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近代イタリア軍の戦績について調べてみた【中編】

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第一次世界大戦周辺でのイタリア軍の活躍

エチオピアに負けたり挫折を味わいながらも、何とか列強の一角として弱肉強食の帝国主義の大船に乗り出したイタリア。 

 第一次世界大戦が勃発し、イタリアは「未回収のイタリア」を取り戻すべく戦います。

前編はこちらからご覧ください。

 

5. 第一次世界大戦

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概要

イタリアは旧ヴェネツィア共和国の領土の領有を目指して普墺戦争を戦いましたが、一部取り返すことができず、たびたびオーストリアに返還を迫っていました。(未回収のイタリア)

その後チュニジア領有を巡ってフランスと争うようになったイタリアは、オーストリア・ドイツと三国同盟を結成し、領土問題は棚上げしていました。

そのため第一次世界大戦が勃発した当初は中立を守ろうとしますが、協商国側から「勝ったら未回収のイタリアを与えるよ」と言われて参戦を決意したのでした。

結果:イタリア軍と連合軍の勝利

連合国に宣戦布告したイタリアは、主にオーストリアの国境の町・ゴリツィアを巡って一進一退の攻防を続けました。

イタリアもオーストリアも共に、武器・弾薬・補給・戦術全てが貧弱で決め手を欠いたためズルズルと戦いが続き、いたずらに死者・負傷者のみを増やした戦線でした。

しかし最後はヴィットリオ・ヴェネトの戦いでオーストリア軍に快勝し、オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊に貢献します。

ところがヴェルサイユ条約では当初の約束だった「未回収のイタリア」を全て獲得できず、その鬱積した不満はファシスト党の台頭を招きます。

イタリア軍の戦い その1. オルティガーラ山の戦い

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1917年6月15日〜25日に行われた戦いで、オーストリア軍の反転攻勢を防ぐために重要な拠点の1つであるオルティガーラ山を占領する作戦を実行しました。

山々の中にいくつもの塹壕や陣地を構えているオーストリア軍に対してイタリア軍は30万もの兵隊を投入し、ほとんど人海戦術で奪い取りにかかるような、作戦としては稚拙なものでした。

イタリア軍の中で特に活躍したのが第52アルピーニ師団。この師団は特に士気が高く勇敢で、劣った装備でほとんど気合いだけでオルティガーラ山全てを占領してしまいます。

その後オーストリア軍の反抗とイタリア軍のさらなる攻勢があり、結局イタリア軍が辛くも勝利しますが、オーストリアの2倍以上の犠牲を出し、また一番の功労者である第52アルピーニ師団は半数が犠牲になってしまいました。

イタリア軍の戦い その2.ヴィットリオ・ヴェネトの戦い

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ピアーヴェ川の戦いでイタリア軍に敗北して以来、 オーストリア兵の間で厭戦気分が高まっていました。

イタリア軍のアルマンド・ディアズ将軍は一気にオーストリア軍の防衛戦を突破すべく、ヴィットリオ・ヴェネトの占領作戦を実行します。

まずはピアーヴェ川を渡河すべく、対岸のオーストリア軍と戦闘。初日は耐え抜いたオーストリア軍も、イタリア軍の攻勢の前に耐えられなくなります。イタリア第10軍の渡河を皮切りに、第12軍、第8軍、第4軍などが次々に渡河。オーストリア軍のボロイェヴィッチ将軍は反撃を命令しますが、オーストリア軍兵は命令を拒否し撤退

これをきっかけにオーストリア=ハンガリー帝国の内部からも崩壊が発生。チェコ人が独立を宣言し、その後南スラブ人、さらにはハンガリー人が独立を宣言。

イタリア軍は混乱に乗じてヴィットリオ・ヴェネトを占領した後にもさらに戦線を拡大。タリアメント川を渡るべく準備をしていたころにオーストリア軍に白旗が上がったため、停戦します。これが第一次大戦のイタリア軍の勝利の瞬間となったのでした。

