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第二次世界大戦時の「敵性民間人」強制収容

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 Photo credit: Central Archive of the Republic of Karelia

 世界中にあった民間人強制収容

第二次世界大戦中の強制収容所と言えば、ナチス・ドイツによるユダヤ人強制収容所がよく知られています。

ナチス・ドイツはユダヤ系住民を国内から追放しマダガスカルに移住させようと試みますが失敗に終わったため、強制収容所に送り込んだ上で根絶させる政策を実行しました。 このような特定の人種集団の絶滅を図るのは悪辣極まりなく、いくら糾弾してもし足りないほどです。

一方で、枢軸国のみならず連合側の国にも強制収容所はあり、自国内の「敵性国民」が敵国と通じて攪乱や暴動、スパイ活動を行うことを防ぐため、有無を言わさず強制的に送り込まれるケースが多くありました。

 

1. 日系アメリカ人強制収容

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社会の根強い人種差別が反映された政策

アメリカにおける日系人・日本人移民に対する排斥の機運は、20世紀の前半から高まっていました。

そのきっかけとなったのが日露戦争での日本の勝利と、白人種であるロシアの敗北。太平洋の向こうに「白人種に敵対的な有色人種大国」が誕生したことへのショックから、日本が海を越えて侵略してくるとのではないかと警戒感が強まりました。

マスコミは受けの良い反日的な言説を流し排日世論が形成され、それは1924年の「1924年移民法」、通称排日移民法の成立に繋がっていきます。これにより日本人はアメリカに移住することができなくなりました。

そして次に1942年にルーズベルト大統領によって「大統領令9066号」が署名されます。日系アメリカ人が国家の安全の脅威であるという口実のもと、12万313人の日系アメリカ人が11ヶ所の強制収容所に送られました。補償は何もなく、会社や家を安く売り払わねばならず、中には財産を全て失う人もいました。また当時は日本人とみなされた、朝鮮人と台湾人も強制収容の対象となっていました。

強制収容所は大部分は内陸部の砂漠の中に作られ、バラック小屋の粗末な作りで環境は劣悪。敷地は張り巡らされた有刺鉄線の中にあり、監視兵による監視が行われ、脱出しようとした人が射殺される事件も起こりました。

1944年の世論調査では、アメリカ人の少なくない人数が拘留から一歩踏み込んだ対応を求めていることがわかりました。回答者の13%は、アメリカ国内のすべての日本人を「絶滅させること」を支持すると答えています

強制収容所の大部分は戦争終結の2〜3ヶ月後の1945年10月〜11月に閉鎖されましたが、テキサス州クリスタルシティは1947年1月まで稼働していたし、エリス島にあった収容施設は1954年まで日系人を収容していました。

 

2. ドイツ系・イタリア系アメリカ人強制収容

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Photo from: University of Washington Libraries, the Matsushita Family Collection

 アメリカ国内のドイツ系・イタリア系の危険人物を評価・逮捕

アメリカ国内の強制収容所に入れられたのは日系人だけでなく、数は少ないものの、ドイツ系の約11,500人とイタリア系の約3,000人も強制収容所送りとなっていました。

すでに戦前からFBI長官エドガー・フーバーの指導の下、アメリカ国内のナチスや共産主義の団体と関連を持つ危険人物のリストが作られており、後にそれは戦争や国家非常事態の際にFBIが逮捕・拘留する民間人のリストである「拘留インデックス(Custodial Detention Index)」の作成に繋がりました。

拘留リストに名前が記載されている民間人の逮捕は、太平洋戦争が勃発した翌日の1941年12月8日に開始されました。ハワイでは、真珠湾攻撃から48時間以内に106人のドイツ系・イタリア系が逮捕されましたが、うち21人がアメリカ市民権保有者でした。 

