愛は歴史を変える
様々な歴史本を読んでいてつくづく思うのですが、
なんだかんだ、やっぱり歴史の主役は男なんですよね。
たまに女傑は出てくるけど、表立った存在にはなりづらい。
ただ、歴史上の偉人たちもちゃんと恋をして、妻を娶り、人の親になっていくという、僕たちと同じ人間の歩みをしてきたわけです。
そして偉人たちも人間である以上、まったく理性的でない愛や恋に突き動かされ、それが歴史を変えたこともたくさんあったでしょう。
今回は海外サイトlistverse.comで紹介されていた記事から、歴史を変えたラブ・ロマンスをご紹介します。
1. ユスティニアヌス1世&テオドラ(ビザンチン)
怖気づいた皇帝を叱った妻
ビザンチン帝国第2代皇帝ユスティニアヌス1世の妻・テオドラはもともと低い身分。
サーカスで熊の調教士をしていた父親の元に生まれ、彼女自身もサーカスで女優として活動していました。
当時のサーカスの女優は今で言う売春婦に近い存在だったようで、いわゆる最底辺の身分だったわけです。
テオドラに会ったユスティニアヌス1世は一目ぼれし、周囲の大反対にあうも法律を改訂してまで結婚しました。
結婚後、テオドラは早々に帝国内の女性の地位と権利の向上のための法整備を進め、その中には売春斡旋業者が売春婦から斡旋料を横取りするのを禁止する法律も含まれていました。彼女自身の経験によるものなんでしょうね。
532年、戦車競技のフーリガンによる熱狂が反皇帝暴動に飛び火した「ニカの乱」が勃発。
競技場に隣接する皇帝の宮殿は暴徒に囲まれ、ユスティニアヌス1世は5日間も軟禁状態にありました。
ユスティニアヌス1世は宮殿からの脱出を考えますが、これを拒否し留まるよう説得したのがテオドラ。
説得の際に呼びかけた言葉
「帝衣は最高の死装束である」
はあまりにも有名ですね。
結局ユスティニアヌス1世は脱出を踏みとどまり、軍隊による強制排除を敢行。
暴徒を競技場内に押しやって大部分を殺害。
このピンチを乗り切ったユスティニアヌス1世は、ローマ法大全作成や帝国の版図拡張など、ビザンチン帝国の黄金時代を築いていくことになります。
2. ペリクルス&アスパシア(古代ギリシア)
古代の偉大な将軍に愛された女性
ペリクルスは古代ギリシアのアテナイの政治家であり将軍。
アスパシアはミレトス出身で、アテネの社交界に出入りしていた教養ある女性。当時のアテネの貴族の女性たちの間ではカリスマ的な存在でした。
ペリクルスはシンポジウムで出くわしたアスパシアの美貌に衝撃を受け、一瞬で恋に落ちたと言われてます。
ところが、ペリクルスはアスパシアを妻にすることはできませんでした。
なぜなら、彼自身が制定した「アテネ市民が他の市民と結婚することを禁じる」法律のため。なんという皮肉でしょうね。
ペリクルスはアスパシアを崇拝するかのごとく愛したそうで、紀元前429年に亡くなるまで毎日、キスをしていたと言われています。
3. バージ・ラーオ&マスタニ(インド)
宗教の壁を超えた愛
バージ・ラーオは、ヒンドゥー系王朝マラーター王国の第2代宰相。
強力な軍隊を率いて北インドのムガル帝国や、マイソール王国などの南インド諸王朝を打ち破りマラーター王国を広大な帝国に推し上げた天才的な軍事指導者です。
バージ・ラーオはムスリムの踊り子であったマスタニの美しさに心を奪われ、妻としました。
しかし、この結婚はヒンドゥーの一族や民衆から大変な不評を買ってしまいます。
マスタニはラーオの一族から意図的に、夫から遠ざけられ「籠のなかの鳥」状態だったと言います。
マスタニは若くして亡くなってしまい、ラーオは悲しみのあまり酒の量が増え、そのことが彼の突然の死を招くことになった、と歴史家クスム・チョップラは記しています。
なお2009年に政府の発掘チームが、隠された宝を見つけようとマスタニの墓をあばいてしまいました。
その際、地元デカン高原のヒンドゥー教徒とイスラム教徒は団結し、この暴挙に抗議したそうです。
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4. ガリバルディ&アニータ(イタリア)
戦闘で夫を支えた女傑
ガリバルディはイタリア統一を成し遂げた将軍として有名ですが、
実は若い頃にピエモンテの共和制を求める反乱に参加して失敗し、南米ブラジルに逃げていたことがあります。
そこで出会ったのが羊飼いの娘アニータ。
ガリバルディはすぐに恋に落ち求婚を申し込みますが、すでにアニータには夫がいました。
アニータはこの野心と男気に溢れたイタリア男に惚れ、夫を捨ててガリバルディに付いていくことにしたのでした。
