アメリカ料理ってなんだ?
ハンバーガー、ピザ、ポテトフライ、Tボーン・ステーキ。
アメリカの食事と聞くと、ジャンキーな高カロリー食が頭をよぎります。
ですが、アメリカの食文化は多様。
国土が広いから様々な気候・風土があり、その土地それぞれの名物が存在します。
加えて世界各地からの移民が母国の文化を持ち込んだことで、まことに複雑な食文化を形成するに至りました。
20世紀前半、そんな状況を憂いて
「真の愛国者が食すべき、アメリカ人の料理とは何か」
を巡る様々な論争がありました。
これは、移民たちによって自分たちの食文化が脅かされている!と考える、イギリス系アメリカ人による、自らのアイデンティティを守ろうとする試みでありました。
1. 移民たちが持ち込むエスニック・フード
食文化のミックスが進んでいたアメリカ
アメリカが西に拡大し、エスニック集団同士の接触が起きる18世紀の時代からアメリカの食文化は多様でした。
イギリス系、スペイン系、フランス系、インディアン、黒人。
それぞれのエスニック集団が持っていた食文化が混ざり合い、新たな食生活のスタイルが生まれていきました。
イギリス人が豚の臓物の煮込みを食べ、インディアンがウイスキーを飲み、スペイン人がトウモロコシを食べる。
社会・経済的な格差までもなくなるわけではありませんでしたが、様々なエスニック集団の食文化が溶け合い、その土地独自の食習慣が発展していきました。
母国の味を持ち込む移民たち
アメリカには19世紀半ばから末まで、世界各地から移民が押し寄せます。
移民たちはアメリカの土地で、「見たことも聞いたこともない」食品に挑戦するのですが、それよりも自分たちが母国で食べ馴れた食品を持ちこむことを好みました。
東欧系ユダヤ人は、ジャガイモ、タマネギ、黒パン、塩漬けの魚。
イタリア人は、チーズ、オムレツ、ビスケット、パスタ。
日本人は、魚、漬け物、味噌、豆腐。
これらのエスニックフードは当初は、それぞれ集団でしか食されていませんでしたが、アメリカ人の消費者たちは20世紀の初頭にこれらの「見慣れぬ奇妙な」食品に果敢にトライし、次第に受け入れるようになっていきます。
ユダヤ人のライ麦パン、イタリア人のワイン、日本人の醤油。
中国人の麺料理、メキシコ人のタマーレ、ドイツ人のコーヒー・ブレッド。
地域ごとにエスニック集団の居住地は異なるため、それぞれの地域の風土と既存の食習慣に加えて新たに入ってきた移民たちの食文化は、アメリカの食文化をより多様で複雑なものにしていったのでした。
2. 「不健康」な移民の食生活
食習慣の混在化が進む一方で、特に中産階級の人々は、移民の食生活にあからさまな嫌悪感を表しました。
ナショナリストや改革論者は、
「移民たちは因習にとらわれ、無知で、経済性・合理性を無視している」
と非難。
例えばイタリア人は
「相変わらずパスタばっかり食べていて、トウモロコシのようなアメリカ原産の食べ物を食べない」
「肉をほとんど口にせず、牛乳も飲まないのに、アルコールはあびるほど飲み、高カロリーの食品もたくさん食べる」
そしてこのような不健全な食生活は、子どもたちの虚弱さの原因になっている、とされました。
実際にニューヨーク市の学童の20%が低体重で、90%に虫歯があり、50%がくる病を患っており、
移民たちの持ち込む外国風の食生活を改めることが、アメリカ国民の強健な体躯と健康にとって不可欠である、と主張されたのでした。
3. "質素で滋味溢れた"ニュー・イングランド料理
アメリカ料理とは何だ?
では、移民たちが従うべき「模範的なアメリカ料理」とは何か。
研究者たちは悩んだ。
というのも当時からアメリカには「国民料理」と呼ばれるものが存在しませんでした。
もともとアメリカは地域主義が強く、トマス・ジェファソンが理想とした自営農民は「アメリカ国民的な◯◯」と呼ばれるものに嫌悪感を持つ人々だったのです。
とはいえ、このままでは「アメリカ的な食べ物が外国人の食べ物に乗っ取られてしまう」という不安感は共通としてあり、
家政学者たちは「国民料理」を定義し外来の食習慣の波を押し返すことを目標に、様々な改革運動の理論武装に一役買うことになります。
ニュー・イングランド料理こそアメリカ料理である
家政学者たちは、ニュー・イングランド農村部で食べられていた伝統料理に注目しました。
エレン・リチャーズは1900年に出版した「衛生学の観点から見直した生活費」で、
料理といものはは栄養がありすぎても困るものだ。しかしニュー・イングランド料理は質素であり、限度を越えない節度あるものである。
とし、アメリカのあらゆる料理人は「自制心、他人への配慮、良好な気質、正しいマナー、楽しい会話という美徳」を食卓に持ち込むべきである、と主張しました。
では彼女が理想とする「アメリカ料理」は具体的にどのようなものだったか。
- 魚
- ハマグリ
- コーンチャウダー
- クリーム・ド・コッドフィッシュ(茹でたタラにクリームソースをかけたもの)
- プレス加工された肉
- コーンマッシュ
- ペイクド・ビーンズ
- インディアン・プディング(コーン粉で焼いたケーキ)
うーん、マズくはなさそうだけど、旨くもなさそう……
彼らはこの「アメリカ料理」を移民たちに教え、アメリカ風の食生活に馴れさせようとしました。公学校の教室に持ち込んだり、地域の料理教室を開いたり、正しい食生活のためのキャンペーンを展開したり。
