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西洋絵画に見るギリシア神話『トロイア戦争』の物語

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 知ってるようで知らないトロイア戦争の物語

 「トロイアの木馬」は歴史に詳しくない人でも知っているくらい非常に有名なお話です。コンピューターウイルスの名前になっているくらいなので、一般的にもなじみ深いです。

しかしその他のエピソードはあまり馴染みがないのではないでしょうか。

古代ギリシア文化を基礎に発展したヨーロッパではトロイア戦争は非常によく知られており、西洋絵画でもたびたびモチーフにされます。

今回はトロイア戦争がモチーフの絵画をピックアップし、著名なストーリーをまとめていきます。

 

1. 不和の林檎 

「不和の林檎」 はトロイア戦争がそもそも発生する原因になったとされる事件です。

ある時、大地を司る女神ガイアがゼウスに対し、人間たちが神を敬う心が薄れている、人口が増えすぎて重い、と不平を言った。ゼウスはこれを聞き入れ、戦争を起こして人口を減らそうと考え、一つ企みをする。海の女神テティスと人間ぺレウスの結婚式の会場に多くの神が招かれたのだが、不和・争いを司る女神エリスが招かれないように謀った。エリスはこれを恨み、宴席に「いちばん美しい女神に」と書かれた黄金の林檎を投げ込んだ

 

▼ヤコブ・ヨールダンス 『ぺレウスとテティスの結婚』 1633年

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 このエピソードは比較的有名ですし、絵画のモチーフとしても非常に人気があります。

オランダの画家ヤコブ・ヨールダンスはキリスト教のモチーフを多く描いた画家ですが、ギリシア神話の絵画も多く描いています。

この絵『ぺレウスとテティスの結婚』 は、ベースの絵はルーベンスによって描かれ画家仲間のヨールダンスが仕上げを行った作品です。右からゼウスと妻ヘーラー(ジュノ)、海の女神テティスと人間のぺレウス、その上に黄金の林檎を投げ込むエリス。手前の裸の女性が愛と美の女神アフロディーテ(ヴィーナス)、その上にかぶさるようにして立っているのが、知恵と戦闘の女神アテーナー(ミネルヴァ)。特にアフロディテの体は肉感が強調されて描かれています。

 

▼ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 『不和の林檎』 1806年

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  19世紀のイギリスのロマン主義画家ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーが描いたのは、この時投げ込まれた黄金の林檎の収穫シーン。この地はアトラス山のさらに東にあるニンフ(下級女神)たちが住むヘスペリデスの園で、手前では一人のニンフがエリスに黄金の林檎を手渡しています。全体的に見るとヨーロッパの山岳地帯の風景画に見えますが、山の上に巨大なドラゴンがいたりして神話の日常風景であることが分かります。

 

 

2. パリスの審判

 結婚式場に投げ込まれた黄金の林檎を誰が受け取るかを巡って、ヘーラー、アテーナー、アフロディーテが争いを起こす。そこでゼウスの命令で、フリュギアのイデ山に住むパリスという男に裁定させることになった。パリスはトロイア王プリアモスと妃ヘカベの末子だったが、誕生の時に生かしておくと王家に禍をもたらすと予言があり、山に捨てられた。しかし親切な羊飼いに拾われて生きながらえ、その後発見されてトロイア王家に復帰していた。

さて、三女神は自分が一番美しいとパリスに対してアピールする。ヘーラーは「世界の支配権」、アテーナーは「戦争で負けなしになること」、アフロディーテは「世界最高の美女」を、もし自分を選んだら与える、と約束する。パリスは迷った挙句、アフロディーテを選んだ。

世界最高の美女と言うと「スパルタのヘレーネー」に決まっている。パリスはスパルタに行くための準備を始めた。

 

▼ ピーテル・パウス・ルーベンス 『パリスの審判』 1636年

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 実はこの「パリスの審判」はトロイア戦争の絵画のモチーフとしては一番人気があります。というのも、神話のシーンなので堂々と裸体を描くことができたからです。

