黄金バラまき伝説で有名なマンサ・ムーサの国
マリ帝国は、現在の西アフリカ・マリ、モーリタニア、セネガルの周辺を支配領域とした、黒人国家。
支配地のニジェール川上流域では黄金が大量に算出されたため、サハラ砂漠を越えてやってくるイスラム商人との黄金貿易で大いに繁栄しました。
特に有名なのが、皇帝マンサ・ムーサの聖地巡礼。高校の歴史教科書でも出てくるため、覚えている人も多いと思います。
ですが、マリ帝国についてはあまり良くわかっていないことだらけで、多くは謎に包まれています。
黄金で繁栄した黒人国家の謎に近づいていきましょう。
マリの前任者・ガーナ王国
ニジェール川上流域は、古くから黄金が採れたため、その採掘や交易管理をするための組織や統治機構が早い段階から発達していました。
8世紀〜11世紀には、ガーナ王国がニジェール川上流を支配します。
もともとこの地域に住んでいた黒人のマンディンゴ系ソニンケ人は鉄器を知らず、
北方よりやってきた遊牧民族ベルベル人の軍事力に屈していましたが、技術を吸収してベルベル人を駆逐し、自分たちの王国であるガーナを築き上げます。
アラブ人によるガーナ王国の記述
アラブ人地誌学者のアル=バクリーがガーナ王国についての記述を残しています。
- 金の価格の下落を防ぐために供給量に制限を加えていた
- 国外に出入りする商人が保有する金の量に応じ税を課していた
- 4万人以上の弓矢で装備した兵、20万人以上の軍隊を常備させている
- 町は王の住むアル=ガーバという場所と、10キロほど離れた住民の住む町がある
これを見る限り、かなり組織された統治機構を持った国であったことが分かりますね。
ガーナ王国はその後、スス王国のスマングル王に滅ぼされます。
しかし、そのスマングル王を滅ぼしてマンディンゴ人の王国を復活させたのが、
マリ帝国の始祖とされるスンディアタ・ケイタです。
マリ帝国の始祖 スンディアタ・ケイタ
もともとスンディアタは、地元の氏族集団の長に過ぎなかったのですが、周辺の部族を統合して組織化し、強力な軍団を作り上げます。そして近隣の土侯国を襲っては傘下に組み入れていきました。
ガーナ王国を倒し、当時最も勢いのあったスス人の王スマングルは、急激に伸張してきた新興のスンディアタの軍勢とぶつかります。
1235年に数ヶ月に及んだ両勢力の戦いはスンディアタ軍の勝ちに終わり、スス人勢力は一気に弱体化。
スンディアタは旧ガーナ王国の領土を掌握し、ニジェール川上流域の黄金貿易に乗り出します。
拡大期:大西洋沿岸部〜ニジェール川中流域
13世紀の中頃までには、マリ帝国は大西洋沿岸部からニジェール川中流域までの広大な領域を支配下に置きます。
スンディアタ・ケイタの死後、2代皇帝ワリ・ケイタはニジェール川中流域のソンガイ王国を征服。また、サハラ南部のテクルール王国を征服。これにより、サハラの錫鉱脈をも支配下に置きます。
10代皇帝マンサ・ムーサの豪華な巡礼旅行
10代皇帝マンサ・ムーサは1312〜1337年の間の統治でしかありませんが、マリ帝国の中でもっとも名の知れた皇帝です。
1324年、マンサ・ムーサは豪華絢爛な巡礼旅行を行い、イスラム・ヨーロッパの人々の度肝を抜き、黄金の国・マリの名を不動のものとしました。
その伝説を挙げると以下のようになります。
- 巡礼旅行には500人の奴隷が従えていたが、その全員が6ポンド(約2.7キロ)の金塊を抱えていた
- 100頭のラクダの背中にはそれぞれ、300ポンド(約136キロ)の金塊が積まれていた
- カイロに着いた一行は、巡礼先のモスクで信じられない量の金を喜捨した
- マンサ・ムーサがバラまいたせいで、カイロでは金の価格が暴落し、10年はインフレ状態が続いた
このことで黄金の国マリの名を歴史に深く刻んだことは功績の1つかもしれませんが、
大事なお得意様のイスラム商人を敵に回すようなことをして平気だったのか、という気になりますね・・
新興勢力によって倒される
マリ帝国は、進んだイスラムの文化を取り入れることでさらに発展していきます。
建築・学術は格段に進歩。政治組織が機能的に働いたため、安定した政治が実現し、治安も安定。その繁栄ぶりは、イスラムの大旅行家・イブン=バットゥータの旅行記にも記されています。
しかし15世紀中頃、属領だったニジェール川中流域のソンガイ帝国が勢力を拡大し、マリ帝国は衰退の一途を辿ります。
西アフリカはソンガイ帝国、バンバラ王国、モシ王国などの強力な地元勢力によって群雄割拠の状態に突入。
1591年には、黄金伝説に憧れたモロッコが北方から侵入しますが、既に金は採れ尽くされており、残っていたのは内乱で荒れた町や田畑だけでした。
マリ帝国も細々と命脈を保ちますが、17世紀のバンバラ人の反乱によって国王は失脚。ここにマリ帝国は終焉を遂げます。