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フランコ独裁体制下のスペインの歴史

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硬直したカトリック保守体制の正体 

 スペインは1975年まで軍人フランシス・フランコの長期独裁体制下にありました。

当時のスペインはカトリック信仰に基づいた保守的・家父長的な規範が推奨され、国が隅々まで国民を監視し行動や発言、表現に介入してくる極めて息苦しい国でした。スペインは現在は世界でもっともフェミニズム運動が盛んな国の一つなので隔世の感があります。

 フランコ独裁体制のスペインの歴史と社会についてまとめていきます。

 

1. フランコ将軍の反共和国反乱

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 右派と左派の対立

1930年に成立したスペイン第二共和政では、基本的人権の保障と農地改革の実施が公約に掲げられました。特に農地改革は待ったなしと言われ、農民の悲願でした。

政府は労働者・農民保護のための様々な政策を打ちますが、一部の労働者・農民は政府の対応は生ぬるいとさらに急進的な方策を求め反乱を起こしたため国内の治安が悪化します。

治安の悪化を批判された政府は失点を回復するため、イエズス会など教会を反国家的として解散させるなどしたため、保守勢力は激しく反発しました。

土地改革は遅々として進まず失望した農民は社会主義革命を目指す。伝統を重んじる宗教勢力や大土地所有者、カトリック農民はファシスト政党ファランヘ党の下に結集する。

左派と右派の対立が先鋭化していきました。

そんな中実施された1936年2月の選挙では、左翼陣営が右翼・中道陣営に対して勝利を収め、人民戦線政府が成立しました。これに対し、右翼と軍部はクーデターの準備を進め、とうとう7月17日に植民地モロッコでフランコ将軍が反乱を起こしました。

 

内戦の勃発

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17日から19日にかけて各地で反乱が発生しますが、マドリードの反乱は政府軍や武装労働者によって鎮圧され、クーデターは失敗に終わりました。

しかし各地で反乱軍と共和国軍の勢力が割拠し、スペインは二分されました。反乱軍はスペイン北部と西部・南部の都市セビーリャ、東部の都市サラゴサを抑え、首都マドリードを中心に南部・東部は共和国軍が支配しました。

同じくファシスト体制のドイツとイタリアは武器援助のみならず義勇兵をスペインに派遣し、「社会主義体制の阻止」を強力に支援しました。一方共和国軍を支援したのはソ連と反ファシストに同調する国際義勇兵。

世界中から資金や武器がスペインに流れ込み、戦争は長期化・消耗戦に突入していきました。

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反乱軍は1937年春から夏にかけて北部を集中攻撃し聖都ゲルニカを始め全域を制圧。さらに軍を進め翌年4月にはアラゴンを制圧し共和国の支配地域を分断することに成功。ここにおいて共和国の敗退と反乱軍の勝利が確定的になりました。

フランコは勝利を確信し、4月19日に政党統一令を発令。ファランヘ党以外の政党は禁じられ、新生スペインは統一党による全体主義国家であることが宣言されました。翌年3月には「反資本主義・反マルクス主義・カトリズムの社会正義の実現」が新国家の目標であることが謳われ、国家が労働条件を決定すること、水平的組合を禁止して労資が参加する協調的垂直組合を組織することが定められました。

共和国はその後も抵抗を続けるも、1939年3月末にマドリードは陥落。4月1日にフランコは勝利を宣言しました。

 

2. フランコ体制の確立

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フランコ体制下の社会の保守化

フランコ体制は複数のイデオロギー集団によって支えられていました。

フランコの出身母体である軍。スペインの伝統を象徴するカトリック教会。大土地所有者や既得権益層に多い王党派 。地方の農民に多いカトリック保守派。

そしてこのスペイン・ナショナリズムと保守的カトリシズムが混ざった文脈を結党し大衆動員させたのがファランヘ党でした。

 

フランコ体制下ではカトリシズムの原理に基づく社会の保守化が強力に推進されました。市民は農村に回帰して就農すること、女性は夫に従順な妻として家庭に戻ることが推奨されました。自由主義や社会主義、女性解放といった思想は弾圧され、本やメディアも当局の検閲を受けました。スペインの伝統的な秩序や精神が喧伝され、それに反するとされた者には容赦なく逮捕や財産没収が行われました。

 

