農牧業で経済発展した辺境の国アルゼンチン
アルゼンチンと聞いて思い出すものは案外少ないんじゃないでしょうか。
"サッカー" "タンゴ" "BBQ" くらい。
"経済危機" "デフォルト" を思い出す人もいると思います。
実際、アルゼンチンは長期に渡る経済不振により、何度も債務不履行に陥っています。経済不振がまるで日常のような国です。
ところが実は、第一次世界大戦前までアルゼンチンは、積極的な移民の導入や自由貿易、インフラ整備によって未曾有の経済発展を達成。南米の成長をリードする経済新興国でした。
なぜそのような経済振興国が、経済不振が続く状況に陥ってしまったのでしょうか。
1. アルゼンチン独立まで
アルゼンチンという国名は「銀」という意味で、
南米に進出したスペイン人はこの土地に大量の銀があることを期待しました。
ところが意に反して銀は出ず、ガッカリしたスペイン人たちは北のペルーやメキシコの経済開発に注力し、辺境のアルゼンチンは放っておかれました。
ブエノスアイレスの発展と独立宣言
1776年、ブエノスアイレスに副王庁が設置され、スペインもようやく南米大西洋岸の開発に乗り出しますが、この頃には既に新大陸におけるスペインの力は低下していました。
貿易港ブエノスアイレスは主に南米近隣諸国との貿易で栄えますが、やってくる貿易船はイギリスが主で、ブエノスアイレスはイギリスとの結びつきが強くなっていきました。その状況に対して、スペイン本国はスペイン以外の国との貿易の禁止、重課税、産業制限、スペイン人とクリオーリョとの身分差別を設定。クリオーリョは不満を募らせていく。
スペインがナポレオン軍によって占領されるの機に、1810年にクリオーリョたちは副王庁の廃止と自治委員会の結成を宣言。独立戦争に突入し、6年間の厳しい戦いの末独立を達成するに至ります。
2. 「統治は植民なり」
自由貿易論vs保護貿易論
独立を達成したアルゼンチンでは、その経済開発政策を巡り論争が繰り広げられました。
広い土地を活用した大規模な生産能力を有する地方の農牧業者は、積極的な自由貿易によって工業製品を輸入し、経済発展を促進することを主張。
一方、土着の手工業者は外国に依存しない自給度の高い経済構造を主張。
半世紀近い論争の結果自由貿易論者が勝利し、19世紀半ば以降に自由開放経済政策が実行されます。
アルベルディの経済政策
自由開放経済政策の主導的役割を担ったのは、思想家ファン・バウチスタ・アルベルディ(1810-1884)。彼は
「異教に対する信仰を憎悪し、労働せずして黄金を獲得することに熱中し、鉱山所有そのものを富と考え、労働力の供給を奴隷所有に求め、領土すなはち国王領の拡張を権力の偉大さの増大とみなし、外国人の異教徒すべてを憎悪した」
としてスペインの植民地支配を非難。こうしてラテンアメリカには貧困と贅沢が同居し、労働蔑視・怠惰の習性がはびこるようになったと結論づけます。
その上で、ラテンアメリカの低開発を克服する方法として5つの経済政策を主張。
2-1. 移民
アルベルディは、移民の積極受け入れと入植地開発の重要性を強調しました。
事実、アルゼンチンは日本の7倍半の国土を持ちながら独立時の人口は50万人程度。移民を積極導入して人口を増やして生産力を上げるとともに、植民地下で蔓延した労働蔑視の考えを移民によって払拭しようと考えました。
それゆえ、移民は勤勉で熟練し洗練された労働者であるべきで、イギリスやフランス、スイス、ドイツからの移民が望ましいとしました。
2-2. 外資導入
移民を導入するにはその促進要因として資本が求められます。
資本蓄積が遅れたアルゼンチンではヨーロッパからの投資が必須であり、投資の安全を保証するために国家の統一と政治の安定が前提条件となる。
アルベルディは、投資の対象は商業・インフラ部門にであるべきとし、工業部門は収益性が低いため有望ではなく、農牧業部門は自国民が好むため外資とのコンフリクトを生むと主張しました。