栄養学者は移民たちの食がいかに「害が大きいか」を強調しました。
例えば、東欧系ユダヤ人が好むすっぱいピクルスは、「イライラの原因」であり「情緒を不安定にし一層同化を困難にする」とすら主張されました。
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4. 衛生改革・禁酒運動
衛生の向上という名の移民の閉め出し
別の改革論者は、移民たちが食べ物を販売する店舗を規制することで、エスニックフードの拡大を阻止しようとしました。
彼らが建前としたのが「衛生の向上」です。
1906年、「純正食品・薬品法」という法律が制定され、厳しい食品生産の規制が敷かれることになりました。
これにより主にエスニック食品を販売していた小規模な事業者は大打撃を受けました。
同じくやり玉にあがったのは「移民たちが屋台で販売する食品」でした。
屋台の手押し車の禁止を訴えるキャンペーンが大規模に展開され、とうとう1905年、ニューヨークのマクリーン市長が屋台の認可の条件を厳しくしました。
次に市当局は「街頭での温かい食品や冷たい食品」の販売を規制しようとしましたが、これは失敗に終わりました。
既にこれらの食品はニューヨークのビジネスマンの定番のランチであったからです。
アルコール規制運動
19世紀の時点から、アメリカの道徳矯正運動家たちは飲酒文化の拡大に懸念をし続けていました。
そこにアイルランド、ドイツ、イタリアなど偉大な酒飲みの国から大量の移民が押し寄せ、アメリカで独自にワイン、ビールを作り始めた。
特に宗教的に保守的な人々は、このような状況を憂い、
「酒狂いや神を信じない人、無政府主義者に救済は訪れない」
と断言すらしました。
移民たちは禁酒には断固反対し、特にドイツ系アメリカ人たちは組織的にビール文化の擁護に周りました。
しかし、第一次世界大戦の勃発で反ドイツ感情が高まりこの取組みは失敗し、禁酒法はついに導入されるに至ります。
5. 多様性こそアメリカ的?
改革論者の失敗
結局「アメリカの国民料理」を作る取組みも「飲酒撤廃」の取組みも惨めな失敗に終わりました。
理由は簡単で、これらの取組みを喜ぶ人が全然いなかったから。
移民たちが持ち込む新たなエスニック料理を食べる楽しみは根強いものがあったし、
食品加工業者や投資家たちもビジネスチャンスを奪う取組みには断固反対だったのです。
栄養コンサルタントのヴィクター・ハイザー博士はこのように嘆きました。
大半の人々は食べ物を一種のレクリエーションと思っている。体の機能を保つエネルギー源とみなす人などほとんどいなかったのだ。
エスニックフードで食卓を豊かに
1920年代から、移民がもたらした料理に関する関心は徐々に高まっていきました。
インターナショナル・インスティチュートは「食べ物は、家庭でもコミュニティでも、良好な関係の基礎である」とし、「エスニックフードがアメリカ人にもたらしたものは、多様性であった」とする概念を一般に定着させました。
彼らは「アメリカ人の食生活に移民の食べ物を加えて、バラエティ豊かなものにしよう」と考えました。
エスニックレストランのガイドを作成したり、エスニックフード・フェスティバルを各地で開催するなどして、より広範囲に移民たちの料理を紹介するきっかけを作りました。
大恐慌の時代には、イタリア系が食べるパスタが「安価なおすすめメニューリスト」に加わり、新たにやってくる移民たちに「パスタの作り方」が書かれたレシピが配られたりしました。
ここにおいて、従来の「アメリカ化」の方針から、
経済の実用性はもちろん、食の多文化主義を認め、食べることの喜びを認める方向へ向かっていったのでした。
6. 移民に学ぼう!
無駄を省く料理はあまねくピューリタン的である
第二次世界大戦になると、緊急の戦時体制を国民一丸となって乗り切るべく、エスニック・フードに脚光が当たることになりました。
安価で栄養があり、無駄を省く料理術がエスニック・フードから発掘されたのです。
それは例えば、鶏の脂肪で作った生地の上にマッシュルームと牛の内蔵を乗せたロシア料理や、中国人が作る揚げ豆腐、肉と卵、コーン、野菜を詰めたパイ、などなど。
これらの食品は節約や自制という点で、真にアメリカ的・ピューリタン的であり、望ましいものである、という文脈で語られました。
フードライターたちは、婦人雑誌にこう書きました。
ベイクド・ビーンズや中華麺、パスタの缶詰を開けるとき愛国心を感じるべきである!
と。
このように、実体と精神が合致した「真のアメリカ料理」は、次第に他の食文化をその思想に内包させていき、「移民たちがもたらすバラエティに富んだエスニック・フード」こそアメリカ的である、という文脈にシフトして語られるようになっていったのでした。
まとめ
食文化ほど、容易に交わり、かつ頑固に生き続けるものもありません。
だからこそ食はおもしろく、永遠に飽きるものはないのですが、
それゆえ「純粋性」「正当性」を求める声が多くあがり、規制運動に発展したり、ナショナリズムや偏見と結びついたりするのは厄介であります。
いま日本政府が「正しい日本食を世界に広める」みたいな取組みを世界中でやってるっぽいですが、それがどういう結果に終わるか。
歴史が証明していますよね。
参考文献:アメリカ食文化-味覚の境界線を越えて ダナ・R・ガバッチア 青土社