 ファシスト国家スペイン

フランコ体制は内戦を経て成立したこと、当時の欧州が世界大戦直前であったことから、当初はファランヘ党的なファシズム志向が強い体制でした。

そのイデオロギーから枢軸国に近く、ドイツやイタリア、日本と並んで防共協定に参加しますが、大戦が始まるやすぐに中立を宣言しました。内戦によって経済は崩壊している今の状態で、何か大きな見返りがないととてもじゃないが戦争には参加できない、とフランコは考えました。ヒトラーは当初はスペインの参戦を促しますが、フランコはこれに対し北アフリカの権益拡大やジブラルタルの奪回などを要求したため、ヒトラーも首を縦に振りませんでした。

しかしドイツの快進撃が続いたため、フランコは勝ち馬には乗ろうと中立から「非交戦国」と立場を変え、独ソ戦に義勇兵師団「青い師団(ディビシオン・アスル)」を投入しました。

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Source: FOTOGRAFÍA DE LA BANDERA ESPAÑOLA PRESIDIENDO UN ACTO DE LA DA 

しかし枢軸側が劣勢になるとすぐに師団を撤兵させ、立場を再び「中立」に変え、国際社会に自分たちが枢軸と近くないことを必死にアピールしました。しかし国際社会の不信感は強く、戦後スペインは国際連合から排除され孤立していくことになります。

 

フランコ体制の国際的孤立

戦後、枢軸寄りだったスペインの立場は厳しくなることが予想されたため、フランコは国民憲章を成立させたり、法の前の平等や言論の自由、国民投票の実施などを相次いで宣言し国際社会の信頼を得るべく腐心しました。

しかし国連はスペインの大戦中の枢軸国側での行動を非難し、各国大使を召還勧告し、すべての国連機関からスペインを追放しました。

国際社会から追放されたことで、国内では反体制派が活性化し、左翼勢力が都市や山岳地帯でゲリラ戦を繰り広げました。しかしフランコはこれを徹底的に弾圧。さらに国際社会からの干渉がないことをいいことに、国民にナショナリズムをあおった上で国家元首継承法の国民投票を実施し「フランコか、共産主義か」を問わせました。

結果法案は可決し、フランコは終身元首の地位を手に入れました。

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3. 冷戦の勃発とスペイン

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自給自足経済政策「アウタルキーヤ」

 スペインは経済的にも危機にさらされていました。

内戦では街やインフラは破壊され、ドイツやイタリアへの戦費負債は重く国庫にのしかかり、国際社会からの援助もなかったため、自力で経済を立て直しせざるえを得ませんでした。

この時期にとられたのが「アウタルキーヤ(自己充足的経済)」政策です。アウタルキーヤ政策には大きくわけて二つの基本路線があります。

一つ目が「自給自足」。フランコ体制では金と外貨準備高が不足しており、本当に必要な品物のみを輸入し、国内で調達できるものは国内で生産し消費するという方針が打ち出されました。

二つ目が「産業振興」。特に軍事的・政治的な自立を確立するために戦略的に価値のある産業に集中的に投資がされました。

小麦の作地面積や買入価格・販売価格は統制され、原料や食料の配給制がとられました。収益性の低かったり多額の投資が必要な鉄道事業や電力事業などは国有化され、その他にも公有企業が多数設立されました。

しかしアウタルキーヤ政策の効果は緩慢でした。農業分野も不振が続き、配給はままなりませんでした。統制価格を嫌って収穫物を闇市に流す者も多く、配給不足と相まって法外な価格でも闇市場は活況しました。工業の回復も遅れ、労働者の賃金は低いままで購買力はなく、お金が市中に回らない状況が続きました。

 結局、国家の支援を受けた公的企業の経営者と、役人と結んで闇市で荒稼ぎした大農場所有者だけが益を得た形でした。

 

スペインの国際社会復帰

スペイン経済は危機に瀕していましたが、これを救ったのが国際環境の変化でした。

1948年8月にソ連がベルリンを封鎖し、冷戦構造が明確になると、アメリカはスペインに対する態度を変えました。アメリカはスペインを地中海・大西洋の戦略的要衝とみなし、同年マーシャルプランのスペインへの適用を可決し、スペインへの軍事援助案を可決しました。1950年にはアメリカの働きかけにより、国連総会でスペイン排斥決議が撤回され、晴れてスペインは国際社会に復帰しました。