ピーテル・パウス・ルーベンスはこのモチーフがお気に入りだったようで何枚も描いています。この絵は今まさに服を脱いだ三女神を見たパリスが、黄金の林檎を片手に誰に渡そうか困惑している様子です。

三女神のうち、両手を上にあげているのがアテーナー、真ん中にいるのがアフロディーテ、その右手がヘーラーです。空は暗い雲が立ち込めて、雲の中から復讐の女神アレクトが姿を現し、その後の破滅的な未来を暗示させています。

 

▼大ルーカス・クラナッハ 『パリスの審判』 1528年

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 宗教画を多く描いたドイツの画家ルーカス・クラナッハの「パリスの審判」は、三女神は肉体の魅力というよりは神秘性を重視して描かれています。あまり生気がないというか、神様然としていますね。上空にはキューピットが飛んでいて、アフロディーテに矢を当てようとしています。

 

▼ポール・セザンヌ 『パリスの審判』 1862~1864年

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 後期印象派のセザンヌもパリスの審判を描いています。パリスがアフロディーテを選んで、ヘーラーとアテーナーが憤然と立ち去る様子ですが、非常にデフォルメされていています。これだけ抽象的なのに、躍動感があって今にも動き出しそうなのは不思議です。

 

 

3. パリス、ヘレーネーを連れて逃げる

 絶世の美女として知られるヘレーネーは、スパルタ王テュンダレーオスと后レーダの間の娘だが、実は白鳥に化けたゼウスがレーダに種を授けて出来た娘だった。

ヘレーネーの婿選びの際、ギリシア中から数多くの英雄たちが名乗り出た。その数があまりにも多く、下手に選ぶと血の雨が降りかねない状況に困り果てた両親は、オデュッセウスの入れ知恵で、

「もし将来ヘレーネーを連れ去り夫婦の関係を割く者が現れたら、求婚者全員が夫を助け、その恥ずべき男の国を亡ぼす」

ことを求婚者全員に認めさせた。そうして婿選びは進んだが、その中からヘレーネーが選んだのは、先代のミュケナイ王アトレウスの息子で、アガメムノーンの弟メネラーオス。こうしてヘレーネーの婿が決まり、二人はスパルタで暮らしはじめた。

ある時、スパルタの王宮にトロイアから客人がやってきた。トロイアのパリスであった。パリスはヘレーネーに一目会うとその美しさに息をのんだが、ヘレーネーもパリスのイケメンっぷりに見とれた。スパルタ到着から10日後、メネラーオスが祖父カトレウスの葬儀に列席するためにクレタに行かなくてはいけなくなった。そこでパリスは夜半にヘレーネーを連れ、闇に紛れてスパルタから逃げ出した。

 

▼グイド・レーニ 『ヘレーネ―の誘拐』 1631年

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「世界一の美女」ヘレーネーを画家たちが放っておくわけはなく、様々に描いています。

17世紀ボローニャ派の巨匠グイド・レーニは、このシーンを極めて優雅に美しく描きました。人々の服の色彩が豊かで、空も海も澄み切って、誘拐と言いつつまるで遊びにでも行くかのようです。

 

▼ティントレット 『ヘレーネーの強奪』 1578~1579年

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 ティントレットが描くヘレーネーの強奪は、まさに強奪といった感じです。強奪に気づいたスパルタ側の追っ手の攻撃に対してトロイア側が防戦し、今まさにヘレーネーを船に乗せて出港しようとしています。非常に緊迫感のある絵です。

 

 

▼ジャック=ルイ・ダヴィッド 『パリスとヘレーネ―の愛』 1788年

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強奪のシーンではなく、パリスとヘレーネーの姿を単体で描いた作品も数多いです。

ダヴィッドの描いたパリスとヘレーネーは、ベッドの前で触れ合う二人を描いています。きっとこれからアレが始まるのでしょう。左側の柱の上には愛のアフロディーテの像が置かれ、アフロディーテと夫婦愛の象徴でもある銀梅花の花輪が見えています。