2-3. 産業育成・国際分業
アルベルディは自国が優位性を持つ農牧業を育てて輸出経済を形成してヨーロッパの食料庫となるべきで、工業生産は得意なヨーロッパ諸国に任せるべきだと主張しました。
アルゼンチンは農牧産品を輸出し、ヨーロッパは工業品を輸出することで互いに経済発展する。
その上で、何世紀にも渡る資本と経験の蓄積が求められる工業生産への投資は、独立間もないアルゼンチンには早急である、としました。
2-4. 自由貿易
先述の通り、農牧産品を積極輸出するために自由貿易を推進。
そのために植民地経済下で導入された貿易独占・制限政策をすみやかに撤廃して自由貿易政策を導入し、国内市場の統合を推進しなければならない、としました。
2-5. 民間主導の経済開発
アルベルディは、政府の役割は国民の自由と安全を保証することで、他は民間に任せるべきと主張しました。
すなはち経済開発も民間主導で行われるべきで、政府は介入すべきでないとしました。
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3. 経済開発政策
3-1. 外資の導入
アルゼンチン政府は19世紀半ばに国家統一を成し遂げると、ヨーロッパに使節を送り積極的に投資の呼びかけを行いました。同時に免税措置や投資収益率保証制度を設け、外資の流入を促進しました。
始めの頃ははかばかしい結果を上げられませんでしたが、次第にイギリスを中心に投資額が増えていきました。1914年のイギリスの投資先は、北アメリカ(35%)に次いでラテンアメリカ(19%)が多く、そのラテンアメリカの中でも42%をアルゼンチンが占めていました。
当時の対アルゼンチン投資額は、1位がイギリスで15億5000万ドル、2位がフランスで4億ドル、3位がドイツで2億ドルと、圧倒的にイギリスが多くなっています。
その投資先も、後述の鉄道部門が36%と高く、2位の政府債務(31%)も多くが鉄道投資に使われていたため、如何に鉄道が重要な地位を占めていたかが分かります。
3-2. 鉄道の積極建設
アルゼンチンでは1850年から鉄道建設が開始されました。
1837年にキューバで鉄道建設が始まったことを考えると比較的遅いスタートでしたが、先述の通りイギリスを中心としたヨーロッパ諸国から積極的に投資をつのり、急速に鉄道を全土に敷設していきます。
4大主要路線を中心に、ブエノスアイレスから内陸部パンパへと放射線状に拡張していきました。イギリス資本を主軸とする民間会社が主要幹線を建設・運用し、アルゼンチンの国有・州有鉄道が幹線同士の結合や内陸部への拡張など補完的な路線を建設・運用するという体系になりました。
首都ブエノスアイレスと内陸部パンパは鉄道によって結ばれ、ヨーロッパから工業製品、燃料、移民をパンパに運び、パンパから農牧産品を運び出すという輸出体系を作り出しました。
3-3. 移民の大量流入
アルゼンチン政府は積極的に移民の受け入れを実施し、その規模はアメリカ合衆国の移民2546万人に次ぐ、369万人にも達しました(1851-1910)。
その推移は鉄道建設ブームと経済の好況期に合致しており、ブエノスアイレスに入港した移民たちは鉄道に乗って内陸パンパに次々に送り込まれ、農牧業の開拓に従事していくことになります。
移民の出身地ですが、アルベルディは「勤勉で洗練された」イギリスやフランス、ドイツからの移民を求めましたが、実際にはイタリア、スペインからの移民が大部分を占めました。彼らの多くは壮年の独身男性で、パンパ開発の即戦力となったのでした。
ところが、1880年代になると公有地売却制度が実施されて大土地所有者による土地の買い増しが増え、新たにやってきた入植者が自作農として土地を得ることが難しくなってしまいました。そのため、1890年以降の移民の半分以上は土地を所有できずに都市に流れ込み、半失業者として都市に滞留していくことになります。
4. 穀物と肉で儲けるぞ!