国連食糧農業機関や世界保健機関などにも加入し、1953年にはアメリカの経済援助がスタートしました。

自由主義陣営への帰属に対応し、フランコは脱ファシストを進めます。ファランヘ党員を政権の中枢から遠ざけてファシスト・イデオロギーを消していき、党員は行政や組合の末端に吸収させました。

経済回復は農村から都市への人口の移動をもたらし、経済の中心は農業から工業へとシフトしました。工場労働者が増加すると労働問題への対応を迫られます。経営者は政府に多様な種類の労働者を自由に雇用できるよう求め、組合は政府に最低賃金の保証と八時間労働制を求めました。政府は国際労働機関に加盟し、賃金についての規制を緩和し、労働契約は政府と資本の許容範囲で組合が組織的に行動できるように改正されました。

 

4. 1960年代の経済成長

経済状態は徐々に回復するも、国庫は過支出の赤字体制で外貨は慢性的に不足し、対外債務が支払えなくなりました。

債務返却延期のため、スペインは国際通貨基金(IMF)と欧州経済協力機構(OEEC)による指導を受けることになり、財政健全化とインフレ抑制、貿易と資本の自由化が求められました。フランコはこれを飲まざるを得ず、アウタルキーヤはここにおいて完全に破綻することになります。

労働者の賃金は強制的に抑制されたため、アメリカやヨーロッパの資本が安い労働力を求めてスペインに工場を構え、貿易収支も増加し、さらに西ヨーロッパ各国からのリゾート観光客がこぞってスペインを訪れるようになり、スペインは1960年代に年率7.3%という「奇跡の経済成長」を達成しました。

とはいえ、スペインの一人当たりの国民所得は他の西ヨーロッパ諸国に比べると低く、インフレも加速した上に新規雇用率も低く抑えられたため、国際的な競争力を持つ産業を創出できませんでした。また、金融システムの自由化も進まず強い競争力をもつ銀行制度も存在しませんでした。

1960年代の経済発展は伝統を重んじるスペイン社会に大きな変容をもたらすことになります。

 

スペイン社会の変容

経済発展に伴い、農村から都市への人口の移動が加速。都市化と過疎化が進みました。

これにより、地方の伝統が衰退すると同時に、都市の新しいライフスタイルと価値観が生まれていきます。例えば都市住民を中心にフランコ体制のコアと言えるカトリック信仰が弱体化。お布施のなくなった教会は経営難に陥って、神父が還俗化します。過疎化した農村では教会の維持自体が困難になっていきました。

さらに工場労働者の増加によって組合運動が活性化。彼らはこれまで存在しなかった「中産階級」となって政治的な発言力を増加させることになりました。

購買力のある中産階級はテレビやクルマなど新たな電化製品を買い求めます。彼らにとってはフランコ体制が推奨する伝統的価値観は、古くてうんざりするものになっていました。

 

5. 反フランコ体制運動の激化

都市労働者・中間層が増えると人々の教育水準も上がり、労働運動も組織化し戦術も高度化するようになりました。

共産党系の労働委員会が力をつけ、内戦前のように社会主義革命を目指すのではなく、労働環境の改善を目指す運動に代わり、かつての敵であるカトリック団体との共闘も実現するようになっていました。

学生運動も盛んになりました。学生運動は体制的な組合があったものの、政党のつながりを持つ大学生社会主義団体(ASU)のような団体もあれば、人民解放戦線(FLP)のような新たな団体が作られ、大学生が主体となり体制に公然と反対する大衆デモが行われるようになっていきます。

そのような反体制運動の一つは、キリスト教民主主義左派のメンバーです。1962年、ミュンヘンで開催された欧州連邦運動の第四回大会で、亡命中の反体制勢力とスペイン国内のキリスト教民主主義左派が一堂に会してスペインの民主化を求めたもので、「ミュンヘン会議事件」と言われます。会に参加したメンバーは帰国後に逮捕されましたが、国内に反フランコ体制の勢力が大きく成長しつつあることを象徴する出来事となりました。

その他には、スペインの自治的な意識が強い地域、バスクとカタルーニャ、ガリシアでもフランコ体制で抑えつけられてきた地域ナショナリズムが解放され、自治や独立を目指した活動が盛んになっていきました。