 

▼フレデリック・サンディス 『トロイアのヘレーネ―』 1867年

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 イギリスの画家フレデリック・サンディスは、ロマ人の恋人ケイオミ・グレイを、アーサー王伝説に登場する乙女ヴィヴィアンやモーガン・ル・フェイになぞらえて描きました。彼は美しく自信に満ち、男を誘惑し破滅させる物語に惹かれ、ヘレーネーもおそらくケイオミ・グレイをモデルにしていると思われます。 

 

 

4. ケイローンによるアキウレスの教育

 海の女神テティスと人間ぺレウスの間には、神と人間の血が半分混ざった男子が誕生した。名前をアキレウスといった。

しかし女神テティスは、息子の血の半分が人間であることが嫌でしょうがなく、アキレウスの体を火であぶり人間の血を蒸発させようとした。これをぺレウスがとがめたことで大喧嘩になり、二人は別居することになった。テティスは実家のある海の底へ帰っていった。

ぺレウスは火ぶくれしたアキレウスの治療のため、ペーリオン山に住む馬人ケイローンを訪ねた。ついでにケイローンにアキレウスの教育を頼んだ。野山をかけ、獣の肉を喰らい、九年もたてばアキレウスは立派な青年に成長していた。10歳になった時、ケイローンはこれ以上何も教えることはないとして、ぺレウスに元に帰らせた。

 

▼ジャン=バプティスト・ルニョー 『アキレウスを教えるケイローン 』 1782年

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 18世紀フランスの画家ルニョーが描いたのは、ケイローンがアキレウスに弓の放ち方を教えるシーン。少年アキレウスの姿は美しく、ミケランジェロのダビデ像のようです。

 

 

5. 見つかったアキレウス

 この頃、ヘレーネー奪還のための軍勢が続々とアウリス港に集まっていた。

預言者カルカースはアガメムノーンを呼んでこう言った。「ぺレウスの息子アキレウスを遠征に参加させないとトロイアは攻略できないだろう」。そこでオデュッセウス、アイアース、ネストールの3人が使節としてプティアに派遣された。

海の女神ティティスは、アキレウスがトロイアの戦場に行くと必ず戦死するだろうことを知っていた。そこでスキューロス島の王リュコメーデスの元に預けることにした。リュコメーデスは要請を受け入れ、アキレウスを女装させ後宮の中で女性たちと暮らさせることにした。

アキレウスがスキューロス島に隠れていることを知ったオデュッセウスらは、さっそくリュコメーデスを訪ねた。変装に自信のあるリュコメーデスは三人が島を捜索することを許可した。オデュッセウスは一計を案じ、ラッパを吹きならし部下たちに武器のぶつかる音や鬨の音を出させた。後宮に隠れていたアキレウスは、敵襲と勘違いして盾と槍を持ちだして応戦しようとした。「お前がアキレウスだね」。とうとうアキレウスはオデュッセウスらに見つかった。

 

▼ ピーテル・パウス・ルーベンス 『アキレウスの発見』 1618年

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 ルーベンスが描いたこのシーンは若干異なっています。オデュッセウスらは商人に扮してスキュロース島を訪れ、宝石やアクセサリーを後宮の女性たちに見せました。しかしアキレウスはそれには興味を示さず、武器を手に取ってしまいました。まんまと策略にかかり、オデュッセウスに「お前がアキレウスか」と腕を掴まれています。

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6. ピロクテーテス、レームノス島に置き去りにされる

 アウリス港に集まった軍勢は船に乗りトロイアを目指した。途中、テネドス島に降り立った。テネドス島はテーネースという王がいたが、アキレウスによって殺された。テーネースはアポローンの息子であり、アポローンへ許しを請い、今後の戦いの祈願をするため犠牲祭を行った。その儀式の途中、女神ヘーレーが遣わせた水蛇が弓使いピロクテーテスの足に噛みついた。

