一族郎党全員が盗賊の「盗賊部族」
いつの時代、どんな国にも規模の大小は問わず盗賊のたぐいはいました。
耕地で養える以上の人口を抱えたり、政治的な統合が成し遂げられず権力空白地帯が多く発生したり、疫病や災害が多く発生したり、そういった「不安定地域」に多く盗賊が出現したようです。
多種多様な民族が混在するインドには、それこそ盗みを一族の生業とする「盗賊部族」と言われる輩がいくつも存在したそうです。
どういう連中だったのか、めちゃくちゃ気になりませんか?
1. 盗賊部族の実態
盗賊部族の起源
その起源は諸説あり正確なところは謎らしいのですが、
北インドに侵入したイスラム勢力に駆逐されたラージプート軍人や農民が、生活基盤を失い盗賊化した
という説が有力なようです。
盗賊部族の多くは、彼らの先祖を「メーワール王プラタープ・シング」であるとしています。
プラタープ・シングは、メーワール王国の首都チットルガールをムガル帝国に奪われた後、山岳地帯でゲリラ生活に入り「一枚の木の葉を食事にし、藁の寝床で眠り」ながら亡き故国の復活を目指しますが悲願果たせずに死亡。
王の死後もゲリラ的な生活を送っていた連中が、そのまま堅気の生活に戻らずに盗賊化していったものと考えられています。
どの程度の規模で存在したか
1949年のインド政府による調査によると、198部族、約600万人が盗賊部族だったそうです。
600万人て。千葉県民が全員盗賊と同じ規模ですよ。
当然ながら、全員が銃や剣を持って犯罪を犯していたわけではなく、盗賊たちの被扶養者も含まれている数字です。
盗賊部族は表向きは普通の村として存在。ただし収入の大部分を盗賊稼業に依存していたのでした。
高度に発達した組織
盗賊部族は通常10〜12家族ほどが共同生活をなし、一族の中から利発な者をリーダーとして選抜。
リーダーは犯行・移動計画の策定、犯行グループの選抜、協力者の根回し、間者を放っての情報収集など、一連の計画を練るブレーンの役割を果たしました。
また組織を統制するパンチャヤート(Panchayat)という者がおり、
金銭や結婚などグループ内のトラブルの仲裁、大黒柱不在中の家族の生計維持、犯行による死者や負傷者への保証手当、またグループの掟を破ったものへの制裁など、
盗賊が集団生活を行う上での秩序維持の役目を果たしました。
盗みの繁忙期と閑散期
彼らは年がら年中盗みをやっていたわけではなく、シーズンがありました。
雨期(6〜9月)はオフシーズン。
理由はまだ作物が実ってないし、地面が泥だらけで動きづらいから。
乾期(10〜12月)がオンシーズン。
作物が豊かに実って盗みがいがあるし、夜が長く逃亡が容易だからです。
2月〜4月は再びオフシーズン。
この期間は行事が少なく人びとの財布の紐が固くなるから、盗みが難しくなる。
5月はまたオンシーズン。
来るべき雨期に食っていくべく、ちょっくら一稼ぎというわけです。
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2. 代表的な盗賊部族
いくつもの盗賊部族はそれぞれ特色があり、犯行手法や盗品の種類にもそれぞれ違いがありました。自分たちが得意な分野にそれぞれ特化して発展していったようです。
2-1. カンジャール族(Kanjar)
ウッタル・プラデーシュ州やラジャスターン州などに約7万人が存在(1971年)。
襲撃、追い剥ぎ、 押し込み強盗、窃盗、牛泥棒を得意としました。
襲撃の前に、一族の女子を占師と称してターゲットの村に入れて情報収集に当たらせます。
そこでカネがありそうな家や、危険地帯、逃走経路などの情報を元に作戦を立てて犯行に及びました。
2-2. カルワル族(Karwal)
ビハール州からウッタル・プラデーシュ州にかけて約4万6000人が存在(1971年)。
簡易テントで移動生活をする難民生活集団で、他人の土地だろうが勝手に押し入って一時的に乗っ取ってしまい、まるで自分たちの土地かのように好き勝手に食料を食い散らかすのだそうです。
ビハール州政府は彼らを常時監視し、移動には警察官がゾロゾロ付き添って、管轄区域を超えると次の警察署に引き継いでいるとのこと。
インドの警察も大変ですね…。
2-3. ビール族(Bhils)
主にラジャスターン州に150万人近くが存在(1971年)。
ビールとは「弓手」の意味で、おそらくは元々戦士だったのでしょう。
適当な仕事がないので、周辺の農家や旅人を襲っては略奪してカネを稼いでいます。
捕まると
「私の責任ではない。神がそうせよと仰せになったのだ」
とうそぶくのだそう。
2-4. ヤナディ族(Yanadis)
アーンドラ・プラデーシュ州に138名存在(1971年)。