司法省当局者は思想的に危険視されている組織を重点的に逮捕しました。特に狙われたのは、ドイツ系アメリカ人のフリッツ・クーンが率いる親ナチ組織「アメリカーデウッチャー・フォルクスバンド(Amerikadeutscher Volksbund)」のメンバー。この組織は1939年にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで集会を開き、2万2000人を動員していました。

加えて、FBI捜査官は個人の新聞や雑誌の購読状況、外国の銀行口座や財産の保有状況、海外送金の状況、戦争債券やルクヴァンダラー・マーク(再移民マーク)の購入状況、枢軸国への最近の訪問状況、それらの国での親戚の活動状況などを評価し逮捕を行っていました。

ところが抑留された人物は必ずしもドイツ人やイタリア人とは限らず、ナチス・ドイツに併合または占領された国からの難民や帰化した市民も疑われ、オーストリア人、チェコ人、ハンガリー人、ルーマニア人、ブルガリア人も監禁されました。民族性、居住地、市民権よりも他の要因が抑留の理由として優先されていたようです。

またアメリカ政府はラテンアメリカ全土に住むドイツ系、イタリア系、日系人の危険人物とされる人物のリストを作成し、ラテンアメリカ諸国の政府に圧力をかけ、19カ国から4,058人のドイツ人、288人のイタリア人、2,264人の日系人が逮捕・国外追放されたのでした。

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3. 日系ペルー人強制収容

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Photo from: San Francisco History Center

 北米・南米の各地から強制収容された日系人

 アメリカ政府は自国の敵性外国人の拘留政策を、近隣諸国にも適応させようとしました。

アメリカ政府は日本と交渉をするにあたり、日系人の「犯罪者」の大量拘留が日本に圧力をかけるための材料になると考えており、メキシコやカナダ、ラテンアメリカ諸国の合計13カ国に要請し、2,264人の日系人及び日本人移民をアメリカ国内に連行し、強制収容所に収容しました。そのうち大多数の1,771人(80%)は日系ペルー人とペルー移民でした。

当時ペルーでの日系ペルー人、ペルー移民排斥への機運は激しく、1940年5月には大規模な暴動が起こり、600軒の日系人の家や学校、商店が焼き討ちの被害にあっていました。戦後、ペルー政府は連行された日系人の帰国を拒否。約1,000人が日本に強制送還され、一部の人はアメリカ国内に居住することを認められました。

 

4. 日系カナダ人強制収容

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Photo from: Petawawa Heritage Village

 アメリカよりも厳しかったカナダの日系人への対応

カナダ政府は1939年8月戦争対策法を可決させ、「国家の安全を害する恐れのある外国人・カナダ市民」を強制的に拘留することができるようにしました。

この法に基づき、1941年12月7日に太平洋戦争が勃発した直後、RCMP(王立カナダ騎馬警察)は38人の日本人を抑留しました。その後、さらに720人の日本人が投獄されました。

1942年2月24日、内閣は日系カナダ人に太平洋岸から100マイル内陸に移動するよう命令しました。この命令により、約21,000人の日系カナダ人が強制収容所に収監されました。そのうち約60%がカナダ生まれで、約77%がカナダ国籍でした。

収容所の多くは納屋や鶏小屋を改造したものでベッドすらなく、人々はしばしばノミがはびこっていた藁で満たされた袋の上で寝ることを余儀なくされました。気候は厳しく-40度以下になることもありました。

カナダ政府は、日系人の財産を没収し売却しており、さらに戦争が終わったずっと後の1949年4月まで監禁し続けました。さらにカナダ政府は日本国籍保有者の帰国を強く奨励し、日本人のうち4,000人は抑留状態のまま日本に強制送還されました。

 

5. 日本国内の敵国人強制収容

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Photo from:『横浜刑務所の偉容』横浜刑務所 1936

 日本国内に居住していた敵対外国人の隔離

太平洋戦争勃発直前の日本国内では、イギリスやアメリカなどの「敵性国家」の人々は多くは脱出しましたが、逃げ遅れた人や生活基盤が日本にある人など、約1,000人が残留していました。