数日たつとピロクテーテスの足には毒が周り腐って異様な臭いを放つようになった。首脳陣は困惑し、オデュッセウスの提案でピロクテーテスをレームノス島に連れていき傷を治してもらうことにした。こうして痛みに泣き叫ぶピロクテーテスを置きざりにして、軍勢はトロイアに向けて再び出発した。

 

 ▼ニコライ・アビルゴール 『傷ついたピロクテーテス』 1775年

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 ニコライ・アビルゴールは18世紀のデンマークの画家で、画風は新古典主義です。この絵は彼はピロクテーテスの苦悩した状態を描くために、古典彫刻の主要な作品を基にしています。痛みのあまりに湾曲した身体を描くために参考にしたのが、バチカン美術館にある「ベルヴェデーレのトルソ」であるそうです。

 

参考「トルソのヴェルベーレ」

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 Photo by Sailko

 

 

 7. テティス、アキレウスに武具を授ける

トロイアの海岸に陣を構えたギリシア軍は、アキレウスの活躍もあってトロイア勢を押しまくった。アキレウスはトロイアと同盟を結ぶ町を多く占領した。

 ある時、アキレウスはテーベ―という町を占領した。そこでクリューセーイスという名の美女が捕らえられた。彼女は総大将アガメムノーンに進呈された。

しばらくして後、ギリシア軍の本陣にクリューセースという名の神官が訪れてきて、娘クリューセーイスの返還を求めた。しかしアガメムノーンはこれを拒否した。怒ったクリューセースは守護神アポローンに祈願をし、本陣に神の矢を雨のように降らせた。アキレウスは「このままでは全滅してしまう」としてアガメムノーンに娘の返還を求めた。しかし逆にアガメムノーンはアキレウスを非難したため、アキレウスは激怒し、母テティスに「アガメムノーンとギリシア軍を罰してください」と祈った。テティスは了承し、ゼウスに頼んでギリシア軍を大いに苦しめることにした。

ギリシア軍は劣勢が続い、本陣にもトロイア軍が押し寄せ、船にも火がかけられた。そしてとうとう、アキレウスの部下パトロクロスが、敵将ヘクトールと戦った後に死亡した。アキレウスは大声で泣きわめいた。その声を聞きつけたテティスは、アキレウスのために鍛冶の神ヘーパイストスが作った武具を運んできた。多くの将兵が集まり、その場でアキレウスはアガメムノーンと和解した。そして武具を身に着けて再び戦場へ出ていった。

 

▼アンソニー・ヴァン・ダイク 『ヘーパイストスからアキレスの武器を受け取るテティス』 1630~1632年 

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 アンソニー・ヴァン・ダイクが描いたのは、テティスが鍛冶の神ヘーパイストスから武器を受け取った時の様子です。一見なんてことのないシーンですが、周りに無垢なキューピッドたちがいることで絵全体が和むものになってるし、テティスの神性が際立つようになっています。

 

 

8. トロイア軍総大将ヘクトールの死

アキレウスとトロイア軍総大将ヘクトールは戦場で相まみえるも、ヘクトールはアキレウスの武力に太刀打ちできなかった。哀れんだアポローンがヘクトールを助けたことで何とか生きながらえた。

逃げるトロイア軍をギリシア軍は追い、スカマンドロス河畔でトロイア軍は大いに殺されるも、川の神スカマンドロスはギリシア軍に怒り氾濫させ、またアポローンがアキレウスをおびき出したので、トロイア軍は城の中に逃げ込むことができた。

トロイア軍総大将ヘクトールは城門の前でアキレウスを待ち構えた。アキレウスとヘクトールは一対一の勝負を繰り広げ、アキレウスの槍がヘクトールの喉にヒットし打ち倒した。アキレウスはヘクトールから武具をはぎとり、遺体のかかとに穴をあけ、そこに牛革の紐を通し、戦車にくくりつけた。そして馬に鞭を打って、遺体を引きずって走り出した。