 

6. フランコ死去と民主体制への移行

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末期的症状

 反体制運動が加速する中、フランコは自分の死後もフランコ体制が続くように制度と後継者の用意をしていました。

1969年7月、ブルボン家の皇太子フアン・カルロスは後継者に指名され、フランコ体制を継続維持することを宣誓しました。補佐役として長年右腕を務めたカレーロ・ブランコ総督が首相に任命されました。そして若い財界人を登用して組閣がなされ、体制継続の基盤が完成した、とフランコは考えました。

しかし国家と企業の癒着事件「スペイン北部織機会社脱獄事件」や、バスク祖国と自由 (ETA)のメンバーが逮捕され死刑判決が出た「ブルゴス裁判」など、時代に合わない強権的で腐敗した事件が明るみに出て、「独裁の末期的症状」と人々に痛感させました。反体制運動は1970年代になるとより高度化し、フランコ体制の打倒と民主化を求める一代運動に集約されていきました。

 

フランコの死

1973年、バスク祖国と自由 (ETA)のテロによりカレーロが爆殺され、ポスト・フランコ体制の一角が早くも崩壊します。

折しもオイル・ショックの影響でスペイン経済は危機に迫られ、人々の不満が高まる中で、カレーロの後継として首相に就任したアリアス・ナバーロは改革路線を打ち出し人心の掌握に乗り出しました。しかし方策としては非常に弱く人々の失望を買っただけでした。

1974年7月、ついにフランコが病に倒れます。反体制派は活気づきますがフランコは9月に復帰し、バスク祖国と自由 と反ファシズム愛国革命戦線のメンバー5人を処刑するなど、ブチかましてみせたものの、翌年10月に再び倒れ翌月に死去。予定通り、フアン・カルロスが国家元首に就任しました。

 

フランコ体制の崩壊

反体制運動は体制の喉元にまで食らいついていたものの、フランコが死んでもすぐにフランコ体制は崩壊しませんでした。

当面はフランコ体制のままどれくらい民主化を達成できるか、という各勢力による探り合いが続きました。二院制の議会の設置、限定的な政党の合法化がまずは認められ、共産党も合法化され、ソ連を始めとした東側諸国との国交の樹立交渉も進みました。

1977年6月、約41年ぶりに選挙が実施されました。首相スアレスが率いる民主中道同盟(UCD)、社会労働党が率いる左翼グループ、そしてフランコ体制の指導者からなる国民同盟(AP)、その他カタルーニャやバスク、ガリシアなどの地方の政党、その他数多くの政党が候補をたてました。

結果、フランコ体制の国民同盟は議席率4.6%と大敗。民主中道同盟が47.1%、社会労働党が33.7%と主導権を握ることになりました。

こうしてスペインは選挙によって合法的にフランコ体制を清算し、選挙に基づく公正な政治体制を新たに作り直していくことになりました。

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まとめ

 相当に端折りましたが、ざっくりフランコ体制のスペインの歴史が理解できるかと思います。

フランコ体制は20世紀前半の大不況から来る国際的な政治的混乱から国を安定させるという目的からスタートし、大戦を乗り越え、ずるずると1975年まで生き延びてしまいました。やや長生きしすぎた感があります。

異論はあるかもしれませんが、フランコは比較的「現実的」な選択ができる男で、体制のスタート時のファシスト・イデオロギーを早い段階で捨て去ることができたのが、体制が長生きできた秘訣だったように思います。

 今はスペインは当時と比べようがないほど、自由でリベラルな社会ですが、今のスペイン人はフランコのことをどう評価するのでしょうか。一方的に断罪も称賛もできないのではないかと思います。それほど現代スペインに残した彼の爪痕は大きなものがあります。

 

 参考文献

 スペインの歴史――スペイン高校歴史教科書 (世界の教科書シリーズ) J・アロステギ・サンチェス, M・ガルシア・セバスティアン, C・ガテル・アリモント, J・パラフォクス・ガミル, M・リスケス・コルベーリャ著, 立石博高, 竹下和亮 , 内村俊太, 久木正雄訳 明石書店

 

スペイン・ポルトガル史 (新版 世界各国史) 立石 博高  山川出版社

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  • 発売日: 2000/06/01
  • メディア: 単行本