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【タイ】アユタヤの日本人町に行ってみた

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日本人町で有名なアユタヤ

タイの最盛期を築いたアユタヤ王朝は、1351年に前王朝のスコータイを引き継ぐ形で始まりました。

一度はタウングー朝ビルマの勢力下に陥ったものの、16世紀後半にビルマ勢力を国内から追い出し最盛期を迎えました。

15〜17世紀、首都アユタヤは港町として、ヨーロッパ、イスラム、インド、中国、日本など各国の貿易船で大いににぎわいました。

有名な日本人町もこの時にできたもので、江戸幕府の鎖国政策が始まるまで栄えました。

アユタヤ王朝は400年近く栄えましたが、1767年に再度侵攻してきたビルマに首都を占領され崩壊。その後、首都をバンコクに置いたトンブリ王朝がタイ民族の国を再興し、現在のチャクリ王朝に引き継ぎ現在に至ります。

 アユタヤへの電車での行き方

バンコクのフアランポーン駅からアユタヤまでは電車で行けます。

2等席で245バーツ(約750円)、所用約1時間半。 

バンコク→アユタヤのタイムテーブル

05:20、05:45、06:40、08:20、10:05、11:40、15:20、17:15、18:35、20:00、20:30、20:45、21:50、22:35

アユタヤ→バンコクのタイムテーブル

02:37、02:54、03:15、03:55、04:04、05:25、05:50、06:24、09:41、12:40、13:17、15:35、16:37、19:05、21:42

※2013年12月時点時点

かなり破壊された旧王都

現在残っている石造りの巨大な宮殿群は、どうやってここまで破壊できたのだろうと思うくらいボロボロです。

ビルマは本気で、アユタヤの息の根を止めにかかっていたことが分かります。

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なぜアユタヤは栄えたか

アユタヤが栄えた理由は2つあります。

  1. インドシナ半島の産物の集積地であったこと
  2. コメがうなるほど採れること

1. インドシナ半島の産物の集積地であったこと

アユタヤは香辛料の集積地ではありませんでしたが、タイ、ラオス、カンボジアで採れる産物(蘇木、鹿皮などの林産品)を租税という形で物納させたり、買い上げてたりしていました。

それを王室が独占的に海外の商人に売却することで、多額の利益を上げました。

日本でもこれら林産品は珍品として高い値で売れるため、日本商人も競うように買いあさり日本に輸出していたようです。

2. コメがうなるほど採れること

雑に種をまいてロクに管理しないでも、食い余すほどコメが穫れたようです。

自分たちで食う分以外の余った米は中国に売却。それだけでも巨万の富になったことでしょう。

国として仏教を保護しているので、立派な寺院が建つ。

勉強できるうえに食うものには困らないから、各地から坊主がじゃんじゃんやってきたことでしょうね。

有名な寺で修行した坊主が独立して寺を建てるから、そこかしこに中小の寺が立ち並んでいます。

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山田長政とは何者か

アユタヤ軍日本人義勇兵の頭領として有名な山田長政は、もともと沼津藩主の駕籠(かご)を担ぐ下人だったようですが、1612年に朱印船に乗ってアユタヤに赴き商売を始めます。

前述の、蘇木や鹿皮などの林産品貿易で商業的にも成功した上に、日本人義勇兵の隊長となり軍事的にも成功を納めました。

当時、日本では大阪夏の陣が終わり国内が平穏になりつつあり、職にあぶれた武士がごろごろしていました。そのうちかなりの人数が海を渡って、各地で傭兵稼業をやっていました。当時のアユタヤ王朝の常備軍は貧弱で、日本人義勇兵の活躍は目を見張るものがあったそうです。

当時の国王ソンタムの信頼を得た山田長政は、官位の位を得て最終的にオークヤー・セーナーピムックという欽賜名を賜ります。それは当時の最高の官位の証であり、外国人でありながらタイの官仕の頂点にまで登り詰めました

ソンタム王の死後に王内の勢力争いに巻き込まれ、プラーサートーン王によって毒殺されてしまいます。

アユタヤ・ 日本人町跡地へ

日本人町跡地はアユタヤ駅から自転車で20分ほど南に行ったところにあります。

最盛期には人口1000〜1500人程度の規模で、約600名の日本人義勇兵が滞在していたそうです。その頭領が前述の山田長政です。

山田長政が誅殺された後、日本人町も「謀反の疑いあり」とのことで焼き払われてしまい、また江戸幕府の鎖国政策によって朱印船貿易も廃止され、日本人町は消えてしまいました。

 

当時の日本人町跡地は現在、一面の荒れ地になっています。

雑草がぼうぼう生い茂って、何にも建っていません。

日本人町跡地であることを示す看板が立っているのみ。

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日本人町跡地には、山田長政の足跡と日本人町についてのビデオが見れる資料館があります。

小さな資料館ですが、敷地内には日本庭園があってほっこりします。

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これは当時のアユタヤの外国人街の見取り図。

写真中央下に赤字で「Japponois」と書かれています。結構外れの方ですね。

まあ、荒くれ者の外国人の武装集団なんて怖くて近くには置きたくないですもんね。

他には、マラヤ人街、中国人街、ポルトガル人街、ビルマ人街(ペグー)が地図上に見えます。

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