日本政府は「敵国人の身柄の保護」という名目で、1/3にあたる342名(1941年12月時点)を拘留し全国34か所の収容所に収容しました。さらに、外交官として大使館や領事館内に軟禁された外国人が全国で258名、スパイ容疑で逮捕された外国人が105名いました。また、戦線が拡大するにつれて、占領地域に在留していた敵対国家の民間人も、収容場所がなかったために日本国内に連れてこられ収容されました。中には、アリューシャン列島の先住民アリュート人や、ニューブリテン島で勤務していたオーストラリア人の看護婦なども含まれます。これら想定外の拘留者は約400名にもなりました。合計で1,000名を超える敵性外国人が収容所に収容されました。

  当時、東京読売軍でピッチャーとして活躍していたヴィクトル・スタルヒンも、軽井沢で軟禁された経験を持っています。

開戦当初は比較的待遇もよかったのですが、戦況の悪化と共に劣悪になっていき、オーストラリア人看護婦やアリュート人らは労働が課せられました。これは自由意志に反して収容されている捕虜の取り扱いを定めたジュネーヴ条約に明確に違反していました。抑留者のうち5名が食料不足や病気によって死亡しました。

 

6. アリューシャン列島先住民強制収容

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Photo from: National Archives and Records Administration

アリューシャン先住民の「保護」を狙った政策

1942年5月、日本軍はアメリカ軍の本土への進路を防ぐためアリューシャン方面の攻撃を開始。これを受けてアメリカ軍はアリューシャン先住民を強制的に安全な場所に避難させ、彼らの居住地が日本軍の駐留拠点にならないようにすべて焼き払う方策を打ち出しました。

アリューシャン列島の先住民アリュート人合計881名には何も告知はなく、ある日突然荷物をまとめて家を出るように言われ、どこに行くかも知らされないまま船に押し込まれたそうです。

拘留されたのはアラスカ南東部の収容所で、不衛生極まりなく、「廃墟と化した缶詰工場、ニシンの塩焼き場、金鉱収容所で、配管も電気もトイレもない朽ち果てた施設」でした。食べ物や飲料水もほとんどなく、暖かい冬服もなく、避難者の10%近くが死亡しました。

日本軍は1943年5~7月にかけてキスカ島から完全に撤退しましたが、アリュートの人々は2年後の1945年になってもまだ収容されていました。ようやく故郷に帰還したら村は完全に破壊され、再建に対して政府からの支援はほとんどなかったのです。この事実は長い間忘れ去られており、事実関係の調査が始まったのは40年後の1980年代のことです。

 

7.フィンランドのロシア系住民強制収容

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 Photo credit: Central Archive of the Republic of Karelia

 東カレリアのロシア人強制隔離措置

第二次世界大戦では、フィンランドはナチス・ドイツと共闘し、ソ連軍のフィンランド侵攻に対抗しました。多大な犠牲を払いつつ本土からソ連軍を追い出し、その余勢でカレリアの大部分とサッラをも占領しました。

カレリアはフィンランド人の「精神的故郷」と言われます。長年フィンランドはロシア及びソ連に領内にあるカレリアの併合を目指しており、1918年から1920年にかけて、カレリアの奪取を目指す軍事遠征が実行されたこともありました。

フィンランド陸軍最高司令官のマンネルハイム将軍は、ソ連軍の捕虜になっているフィンランド人との交換条件に利用できると考え、占領した東カレリアのロシア人住民を拘留し強制収容しました。

収容者の大部分が女性・子供・高齢者で、フィンランド軍が東カレリアに侵攻する前に2/3のロシア人は脱出していましたが、約8万人程度のロシア人が逃げ遅れ、彼らのうち約3割の24,000人が収容所送りとなりました。

収容が始まった直後の1942年の春と夏の間にはこの地域を飢餓が襲い、約3,500人の抑留者が栄養失調で死亡しました。その後1942年後半から段階的な開放が進み、抑留者数は15,000人にまで減少。食料事情も改善し、戦争末期の2年間に死亡したのは約500人と見積もられています。

