歴ログ -世界史専門ブログ-

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【6人】錯乱・狂気・残虐…怖い女たち

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※本記事は残酷な表現を含みますので、苦手な方は読むのを控えてください。

歴史の本を読んでいると、結構な割合で「怖い女」が出てきます。

権力を握って政敵を殺しまくったり、夫や子の死が原因で精神が錯乱したり、嫉妬に狂ってヒステリーを起こしたり。

権力者は男のほうが多いので、数の上でいったら残虐行為をしたのは男の方が多くなるのでしょうけど、そのやり方や徹底度で言ったら女性のほうが一枚上な気がします。

このエントリーでは、そんな「怖い女」を集めてみました。 

 

1. 則天武后(中国)690-705

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粛清を繰り返し皇帝にまで登り詰めた女傑

世界史で必ず習う、唐の時代の女傑。

夫である太宗の死後に尼となっていたところを、皇帝の高宗に目をつけられて後宮に迎え入れられます。ただ、既に皇后がいたためその下の位である昭儀が与えられます。

高宗の子を生むとその子を殺害し、皇后を犯人にでっち上げます。

また、高宗の具合が悪くなると、皇后が呪いをかけているという噂を流し、皇后を牢に幽閉させることに成功。自分が皇后にのし上がります。皇后になった後、前皇后を棍杖で百叩きにした後、四肢切断した上、遺体を酒つぼに投げ込ませたそうです。怖い…。

その後高宗の具合は良くならず、自ら執政を行うようになり、反対派を粛清して恐怖政治を敷きます。高宗は武后を排除する計画を立てますが、これも武后によって知られて未然に終わってしまいます。その後武后の専横は酷くなり、武后の命令で高宗の治療を辞めさせたとまで言われています。そのせいか、間もなく高宗は死亡。

武后の幼い息子の中宗が帝位に就き、武后は親政を執り行います。中宗は成長すると、母を取り除こうと画策しますが、逆に母親によって廃位されてしまう始末。

武后はついには国号を周に変えて自ら帝位に就きます。が、年には勝てず衰え始め、武力を背景に宰相に皇太子への譲位を迫れ、やむなく同意。82歳で死去します。

 

2. イサベル・デ・ポルトガル (スペイン)1428-1496

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癇癪持ちの王妃

エンリケ航海王子を叔父に持つポルトガル王族の生まれで、カスティーリャ王フアン2世の后。

ある時、城の侍女が行方知らずになってしまいます。散々探したが見当たらず、もはや探す場所は他にはないということになって、イサベルの部屋の大きな櫃を開いてみると、中から餓死寸前の侍女が出てきました。…イサベルの仕業でした。

この侍女が夫の寵愛を受けていることに我慢がならなかったのです。

年をとるにつれてイサベルの精神は次第に錯乱し始めます。

  • 刺繍をするのに手元が暗いと言って怒鳴り、明かりを持ってくるのが遅いと言っては怒鳴り、しまいには刺繍台を床に叩き付けて踏みにじってしまう
  • リボンが気に入らない、と怒鳴って着付けた服をびりびりと破いてしまう
  • 放心状態でぶつぶつと何事かつぶやいている

そのような狂気を含んだ性格は、孫のフアナに受け継がれてしまいます。

 

3. 狂女王フアナ (スペイン)1479-1555

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 夫の遺体を抱えてさまよい歩く

フアナは先述のイサベル・デ・ポルトガルの娘。狂女王との異名もあり、その生涯は小説や映画の題材ともなっています。(2001年「女王フアナ」という名前で日本でも公開)

17歳でハプスブルグ家のブルゴーニュ公フィリップと結婚。フィリップは端麗王と異名が付くだけあってかなりのイケメンだったらしく、フアナはたちまち夫に夢中になります。最初はフィリップもフアナに魅了されますが、次第に気持ちが離れていき、フアナは嫉妬から心が不安定になっていきます。

また傲慢なフィリップの政治に嫌気が指したカスティーリヤの貴族たちから、フアナは期待をされるようになり、その責任感も重なり狂気の性格が表面に現れるようになっていきます。 

1506年、フィリップが突如死去。毒殺の疑いもありますが、ペストとも言われています。

フアナは夫の死を認めることができず、遺体を棺に収め、昼間は明かりを避けて部屋に閉じこもり、夜になると村から村、修道院から修道院と棺を運ばせてさまよい歩いたと言います。

その後フアナは父親によって修道院に幽閉され、心の闇が癒えぬままボロをまとい異臭を漂わせ、77歳で死ぬまでの45年間生きました。 

 