その晩、ヘクトールの老父プリアモスが一人で敵陣のアキレウスの元に参上し、ヘクトールの遺骸の返却を求めた。老人の勇気に心打たれたアキレウスは望み通り遺骸を返してやった。

 

▼フランツ・マッチ  『ヘクトールの遺骸を引きずるアキレウス』 1892年

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19世紀末のオーストリアの画家で、グスタフ・クリムトと共に活動したフランツ・マッチがこのシーンを描いています。ギリシャのコルフ島にあるオーストリア后エリザーベトの宮殿「アキレイオン」の壁に描かれています。

 ▼ジャック=ルイ・ダヴィッド 『夫ヘクトールの遺体をに触れたアンドロマケの悲しみと反省 』 1788年

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 ナポレオンの肖像画や「マラーの死」など英雄の肖像で有名なダヴィッドは、ヘクタールの死も描いています。この絵には老父プリアモスは出てこず、妻アンドロマケが子どもを抱えて夫の死を嘆き悲しむシーンです。ダヴィッドは9歳の時に父親を失っているため、個人的な思いを投影したのではないかと考えられています。 

 

 

9. アキレウスの死

総大将の死で窮地に陥ったトロイア軍だが、カッパドキアの地からペンテシレイア率いるアマゾーン軍団、次いでエチオピア王メムノーン率いる軍勢が救援に訪れた。しかしペンテシレイアもメムノーンもアキレウスによって殺されてしまい、援軍は四散してしまった。アキレウスの傍若無人っぷりを忌々しく思ったアポローンは、これ以上トロイア勢を殺したらお前を痛めつける、と脅した。アキレウスは「いつも私のことを邪魔するくせに何を言うか」と言って無視してしまった。

アポローンは「神の忠告を無視するとは正気ではない」とつぶやき、やおら弓を引いてアキレウスのくるぶしに当てた。アキレウスは痛みに耐えながらなおも戦ったが、とうとう倒れて死んだ。

 

▼ ピーテル・パウス・ルーベンス 『アキレウスの死』 1630~1635年

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 ルーベンスの描いたアキレウスの最期のシーンは、イリアスにはない後世のバージョン。このバージョンではアキレウスを殺したのはアポローンではなく、アポローンに導かれパリスということになっています。アキレウスを支えるのは部下のオウドメドーン。またアキレウスは戦いの最中ではなく、トロイア王プリアモスの娘で美女のポリュクセネーとの結婚を待つ前の儀式の最中に殺されたことになっています。

 

 

10. アイアースの自殺 

アキレウスの死後、ギリシア陣営は指導者も兵も嘆き悲しんだ。アキレウスの遺体は燃やされて荼毘に付され、巨大な墓が岬の先端に作られた。

そして葬儀が行われた日と同日、アキレウスを追悼する競技大会が催された。徒競走、レスリング、弓術、円盤投げ、幅跳び、戦車競走、馬比べ、ボクシングが行われ、勝者にはアキレウスの遺品が送られた。

最期に海の女神テティスは、自ら鍛冶の神ヘーパイストスに特別に作らせた武具を持ち出して言った。「我が子アキレウスの遺骸を守った者を、軍随一の武士と認めこれを授けよう」。この申し出に立候補したのはオデュッセウスとアイアースであった。両者はどちらが優れているか(傍目から見るとみっともない)口論を戦わせた。審判役を任されたトロイアの捕虜たちはオデュッセウスの勝利とした。この判定を聞いたアイアースは、あまりの屈辱に耐えられなくなり、かつて戦場でヘクトールから奪った剣で自らを貫いて死んだ。

 

▼アンリ・セルール 『アイアースの死』 1820年

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 アイアースの死は、古代や中世の戦いの絵を得意としたフランスの画家アンリ・セルールが描いています。「おのれ、なぜわしは嫌われるのか」と神に対して恨み言を叫んでいるシーンです。剣はまだ懐にあるので、これから懐から抜いて自らの首に刺すと思われます。海も空も暗く荒れて、天の一部が光り輝き神が自死を見守っています。

