多民族国家・ユーゴスラヴィアの音楽
ユーゴスラヴィアは1943年から1992年まで存在した社会主義国家。
絶対的なカリスマ指導者ティトーのもと、多民族・多宗教の人々が集合し、独自の社会主義路線を歩みました。
「兄弟愛と統一」をスローガンに、公平な経済と富の分配を目指しますが、次第に構成国の独自路線は進んでいきます。
ティトーの死後ますます分権化は進んでいき、各地で構成国の独立戦争が勃発するようになり、1992年に連邦は解体。
現在は、クロアチア、スロベニア、セルビア、モンテネグロ、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナとしてそれぞれ独立国となっています。
このエントリーでは、一連のユーゴスラヴィアの統一と解体の歴史を、主にポップ・ロック音楽の観点から見ていく試みです。
ユーゴスラヴィア音楽の特徴
社会主義国の音楽と言えば、ソ連や北朝鮮のような指導者礼賛のような歌を想像しますが、ユーゴスラヴィアの音楽シーンはかなり自由度が高いものでした。
1961年には社会主義国として初めて「ユーロ・ビジョン(欧州最大の音楽コンテスト)」にも参加。
アメリカや西ヨーロッパの音楽トレンドにも敏感で、流行を取り入れたスタイルのロック・バンドが多く生まれ、世界中にユーゴ・ロックのファンを作りました。
一方で、やはり社会主義国らしく歌詞の内容には敏感で、
後述するベオグラードのロックバンド「リブリャ・チョルバ」の歌は、反体制的であるとして放送禁止にあったりしています。
1. 社会主義・新時代(1950年〜1970年代 )
エルヴィス・プレスリー世代
ユーゴスラヴィアのロックミュージックは1950年代に始まりました。
当初はエルヴィス・プレスリーやチャック・ベリーなどの影響が大きく、多くのバンドがこぞって彼らの真似をしました。
当時を代表するミュージシャンは、「ベオグラードのプレスリー」ことMile Lojpur(ミレ・ロジプル)。
当時珍しかったナイロン製のシャツを着て、マイクを取り付けたギターを奏でる独特の出で立ちは、ユーゴスラヴィアの明るい未来を象徴するものでした。
Prljavi Inspektor Blaža i Kljunovi feat. Mile Lojpur - Šumadijski tvist - YouTube
ビートルズ、ローリングストーンズ全盛期
1960年代、ルクセンブルク・ラジオから流れてくる、ビートルズやローリングストーンズの音楽に若者は夢中になり、どちらが優れているかで流血寸前の騒ぎになったほどでした。
ビートルズに強く影響を受けたミュージシャンの代表格は、Indexi(インデクシ)です。ビートルズのカヴァー曲を発表したり、後にサイケデリックに傾倒していきました。
Indexi - Njene oci, usne, ruke - YouTube
パンク、ヒッピー、フォーク、プログレなど新たな若者文化の登場
パンク・ミュージックが始まったのもこの頃で、Zoran Miščević(ゾラン・ミシェビッチ)が女の子たちの憧れの的となります。
1960年代の終わりには、世界的な反ベトナム戦争の運動の高まりとともに、ヒッピー文化が流行。代表的なミュージシャンは、クロアチアのGrupa 220。
また、ボブ・ディランに影響を受けたフォークソング・スタイルで反戦を訴えるミュージシャンも登場し、人気を集めます。代表的なミュージシャンは、Ivica Perclです。
現状への満足、体制への信頼
1970年代までは、ユーゴスラヴィアの音楽シーンは、ほぼ西側諸国と同じ歴史を辿っていたと言ってよいと思います。
ミュージシャン同士の交流も盛んに行われており、西側のミュージシャンも度々ベオグラードでライブを行っていました。
当時の若者は、独自の社会主義路線を進むユーゴスラヴィアの現状に満足し、また体制への信頼も揺らいでいませんでした。それを象徴する歌が1978年の、Đorđe Balašević(ジョルジュ・バラシェヴィチ)の"Računajte na nas"です。
Računajte Na Nas - Djordje Balasevic, Zdravko Colic i Meri Cetinic - YouTube
1950年代生まれの我々を代表して。僕はティトーへの誓いのために詩を作る
過去や遠く過ぎ去った戦いに触れることはしない。僕はそれが終わってから生まれたのだから
でも僕らのこれからの人生にはまだ戦いが隠されている。深い渦が僕らを脅かす
まだ百もの攻撃が僕らを待っているのを知っている。僕らは平和を守らなければならないのだから
僕らに任せてほしい
ティトーら父親の世代を尊敬しつつ、自分たちがこれから大きな壁に挑む姿を歌い上げています。
2. ティトーの死で揺らぐ連邦の時代(1980年代)
1980年、国父ティトーが死去。連邦を構成する国々は独自路線を求め始め、それを止めようとするミロシェビッチらセルビア人勢力への反発が強まっていきます。
絶対的な権威が去った後のユーゴスラヴィアの音楽シーンはどうなっていったのでしょうか。
新たな音楽への模索
1982年を境に、これまで支配的だったニュー・ウェイブが終わりを告げ、ミュージシャンは独自の音楽スタイルを模索し始めます。
その中で最も人気を博したのが、Oliver Mandić(オリヴェル・マンディチ)のポップでした。彼はステージやPVに女装して登場し、その演出の過激さと斬新さが人々の度肝を抜きました。
OLIVER MANDIĆ - Pitaju me, pitaju, oko moje (1984) - YouTube