 

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8. ノルウェーの「タイスケルト」強制収容

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Photo from: Civilian Military Intelligence Group

 戦時中にドイツ人と関係を持ったノルウェー人女性の強制収容

 ノルウェーは1940年4月にナチス・ドイツの侵攻を受けて占領され、「ノルウェーのヒトラー」ことヴィドクン・クヴィスリングによる親独傀儡政権が樹立されました。国王や閣僚はロンドンに亡命しラジオで国民に抵抗を呼びかけ、ノルウェー軍の主力もイギリスやカナダに撤退の後にレジスタンスを続けました。

1945年5月のドイツ降伏後にノルウェーは解放されたのですが、ノルウェー国民は戦後、ドイツに抵抗せず協力した同胞を激しく攻撃しました。中でもやり玉に挙がったのが、ドイツ兵の愛人や妻となった女性たち。彼女らはドイツ人の売〇婦を意味する「タイスケルト(tyskertoes)」と呼ばれ非難されました。

メディアも彼女たちに対する攻撃を強め、1945年6月のAftenposten紙の記事には、「タイスケルトの髪を切るのは、あまりにも穏やかな罰である。男でも女でも、あらゆる方法で嫌われ、苦しめられるべきだ」と書きました。Nordlys紙は、「T」のマークのついた腕章をつけさせることを提案。路上では元レジスタンスの戦闘員たちが、彼女たちの頭を剃ったり、服を引き裂いたり、鉤十字の絵を描いたりする暴行を加えていました。

 ノルウェー政府は、このような暴行から守るためと称して、彼女たちを拘留し強制隔離することを決定しました。

保護と言いつつ、ノルウェー政府が言うところの「ふしだらな生活を送っていた女性」「国民の道徳に反する女性」を収容することを目的としており、ドイツ人の愛人や妻となった女性、性病患者の女性、さらにはドイツ軍の施設で清掃や裁縫などの仕事をしていた女性も収容者リストに追加されました。

最大級の収容所はオスロにあった ホヴェドヤ収容所で、合計1,100人の女性が収容されていましたが、そのほとんどが20代のオスロ在住の女性でした。その他にはホヴェローゼン収容所には450人が収容され、その他にも主要都市に小規模な収容所が数多く作られました。 女性たちの収容は1946年6月まで続きました。

その後ドイツ兵と結婚した約3,500人のノルウェー人女性は、市民権をはく奪されドイツに強制移住させられることになったのです。ちなみに、ドイツ人女性と結婚したノルウェー人男性は28人いますが、彼らは特に市民権はく奪などの処罰は受けませんでした。

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まとめ

 本記事では主に、大戦中にあった民間人の強制収容についてまとめました。

もちろん、兵士捕虜の収容所はこの他にもあり、日本軍が占領地域に作った捕虜収容所、ソ連軍が日本兵をシベリアに抑留したシベリア捕虜収容所、ドイツ軍のソ連兵の捕虜収容所など、劣悪な環境と敵への復讐心により、数多くの死者が出ていることも忘れてはなりません。

ある特定の集団を敵視し排除し隔離していくというのが、どういう結果を伴うものなのか、この短い記事を読んだだけでよく分かるはずです。

 世界がまた対立の時代に入ろうとしている今、市民一人ひとりがかつて起こったことを知っておくことが重要だと思います。

 

参考サイト

"Internment in Canada" The Canadian Encyclopedia

"German and Italian detainees" Densho Encyclopedia

 "POW研究会"

"太平洋戦争下の「敵国人」抑留-日本国内に在住した英米系外国人の抑留についてー" 小宮まゆみ お茶の水史学43号

 "The U.S. Forcibly Detained Native Alaskans During World War II" Smithonian Magazine

National Internment Camp for Women in Hovedøya - Wikipedia