 

 

11. トロイアの木馬

アキレウスの死後、ギリシア軍は防戦一方となった。撤退論すら出る中で、占い師カルカースがアキレウスの息子ネオプトレモスを呼び寄せようと提案。承諾された。スキューロス島にオデュッセウスとディオメーデースが派遣され、20歳になるネオプトレモスを説得した。若者は喜び勇んでトロイアへと渡った。 父アキレウスの武具をまとったネオプトレモスは戦場に着くなり活躍しトロイア側の死骸の山ができた。アポローンは第二のアキレウスの登場に腹をたて、再び殺そうとしたが、海の神ポセイダオーンに怒られて逃げていった。

一方、トロイアの預言者ヘレノスは「レームノス島にいるピロクテーテスがいないとトロイアは落ちない」と言った。すぐにオデュッセウスとディオメーデースはレームノス島に行った。ピロクテーテスは洞窟の中で身を横たえ、すっかりやせ衰えていた。二人は10年間も放置した非を詫びた。ピロクテーテスはこれを許し、トロイアの戦場に向かった。

戦場に戻ったピロクテーテスはよくしなる弓を放ち、パリスに二発の矢を打ち込んだ。パリスはもんどりうって倒れ、苦痛に叫んだ。矢には毒が塗ってあり命は長くはなかった。死から逃れたいがためイーデー山に登り、前妻で治療の心得のあるオイノーネーに願った。ヘレネーに惚れてお前を捨てた非を詫び、治療してくれるようにと。しかしオイノーネーは自分を捨てた夫を許さず、治療をしなかったためパリスはまもなく死んだ。

その後もギリシア軍は攻めたがトロイアの巨大な城壁に太刀打ちできず、ネオプトレモスの親の七光りも消えかけていた。手詰まり感の中で、オデュッセウスが策略でトロイアを落とす方法を提案した。それが、巨大な木馬を作りその中に指揮官が隠れ、待ち伏せをするというもの。一人の兵士が木馬の外に残り、これは女神アーテネーをなだめ奉献するためだ、と言えばトロイア側は木馬を中に連れていくだろう。

外に残る重要な役目はシノーンという、腕は平凡な男が立候補した。木馬にはオデュッセウス、ネオプトレモス、メネラオース、ディオメーデス、テッサンドロス、アカマースなどが乗り込んだ。

作戦決行の日、トロイア側は突然現れた木馬を怪しみながらも、王プリアモスをはじめ主だったトロイアの人々はシノーンの巧みな芝居を信じてしまった。神官ラーオコーンはギリシア側の魂胆を見破り、木馬を焼き討ちするように主張した。業を煮やしたアテーナーは毒蛇を派遣しラーオコーンの子ども二人を殺した。人々は怯え、木馬を城内に引き入れることにした。

 

 

▼ ジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロ 『トロイアの木馬の行列の詳細』 1760年頃

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 トロイア戦争を描いた絵でもっとも有名な作品が、このジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロのトロイアの木馬の絵でしょう。木馬は筋肉も盛り上がりやたてがみの詳細までまるで本物の馬のようなリアルな仕上がりとなっています。さすが神の子である英雄が作った木馬というところでしょうか。ジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロはこれ以外にも、木馬の建設中を描写した絵も描いているので、この逸話によほど思い入れがあったようです。

この絵自体はまだ油絵の下書きの段階とのこと。他にもトロイアの木馬に関する連作があったようですが、行方知れずとなっています。

 

 

12. トロイアの陥落

トロイアの人々は祝勝の宴に酔いしれ、夜半まで酒を飲んで酔いつぶれた。この時を待っていたシノーンはこっそり城を抜け出し、たいまつを持ってアキレウスの墓の上に登り高々と掲げた。これを合図に、対岸のテネデス島に待機していたギリシア軍がいっせいに船にのりトロイアを目指した。 