 

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6. 第二次エチオピア戦争

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 概要

第一次エチオピア戦争に敗北して以来、イタリアは直接的なエチオピアへの介入はしていませんでしたが、

ムッソリーニが政権を獲得して以降、資源の獲得と国威発揚の目的でエチオピアを植民地化すべく介入を進めていきます。

あくまでエチオピアの植民地化にこだわるムッソリーニに対し、イギリスやフランスを始めとする列強は国際連盟を介してイタリアの野望を挫こうとしますが、地中海を舞台にした全面戦争になることを恐れたイギリスが日和ったことで戦線が開かれてしまいます。

結果:イタリア軍の勝利

1935年10月2日にエチオピアへの全面侵攻を開始したイタリア軍は各地で連戦連勝し、5ヶ月程度でエチオピア帝国軍はほぼ壊滅。

機械化されたイタリア軍に対し、エチオピア軍は弓や槍で武装した原始的な兵隊が主で、火器も旧式のものばかりで多くの戦闘でイタリア軍の敵ではありませんでした。

イタリア軍の戦い:メイチュウの戦い

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1936年3月31日の早朝から戦闘が始まり、当初はエチオピア軍3個師団3,000が攻勢をかけますが、すぐに戦線は膠着。国王のハイレ・セラシエは、イタリア軍内にいる戦意の低いエリトリア兵を集中的に攻撃するように指示し、エチオピア軍は猛攻撃をしかけます。しかしイタリア空軍による爆撃を受けて戦線が後退。

ハイレ・セラシエは最も装備が整った親衛隊を投入。親衛隊は激しく攻撃を加えてイタリア軍のエリトリア第2部隊を壊滅させますが、イタリア軍の集中砲火の前に劣勢となります。ハイレ・セラシエは全部隊に突撃を命じますが、多くの部隊は撤退を開始。イタリア軍は逃げるエチオピア軍を追って勝利を確実なものとしました。 

7. アルバニア侵攻

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 概要

イタリアにとって、アドリア海の対岸の国アルバニアは戦略的に重要な国でした。

もしアルバニアを敵国に抑えられたらイタリア艦隊はアドリア海から外に出られなくなってしまうため、第一次世界大戦の勝利の際はイタリアは中部アルバニアの割譲を求めましたが認められなかった経緯もありました。

ムッソリーニが政権を獲得して以降、イタリアはアルバニアに干渉を深めます。まずはアルバニア経済をイタリアなしでは成り立たないほど経済依存度を高めさせた後、主権の譲渡を迫ります。これをアルバニア国王ゾグー1世が拒否したため、ムッソリーニはアルバニアへ侵攻を開始しました。

結果:イタリア軍の勝利

 戦力らしい戦力を持たないアルバニア軍に対し、イタリア軍はたった2日で首都ティラナを占領。さらに2日後には全土を占領。

 イタリア王ヴィットリーオ・エマヌエーレ3世を国王とするイタリアの同君連合としてアルバニアの統治を始めました。

イタリア軍の戦い:ドゥラスの戦い

アルバニア第2の都市ドゥラスには、警官と愛国市民360名が上陸するイタリア軍を迎え撃つべく待ち構えていましたが、武器と言えば拳銃と3門のマシンガンのみ。

数時間イタリア軍を港に膠着させることに成功しますが、すぐに反撃を喰らって撤退。5時間後にイタリア軍はドゥラスを占領します。

 

繫ぎ 

第二次世界大戦直前のイタリア軍まで見てきました。

やはり、「勝てる戦には勝てるイタリア軍」という傾向が見えてきましたね。

しかし第52アルピーニ師団のように戦意が高く勇敢な部隊もいたのは、イタリア軍に対する「グータラ」なイメージを覆す材料だと思います。

次回は第二次世界大戦編です。

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