その大部分は裕福な家の召使として生計を立てていますが、一部の人間が窃盗のプロフェッショナルとして悪名が高いのだそうです。
2-5. エルクラ族(Yerukula)
アーンドラ・プラデーシュ州に16万人ほど存在(1971年)。
普段はロバにまたがって家族ぐるみで移動しながら、塩や豆、林産品の内陸交易に従事しています。女はカゴやマットなどを内職し、盗賊は本業ではありません。
しかし食えなくなると窃盗や追い剥ぎを敢行。
女は占い師と称してターゲットの村の情報を入手し、男がその後夜に壁に穴を開けて押し込み強盗を働き、犯行後は巧みに穴をふさいで証拠を残さない。
たまには電車に乗って州外への遠征まで行うのだそうです。
3. エルクラ族のケース
盗賊が伝統的な仕事
アーンドラ・プラデーシュ州グントゥール県ダルマプール村には、政府の政策によって先述のエルクラ族が居住しています。
政府はエルクラ族を犯罪から分離するために、キリスト教団体の救世軍と協力して農地を与えて畑を耕させ、また小学校を開設して半ば強制的に教育を施しました。
ダルマプール村の人口の46.1%がエルクラ族で、その他にヒンドゥーのカーストが16、キリスト教徒・イスラム教徒が居住しています。
他のカーストや宗教の者たちが、公務員、会社員、農作業、リキシャ夫など堅気の仕事に就いているのに、相変わらずエルクラ族は盗賊を伝統的な仕事と認識してそれを実行してしまうのだそう。
彼らの間に経済的な格差があるわけではなので、これは単純な意識の問題です。
ある老人盗賊の証言
ダルマプール村で調査にあたっていた調査員がある老人盗賊にインタビューを行いました。
調査員「この村に移住してくる前はどのような生活でしたか」
老人「俺たちは路上強盗などをやっていました」
調査員「なぜここにやって来たのですか」
老人「警察によって連れて来られました。俺たちの家はぶっ壊されてしまいましたのでね」
調査員「どんな方法で盗みをするのですか」
老人「これと目をつけた村に行き、2日ほど泊まる。その間に村の家々の財産などのあらゆる情報を手に入れる。仲間で動き、盗みに都合のいい場所を探した後、これと決めた家に押しこむってわけ。頂けるものは全部頂きますよ。皆は俺たちを怖がって抵抗なんかしません。俺たちの先祖は悪漢だし、今も俺たちはそれを受け継いでいますし」
犯行の手法
犯行時間は以下のいずれか。
- 人びとがおしゃべりに忙しい日没から夜10時まで
- 人びとが寝静まった0時から4時まで
- 早朝、家人が家の外のトイレに行っている間
具体的な犯行の方法は以下のとおり。
まず目標が決まり現場に行くと、1人が村外れ、あるいは村の道路入口付近に立つ。もう1人は目的の家の前で周囲を警戒する。
家に侵入するのは2名で、1人のリーダーが金目の物を漁る係で、もう1人は眠っている家人を監視する係。
盗んだ金品は6等分し、1つ半をリーダーが、1つは投資者に、半分は神に捧げ、後は各メンバーがおのおのの1つを取りました。
神へ捧げる1/2ぶんは、実際には警察への賄賂やメンバーの飲食代に消えることもあったようです。雑費ってことですかね。
4. インド政府の盗賊撲滅政策
インド政府はこれら盗賊部族による犯罪を撲滅すべく、様々な対策を施してきました。
例えば、移動民の定住化、教育の普及、農地の貸与、職業訓練、犯罪家族から子どもを引き離し寄宿舎で暮らさせる、等々。
先述のダルマプール村のエルクラ族では、1971年時点で犯罪に従事するのは122世帯あり、非犯罪世帯が275世帯にもなり犯罪世帯が減ったのが数字上現れています。
1972年2月には、国民に敬愛される政治家ジャヤプラカシュ・ナラヤンの元に盗賊500名が武器を捨てて投降。ナラヤンは彼らの潔さを賞賛し、数年間収監した後に全員が釈放されて政府に与えられた土地に移り住み農民となっています。
また、1983年には「女盗賊」として名高かったプーラン・デヴィが警察に投降。
11年間の投獄生活の後に釈放され、1996年に国会議員に立候補して当選しています。
まとめ
16世紀初頭から発生した流浪の盗賊が、500年近く変わらず伝統を受け継いで続いてたって時点で、我々日本人の想像を絶しますね。
インドは土地が広大で多様性があり、また各種勢力や部族、カーストによってモザイク的に分離されて一体性に欠け、それぞれの土地がガッチリと階級や組織が固定されているために、そこを行き来する自由集団に対して効果的な対策が取れなかったのではないかという気がします。
あと昔の地方警察もたぶん、盗賊たちとWIN WINな関係だったのでしょうし。
インドは知れば知るほど奥深い国です。
参考文献:インド史の諸相 二木敏篤 大明堂