ガリバルディは南米ウルグアイの大戦争に傭兵として参加し大活躍します。
妻アニータもガリバルディの船に乗り込んで敵船を砲撃したり、看護兵として軍事キャンペーンに参加したり、1840年の6月にはガリバルディの騎兵隊を率いますが、当時彼女は妊娠8ヶ月だったそうです。すごすぎ・・・
イタリア統一戦争が勃発してからは、アニータは常にガリバルディと行動を共にし、新兵のリクルートや武器の補給で夫を支えました。
ところが1849年8月のローマ脱出の際、多くの兵士とともにアニータも戦死。
ガリバルディはその後再婚しますが、死ぬまでアニータの死を嘆き悲しんだそうです。
5. ウラジミル・レーニン&イネッサ・アルマンド(ロシア)
革命を陰で支えた女性
レーニンは言わずと知れた、ロシア革命を起こした大革命家。
彼には1898年に結婚したナデジダ・クルプスカヤという妻がいましたが、その他に革命を影で支え続けたのが、イネッサ・アルマンドという女性。
彼女は比較的裕福な家の生まれで5カ国語を操るインテリ。
ボリシェヴィキ党員となり各国での金銭援助の工面などに従事し、党の活動を何年も支えます。
レーニンはアルマンドに全幅の信頼を置いており、ローザ・ルクセンブルクやトロツキーとの会談の場で通訳をさせたりしています。
革命後はアルマンドはロシア社会の女性の地位向上に努めますが、 激務がたたり1920年に死去。レーニンは「悲しみのあまりまるで体が縮んだように見え、彼の目は涙でぐちゃぐちゃだった」そうです。
6. コルテス&マリンチェ(アステカ)
写真引用元:Wolfgang Sauber
スペイン人征服者と結ばれた先住民の娘
マリンチェについては以前の記事「売国奴」と呼ばれる人たち:マリンチェに書きました。
戦争でスペインに敗れたアステカは、数名の女性奴隷をスペイン人征服者コルテスに献上しますが、その中にマリンチェはいました。
もともと頭がキレる人だったようで、すぐにスペイン語をマスター。
コルテス付きの通訳として、スペインとアステカの交渉ごとに従事しました。
単に主人と通訳という以上の関係があったようで、アステカ帝国崩壊から1年後にはマリンチェはコルテスの子(マルティン・コルテス)を生んでいます。
ただ、彼女はコルテス結婚したわけではなく、別のスペイン人と結婚しました。
1524年にコルテスが中米ホンジュラスの反乱鎮圧に赴いた際に、再度通訳として従軍しますが、そこから記録が途絶えています。研究者に寄れば、5年以内に死んだ可能性が高いとのことです。
7. フェルディナント&イサベラ(スペイン)
スペイン王国を作った美男美女の大恋愛
アラゴン王子フェルディナントとカスティーリャ女王イサベラの婚約によって、スペイン王国が成立したのは高校の世界史の教科書にも出てきます。
王位継承で混乱するカスティリーヤ王国は、イサベラをポルトガル王国に嫁がせてポルトガルとの関係を強化しようという動きがありました。
イサベラは隣国のアラゴン王国こそ同盟に最適だと考えており、というのもアラゴン王子フェルディナントはまれに見る美男子だと聞きしに及んでいたからです。勿論それだけじゃないでしょうが、大きな要因とはなったでしょう。フェルディナントもイサベラの美貌を噂に聞いており、2人はこっそりと密会することに。
ある日フェルディナントは商人に偽装してこっそり城を抜け出し、イサベラは兄弟の墓参りと偽って城を抜け出した。
最終的に 2人は落ち合い、数時間みっちり会話して気が合うことを確かめあったそうです。
そうして1469年10月19日に2人は結婚。フェルディナントはカスティリーヤの共同国王に就任します。
怒ったポルトガル王はカスティリーヤに攻めてきますが、アラゴン王国の力を借りてこれを撃退。その後、アラゴン王エンリケ4世の死によりフェルディナントがアラゴン王となり、ここにカスティーリャ=アラゴン連合王国、後のスペイン王国が成立することになったのでした。
まとめ
やっぱり人間は感情の生き物ですから、頭では分かってても心で突き動かされてしまうことも多いものです。
歴史がそのような「気持ち」で動くことも多かったことでしょう。
男女の関係はその最たるものですね。
ネットではよく「結婚することは是か非か」の議論がなされますけど、
損徳の議論は置いといて、結婚することはある条件に置いては、生物として一歩高い次元に進むことなのだろうなと思ったりします。
そんなぼくはまだ独身なのですが。
出典・引用:10 Great Romances That Shaped History
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