府に融資する代わりに、紙幣(捺印手形)の発行権がある株式会社の銀行の設立を認める、というもの。これがBOE(バンク・オブ・イングランド)です。株式募集では1272人の投資家が集まり、彼らが金貨や銀貨で投資をし、それを基にしてBOEは紙幣を発行。政府に融資されました。
BOEの株価はすぐに20%も上昇し、それがさらなる投資の呼び水を生む。
このように1690年代のイギリスでは、一種の株式ブームが起きていましたが、結局財政難を克服できなかったイギリス政府により貨幣改鋳(コインの金銀率を減らす)がなされると、人々は株を売って良貨を買い求め、それをタンス預金してしまいます。一気にカネの流れは動きを止め、株式ブームは終焉を迎えてしまいました。
2. ジョン・ロー「紙幣を大量に刷れば景気がよくなる」
スコットランド人の経済学者ジョン・ローは、イングランドの株式ブームとその終焉を目の当たりにし、
「世の中に出回る通貨量を、金銀の量や質の制約から解放し、紙幣によって増やすことができれば景気はずっと良くなるはず」
と考えるようになりました。
貨幣の値打ちは購買力に対する「信用」にあるのであって、別に金や銀の値打ちに裏付けされているものではない。
そしてその紙幣発行のビジネスを自分で手がけることで、ヨーロッパの景気はずっと良くなる、と信じていました。
ローは地元スコットランドやイタリア・サヴォイア公などに、この「紙幣発行ビジネス」の話を持ちかけますが断られてしまう。
ところがこのローの儲け話に乗ったのが、やはり財政難に苦しむルイ14世のフランスでした。ルイ14世はフランスの絶対君主制を確立したカリスマ的な王でしたが、度重なる対外戦争や文化事業に多額のカネを浪費し、台所は常に火の車。
ローはこの借金漬けのフランスで、紙幣発行銀行の企画を全面的に任されることになったのでした。
3. ローが採った政策
王立銀行の設立
ローはまず、発券銀行としてバンク・ジェネラルを設立。2年後にこの銀行はバンク・ロワイヤル(王立銀行)に変更され、金に兌換可能な紙幣を独占的に発行しました。
政府は国民に対し、納税は全て紙幣によって行うよう命令。
これによりタンスに眠っていた金貨銀貨が外に出てきて紙幣と交換されるようになり、多くの紙幣が市場を流通。貨幣が世の中を回り始めると、ヒトもモノを積極的に動くようになり、フランスの景気はみるみる回復していったのでした。
投資機能の付与
ローは王立銀行に投資機能を併せ持たせようと考えました。
投資先は、フランスの北アメリカ開発会社「ミシシッピ会社」です。
当初は国債の保有者に会社の株券との交換を打診して借金を減らす程度のものでしたが、後に政府に紙幣を渡して国民に債務を返済させる一方で、市場に流した資金をミシシッピ会社の株式の販売によって回収し、それを原資に投資に回してリターンを得、財政を健全化させよう、としました。
魅力的なミシシッピ会社株!
株を売るにあたって、ローはミシシッピ会社株を保有することの魅力を大々的にアピールしました。
いかにミシシッピ株が儲かるかをロー自ら力説し、配当利回りが高く設定されることはもちろん、買いやすいように既存株主への割安で販売したり、分割払いでの支払いもOKにしたり、あらゆる方法で市場から資金を回収しようと試みました。
1719年にはローは王室に12億ルーブルを貸し付けた見返りに徴税権まで請け負います。
これは、王室の債務までミシシッピ会社に一本化し、税収も投資も全て一本化されたことを意味しました。
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4. ミシシッピ会社株のバブル経済化
ローのPRの効果もあり、ミシシッピ会社の期待は膨らんで株式価格はみるみる上昇。
1719年6月に550ルーブルだった株価は、7月に1000ルーブル、9月に5000ルーブル、11月には1万ルーブルを突破しました。
このマネーはフランスのみならず、ヨーロッパ中から流入したもので、王立銀行総裁ローの周りには、株式を売ってもらおうと各地から人が参詣に訪れたと言います。
何かよく分かんないけど、価格がみるみる上がってるし、
「乗るしかない、このビッグウェーブに!」
って感じでみんなカネを突っ込み、ますます価格が上がってさらにカネが突っ込まれる、という状態に突入していきます。
じゃあ、投資の対象にされたミシシッピ会社が高い収益を上げていたかというと、全然そうでなくむしろ極めて業績は悪く、ほとんど利益を上げられていない状態でした。
実体が伴っていないのに株価だけが上がり続ける、まさにバブル経済でした。
バブルの崩壊
1720年の初頭、ある株主がミシシッピ会社の株式の入手のしにくさに嫌気を感じて売りに出しました。
その情報を聞いた他の株主が、じゃあオレもってことで続いて売りに出す。
すると不安になった他の株主も、次々と売り払っていく。こうなると、株価が上がったのと逆の現象で、売る人がいるから株価が下がり、下がるから売るという悪循環に突入。投資家たちは、信用が失墜するミシシッピ株を売り払い、より安全なロンドンやアムステルダムに資金を逃避させ始めました。
株価が暴落して資金が底をついたミシシッピ会社は、同じ年の夏に倒産。
ジョン・ローは宰相フィリップ2世によって解任され、フランス国外へ亡命しました。
5. イギリスに逃げ出したマネー
所変わってイギリス。
フランスのミシシッピ・バブルがピークを迎えている頃、イギリス南海会社のジョン・ブラントが同じようにマネーを集めて一儲けしようと考えを巡らせていました。
1720年1月21日、南海会社は市中にある3250万ポンドの国債を全て引き受け株式に変えると発表。
当時イギリスはスペインと交戦中であったため、南海会社が南米に利権を持つ可能性から期待値が高まり株価が急騰。
折しもミシシッピ・バブルが弾けてマネーが次なる投資先を求めていたところで、南海会社に資金がどんどん流入しました。
当時のイギリスは一種の株式ブームになっており、実体が何もなくても「株式会社」という名前がついていれば、株価が飛ぶように売れるという異常事態を起こしていました。
ジョン・ブラントは泡沫会社がたくさんできて資金需給が逼迫することを恐れ、政治家に働きかけて「泡沫会社禁止法」を成立させ、少し大きな会社を作るには膨大な費用と時間が要求されるようになりました。
ところがこの法律ができてすぐ、南海会社のバブルがはじけて株価が急落。南海会社自身が泡沫会社となってしまったのでした。
イギリスはこの結果、株式に対する偏見が生まれ、泡沫会社禁止法によって会社制度の発達が遅れる原因となりますが、銀行は信用を失わなかったため銀行預金残高は増え続け、資本蓄積がなされます。
一方のフランスでは、株式と銀行がセットになってバブルを起こしたため、両方とも疑惑の目が向けられて銀行預金残高は伸び悩み、来る産業革命において大きくイギリスに水をあけられることになったのでした。
まとめ
時代や制度は変わっても、カネを動かすのが同じ欲望を持つ人間である以上、盛り上がるのも盛り下がるのも、同じようなメカニズムをたどっているのが分かります。
ぼくはあまり経済のことは詳しくないんですが、単に規制すればいいってもんじゃないんだろうし、呼び水をした人はいるけどいったん始まっちまうと巨大な洪水のような状態になって誰も止められなくなってしまう。
一人一人が賢くなるしかないのでしょうが、しかしそんな時代はいったい来るのでしょうか…。
参考文献:金融の世界史ーバブルと戦争と株式市場 新潮選書 板谷敏彦