また、クラフトワークやYMOといったシンセポップが世界的に流行し、ユーゴスラヴィアでもVideosexやKiril Džajkovskiといったミュージシャンが登場します。
Videosex - Detektivska Prica - YouTube
Kiril Dzajkovski (feat. MC Wasp & TK Wonder)-Jungle Shadow Woodstock Festival 2013 - YouTube
このように全く新しい方向に走る者もいれば、Novi fosili(ノヴィ・フォシリィ)のように、女性や子どもが好む大衆・商業音楽に落ち着くミュージシャンもいました。
Novi fosili - Šuti moj dječače plavi (1980) - YouTube
地域の独自音楽の発展
スロベニアでは、Neue Slowenische Kunst(新スロベニア・アート)という、反ユーゴ、親ドイツ・親オーストリアを打ち出した運動が起こり、論争を巻き起こします。
代表格がLaibachで、ナチスを想起させる音楽とPVは、かなり挑発的です。
一方、マケドニアでは「マケドニアン・ダークウェーブ」という、おどろおどろしいダーク・ゴシック調音楽のムーブメントが起きます。代表的なミュージシャンに、Padot na Vizantijaがいるのですが、意味は「ビザンティンの陥落」という、まあ挑発的な名前です。
Padot Na Vizantija - Početok i Kraj (1985) - YouTube
広がる体制への反発
ティトーが死に、それまで絶対とされていた価値が崩壊すると、体制を批判する歌も多く登場してきます。代表的な反体制ミュージシャンがRiblja Čorba(リブリャ・チョルバ)。
1982年の曲「Na zapadu ništa novo(戦線異常なし)」で、「愚か者だけが理想のために死ぬ」と歌い、体制批判であると指摘され、放送禁止となりました。
Riblja Čorba - Na zapadu ništa novo - Official Video - YouTube
3. ユーゴ内戦時代(1990年代)
1989年、コソボの分離をめぐってセルビアとコソボの対立が激化。さらには1990年、構成国全てで複数政党制が導入され、独立派が力をつけます。
1990年12月には住民投票でスロベニアが独立を宣言。翌年にはクロアチアが独立を宣言。反発するセルビア人勢力と、各地の分離独立勢力との間で内戦が勃発します。
平和と統一を訴えるミュージシャン
戦火が広がるユーゴスラヴィアで、一部のミュージシャンたちは「平和と統一」を願って反戦活動を行います。
Partibrejkers(パルティブレイケルス)、Ekatarina Velik(エカテリーナ・ヴェリカ)、Električni Orgazam(エルケトレチーニ・オルガズム)はRimtutitukiというプロジェクトを立ち上げ、反戦運動を繰り広げます。
彼らはトラックに乗ってベオグラードの町を駆け回るゲリラライブ・パフォーマンスを敢行して平和を訴えます。
Rimtutituki - Slusaj vamo - YouTube
最も有名な反戦の歌が、クロアチア人ミュージシャンのfilm(フィルム)が1992年に発表した"E, moj druže Beogradski"(やあ、ベオグラードの我が友よ)。
Jura Stublić - E moj druže Beogradski (Official Music Video) - YouTube
ベオグラードの我が友よ。オレたちはセルビアの歌は何だって知っていた
戦争の前には良く歌ったものだ。「ようこそ娘さん、クロアチア人の王女様」
ベオグラードの我が友よ。スロヴェニアでは村々が燃えている
ベオグラードの我が友よ。もう海にも行けないな
これはクロアチア人のセルビア民族主義に対する反戦歌として人気を集めました。
セルビア民族主義
そのようなユーゴスラヴィアの統一と平和の運動と対立したのが、民族主義の立場をとったミュージシャン。
先述のRiblja Čorba(リブリャ・チョルバ)は、積極的に大セルビア主義に賛同。
反戦歌であるfilm(フィルム)の"E, moj druže Beogradski"(やあ、ベオグラードの我が友よ)がヒットするや否や、
これをパロった"E moj druže zagrebački"(やあ、ザグレブの我が友よ)を発表し、反戦運動を批判します。
E moj druze zagrebacki - YouTube
クロアチア民族主義
クロアチアでも民族主義のポップやロックも盛んでした。
多くのミュージシャンが、Moja domovina(我が故郷)プロジェクトや、The Best of Rock za Hrvatsku(The Rock for Croatia)プロジェクトに賛同しクロアチアの独立と民族の自治を支持しました。
以下のビデオでは、クロアチア独立宣言時にMoja domovinaが大合唱されている様子です。
Povratak generala - pjesma Moja Domovina na trgu bana Josipa Jelačića - YouTube
まとめ
さて、いかがでしたでしょうか。
かなりサマったのですが、ざっくりユーゴスラヴィアの音楽シーンの流れと、
民族や政治に左右された歴史が分かっていただけたかと思います。
アメリカやヨーロッパ、日本では、バルカン・ビート・ボックスが人気ですが、当のバルカン諸国ではあまり人気がないようです。バルカンと銘打ってますがアメリカのバンドですから、胡散臭いのかも知れません。
最近は1970年代のユーゴスラヴィア・ロックがリバイバルされているようです。
時代は繰り返す、のでしょうかね。