シノーンは城内に戻り木馬にそっと声をかけた。オデュッセウスをはじめギリシア兵たちは木馬から降りて、手当たり次第に酔いつぶれたトロイア兵を殺戮していった。そこに全速力でやってきたギリシア軍が合流した。城門は解き放たれ、やすやすと町に入ったギリシア軍はトロイアの男たちを殺した。トロイア側の抵抗もあったがむなしいものだった。女たちは地面に倒れて泣き叫んだ。

 

 

▼フランシスコ・コリャンテス 『トロイアの炎上』

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劇的なトロイア陥落の様子は多くの画家にモチーフにされました。

後期フランドル派の影響の強い風景画で有名なスペインの画家フランシスコ・コリャンテスは「トロイアの炎上」を描き、トロイア戦争を描いた絵の中でもよく知られています。コリャンテスは風景画を得意としましたが遺跡にも関心が高かったようで、この絵で古代のトロイアの建物や町の構造を想像も交えて再現しました。炎上と阿鼻叫喚の様子をドラマチックに描いています。

 

▼アダム・エルスハイマー 『トロイアの炎上』 1604年

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 アダム・エルスハイマーは17世紀ドイツの画家で、レンブラントやルーベンスなどに影響を与え、バロック画派の先駆的な作品を残した人物です。この絵では、陥落したトロイアの街から人々が逃げ出す様子を明暗のコントラストを大胆に用いて描いています。画面中央には木馬から兵士が出てくる様子が見え、奥には炎上するトロイアの街、手前には逃げ出す人々。中央→奥→手前といくつかの時間軸が描かれています。

 

 

13. トロイア王プリアモスの死

 トロイアの上層部も次々とギリシア兵によって殺された。トロイアの長老イーリオーネス、トロイアの同盟市プリュギアの王子コロイボス、将軍アゲーノール。

ネオプトレモスはトロイア王プリアモスの王子ポリーテースを見つけて殺した。その傍らに、プリアモスを見つけた。プリアモスはネオプトレモスに槍を投げつけたが、もう力は残されていなかった。ネオプトレモスは易々とプリアモスの首を切り落とした。

 

▼ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル 『プリアモスの死』 1861年

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フランスの画家ジュール・ジェゼフ・ルフェベールは美しい女性の姿を描き続けた画家ですが、伝説上のドラマチックな絵もいくつか描いています。

プリアモスは無力な老人のように描かれ、ネオプトレモスの振り下ろす刃によって血の海に倒れるその寸前を描いています。左下に倒れているのは息子のポリーテースでしょうか。

 

 

14. 見つかったヘレーネー

 パリスが死んだあと、ヘレーネーはパリスの弟デーイポポスの妻となっていた。

デーイポポスは死力を尽くして戦ったが、オデュッセウスやメネラーオスがヘレーネーの館に突入するとあっけなく殺されてしまった。しかし視界にはヘレーネーの姿はなかった。メネラーオスは館の中をずんずん進み、とうとう奥でヘレネーを捕まえた。メネラーオスは裏切りの妻ヘレーネーの姿を見るなり、嫉妬のあまり衝動的に殺そうとしたが、愛の神アフロディーテが剣を払い落とし、メネラーオスの心の奥にある甘い感情を湧き出させた。ヘレーネーの美貌を前にするとメネラーオスはもはやヘレーネーを殺す気にはまったくなれなかった。

 

▼アレクサンダー・オーターク 『ヘレーネーを見つけたメネラーオス』 不明

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オーストリアの画家・イラストレーターのアレクサンダー・オータークは、怒りに震え今まさにヘレーネーを殺そうとするメネラーオスの姿を描きます。アフロディーテの使者であるキューピッドが右手にはりつき、このすぐ後にメネラーオスは怒りを忘れることになります。血の滴りなどリアルだけどどこかイラストチックなところもあり、かなり現代的な画ですね。

 

 