鉄道が広がり移民が内陸パンパの開拓を進めることで、農牧産品の生産能力は急上昇。
1888年から1920年にかけて、小麦の耕地面積は82万ヘクタールから608万ヘクタールに、トウモロコシは80万ヘクタールから327万ヘクタールに増加。
牧畜業も発展を見せ、1873年から1914年にかけて牛の飼育数が1399万頭から2587万頭に、1888年から1914年にかけて豚の飼育数は40万頭から290万頭に増加しました。
4-1. 穀物輸出大国へ
移民入植が進み小麦やトウモロコシなどの穀物生産が急速に伸び、1870年代後半から小麦の輸出を開始。1910年代前半まで、6000トンから212万トンにまで拡大しました。
要因は主として耕地面積の拡大によるもので、鉄道網の拡大と移民による農業技術の移転がそれをもたらしました。
主な輸出先はやはりイギリスで、1910年代には輸出総額の40%、輸入総額の30%を占めていました。
4-2. 冷凍船の開発と食味の改良
牧畜業の発展の要因は、冷凍船の開発と品種改良による味の向上にありました。
牧畜業はそれまでは皮革、羊毛、獣脂、塩漬け肉が主。
しかも塩漬け肉の味はクソマズいとヨーロッパでは不評で、主にブラジルの奴隷向けに輸出されていました。しかし1888年にブラジルで奴隷が開放され輸出先がなくなってしまった。
この状況を助けたのが、フランス人テリュールによって発明された冷凍船。
冷凍船により牧畜業者は、食肉を塩漬けすることなく、冷凍状態でヨーロッパに輸出することが可能になりました。
新たな輸出先が開拓されたことで、ヨーロッパ人の好みに合うように食味の改善が進み、主に牧畜先進国イギリスの家畜を輸入して品種改良がなされました。
この冷凍肉の製造は当初は国内資本によって行われていましたが、アメリカやイギリスなどの外資が進出すると壊滅。時に南アフリカでボーア戦争が勃発し、イギリス軍用の食肉の必要性が高まり、アルゼンチンからイギリスへの肉の輸出が急増。
需要が増えると投資も増えていき、アルゼンチンの冷凍・冷蔵業は外資によって支配されることになりました。
このように、急速な農牧産品の輸出によって外貨を稼ぎ、それを元に工業品や繊維品を輸入するという1次産品依存型の経済が確立。それでも1880年から収支は黒字化し、黒字分は外資の元利払いに充てられました。
5. その結果どうなったか
「パンパ革命」によって経済発展を遂げたアルゼンチンのその後。
自由主義経済によって「持つ者」が優位であったため、大土地所有者と大貿易商に富が集中し、中小零細は恩恵を受けずに貧富の格差が拡大。
加えて冷凍冷蔵産業などの第二次・三次産業においても、強い外資が容赦なく参入したため、国内企業がことごとく潰されてほとんど育たない。
政治面でも大土地所有者・大貿易商が牛耳り、適切な規制がかけられない。
また、極めて強いイギリスとの結びつきは、戦争や不況によってイギリスとの相互関係が成り立たなくなると、一気にシステム破綻する危険性をはらんでいました。
事実、第一次世界大戦後にイギリスがブロック経済を導入して大英帝国経済圏を構築するにあたって、アルゼンチンはその経済圏から除外され一気に不況に。
これまでの農牧産品での輸出で食えなくなったアルゼンチンはこれまで無視してきた工業化を本格導入しますが、産業移転に反対する農牧業者の抵抗、工業に熟練した労働者の欠如、技術移転の非活性などで、工業化シフトに失敗。
副産物として、工業資本家・中産階級・工場労働者が従来の支配者に対する批判勢力として台頭し、政治・経済は混乱を極める。
混乱する政治を取りまとめようと軍部が台頭。
軍部による経済政策はことごとくうまくいかず、天文学的なインフレーションを招く。
国民の目をそらそうと、これまで支配者のように振る舞ってきたイギリスによる敵対心から英領フォークランドに武力侵攻しコテンパンに叩きのめされる。
ようやく軍部を排除し新自由主義に移行。一見成功したように見えるも、結局ただの根拠のない投資のバブルだったため、債務不履行に追い込まれる。
長年の課題である工業化も未だに遅々として進まず、現在は農作物と石油製品で何とか食っている状態です。
まとめ
リスク分散がいかに大事か、ということがひしひしと伝わります。
当初は、まずは得意な分野でカネを儲けてエエ所で工業化にシフトしよう、とでも考えていたのかもしれませんが、いったん最初の戦略がうまくハマりすぎてしまうと、なかなか次の1手に足を踏み出せないし、踏み出せたとしても過去の成功体験や内部の抵抗勢力が邪魔して、本気の構造改革に乗り出せない。
これ結構身近にありませんか?
企業でもこのようなことは往々にしてあると思います。ぼくが昔働いていた会社もまさにコレでした。
手を伸ばせば掴める利益ばかりにとらわれず、あらゆるリスクを想定して複数の分野に投資をし続け、どのような状況になってもすぐに対応できる柔軟な組織を作っておくこと。
「言うは易く行うは難し」ではありますが、それができるのがホンモノの指導者・経営者ではないでしょうか。
参考文献:
世界の構造化 岩波書店 第5章 第一次世界大戦前のアルゼンチンと世界 今井圭子
History of Argentina - Wikipedia, the free encyclopedia(2015.08.16時点)