4. エリザベート・バートリ(ハンガリー)1560-1614

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美しき快楽殺人犯

バートリ家はトランシルヴァニア公国(現ルーマニア)の名門貴族で、エリザベートは15歳でハンガリーの軍人ナーダシュディ・フェレンツ2世と結婚。

もともと常軌を逸した行動があったものの、44歳のときに夫が亡くなって以降、チェイテ城(現スロバキア領)で残虐行為を楽しむようになったそうです。

有名なものが、「鉄の処女」という名の拷問器具。

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 観音開きの扉に針がいくつもついており、中に入れられ扉が閉まると針が肉体に刺さっていき、出血多量で絶命する仕掛けになっています。

エリザベートは農奴や下層貴族の娘をさらってきては、このような拷問器具でいたぶり悶え苦しむのを見て楽しんだり、美肌効果があるとして血の中に浸かって沐浴したと言います。

1610年に監禁されていた娘の通報により逮捕。差し入れ用の小窓だけの部屋に幽閉され、3年半後に死亡しました。

快楽殺人犯として有名ですが近年の調査によると、ハプスブルグ家はバートリ家に負債があった上、バートリ家は反ハプスブルグ勢力を支援していた事実があったようです。

つまり、バートリ家の者を悪名に仕立て上げ、反ハプスブルグ勢力を潰し、財産を没収して借金を帳消しにする、という策略も働いていたようです。

エリザベートの悪逆非道な伝説は様々にありますが、実際どこまでが真実かは闇に葬られたままです。

 

5. ヴランヴィリエ侯爵夫人(フランス)1630-1676

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実父を毒薬で殺害

幼名はマリー・マルグリット・ドーブレ。

パリの枢密司法官を務める父の元に生まれ、21歳のときにブランヴィリエ侯爵に嫁ぎます。しかしこの夫が大変な遊び人。夫婦共々放蕩の限りを尽くします。

ある日マリーは夫が連れてきた騎兵隊士官で、やはり遊び人のゴーダン・ド・サント・クロワに一目惚れし、浮気を楽しむようになります。

父はそんな状態を憂いてゴーダンをバスティーユ監獄に投獄してしまいます。ゴーダンとマリーは、そんな父を逆恨みするようになっていきます。

マリーは慈善病院に通い詰め、貧しい人たちの食事に毒を盛り、どの程度の量であれば死期が早まるか・遅まるかを実験し記録。

それを元に父に少しずつ毒を盛り続け殺害。解剖の結果でも体内に毒が検出されなかったため、老衰と診断されました。

その後、父親の遺産を狙う兄弟たちも同じように毒薬を使って殺害。ゴーダンとマリーはまんまと父親の遺産を手に入れます。

ところがゴーダンが事故死したことをきっかけに犯罪が露見し、逮捕、死刑になりました。

 

6.ダリヤ・サルトゥイコヴァ(ロシア)1730-1801

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出典:cripo.com.ua

拷問好きなサディスト

ロシア帝国の貴族の娘として生まれ、王族ともつながりがある由緒正しい家柄。

26歳で未亡人となったサルトゥイコヴァは、自分の領地の中で絶対君主のようにふるまい、農奴をいたぶって楽しむようになります。

主に少女や女性をいたぶるのが好きで、何か粗相があればすぐに自ら鞭を持って痛めつけ、死に至るまで打つこともありました。

また、煮えたぎった湯をかけたり、焼いた鉄を肌に当てたりする拷問も好んだと言います。

サルトゥイコヴァは女帝エカテリーナともつながりがあったため、この非道行為はしばらく外部に漏れることがありませんでしたが、被害者の家族の上奏がたまたまエカテリーナに届き、そこから数々の犯罪が露見します。

 当時帝政ロシアでは死刑を廃止していたため、サルトゥイコヴァは死刑にはなりませんでしたが、修道院の地下室で終身刑を言い渡されます。

 

 

編集後記

本当は7人目を入れて、その他6人ももう少し詳しく書こうかと思ったのですが、ちょっとグロすぎて無理でした。。

個人的にこの中で一番気になるのは、狂女王フアナですね。

一番等身大の女性に近いというか、多分「普通の女性」だったんだろうなあという気がします。文中書きませんでしたが、夫に家庭内暴力まがいの仕打ちを受けていたようで、愛と憎しみと、有力者からの「反フィリップ」の期待とを受けて、自らのキャパシティを超えて精神が異常をきたしたのでしょう。

もし、機会があれば続編を書きたいと思います。(多分ないかな…)

 

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