15. トロイア陥落後

栄光のトロイア王国がつぶれていく様子を見て、女神アテーナーは大変上機嫌だった。

ここに、プリアモスの娘カサンドレーがアテーナー神殿に逃れてきた。カサンドレーはアテーナーの木像にしがみついて助けを請うたが、ここにオイーレウスの子、小アイアースがやってきて娘を凌辱してしまった。

トロイア陥落後、男たちはほとんど全員殺され、女たちは捕らえられ奴隷となった。ヘレーネーも同じように捕らわれの身となった。この女の裏切りのために20年間戦いが行われ、多くの将兵が死に、トロイアの街は滅びた。人々はヘレーネーがどのような仕打ちになるのか、と興味津々だった。

ヘレーネーはメネラーオスに言った。「私は好き好んであなたを捨てたのではなく、パリスに無理やり連れていかれたのです。私は閉じ込められ、どれだけ苦しみ、自殺を考えたか」メネラオースは「こうやって元に戻ったのだから、そのような過去は忘れるがよい」と言ってすべて許した。ヘレーネーは喜びにあふれ、夫に抱きつき、二人はベッドに横たわった。

 

ギリシア勢は意気揚々と、船に財宝や捕虜を積み込んで故郷に向けて出発した。これを苦々しく見ていたのがアテーナーであった。アテーナ―は、アテーナー神殿に助けを求めに来たカサンドレーを小アイアースが凌辱したことを忘れていなかった。アテーナーはゼウスに頼んで、雷鳴を起こしてギリシア軍を懲らしめることにした。

ギリシア軍の大船団は、アテーナーの起こした暴風雷雨でこなごなに砕け散った。船はこっぱみじんに砕け散り、人々は海に投げ出された。トロイアを発つときは1000余りあった船の中で生き残ったのはわずか数十隻に過ぎなかった。運よく生き残ったのは、アガメムノーンやオデュッセウス、メネラーオス、ディオメーデース、ネオプトレモスらのみだった。アテーナーの怒りを買った小アイアースも何とか陸地にたどり着いたが、カペーレウスの岩場にポセイダオーンによって大岩が投げつけられた。小アイアースは死んだ。

その後陥落したトロイアの街も、ポセイダオーンが起こした津波によって飲み込まれ水没した。

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まとめ

長々とまとめてきましたが他にも様々な逸話があります。

めちゃくちゃ面白いのですが、全体をこうやって流して読んでいくと、誰も幸せになっていない酷く救われない話な気もします。善悪二元論というものがポピュラーになる以前の物語なので、そういう意味ではリアルな気もします。

興味を持たれた方はぜひ、本を手に取ってみてください。

 

絵画シリーズ

秘密のメッセージがあると噂される有名な絵画

画家が自殺する直前に描いた絵画10枚

西洋美術で学ぶ聖書の物語(後編)

西洋美術で学ぶ聖書の物語(中編)

西洋美術で学ぶ聖書の物語(前編)

 

 参考文献・サイト

「 トロイア戦争全史(講談社学術文庫)」 松田治 2014年11月28日 Kindle版

トロイア戦争全史 (講談社学術文庫)

トロイア戦争全史 (講談社学術文庫)

  • 作者:松田治
  • 発売日: 2014/11/28
  • メディア: Kindle版
 

 "Marriage of Peleus and Thetis" MUSEO DEL PRADO

"The Goddess of Discord Choosing the Apple of Contention in the Garden of the Hesperides" TATE

"パリスの審判" METROPOLITAN MUSEUM

"The Loves of Paris and Helen - DAVID, Jacques-Louis" WEB GALLERY OF ART

"Achilles discovered by Ulysses and Diomedes" MUSEO DEL PRADO

 "Andromache Mourning Hector - DAVID, Jacques-Louis" WEB GALLERY ART

"The Death of Achilles" MUSEUM BOJIMANS

"Two Sketches depicting the Trojan Horse" THE NATIONAL GALLERY

"Collantes, Francisco" MUSEO DEL PRADO