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【中国史】戦闘力が異常に高かった宦官列伝

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中国史にその名を遺す武闘派宦官たち

宦官と言えば、宮廷に侍り皇帝や宮家一門の生活の世話をしたり、宮廷の各種運営をするのが仕事でしたが、中には武力を買われて仕える者もいました。

生殖能力は奪われているので女性のように華奢な体というイメージが強いですが、筋骨隆々なガチムチ宦官もいたようです。

今回は非常に名の知れた武闘派宦官をピックアップいたします。

 

1. 張蚝(ちょう こう)

張蚝は五胡十六国の前秦に仕えた宦官・武将。若いころから身体能力に優れ、牛と綱引きして勝つほどのパワーと、どんな高い城壁も難なく乗り越えられるほどの敏捷性を兼ね備えていたそうです。なんかバキに出てくるキャラみたいです。

北魏の歴史家である崔鴻(さい こう)は、前秦の猛将・鄧羌(とう きゅう)と共に「万人の敵(万人敌)」と評しました。

張蚝はもともと弓という姓でしたが、并州の軍閥の頭目・張平に気に入られ養子となり、張姓を授かりました。しかし、張平の妾に手を出してしまい責められたことがきっかけで、自ら去勢し二度としないと誓いを立てたそうです。

前秦の三代目君主・苻堅(ふ けん)が軍を率いて張平討伐を行った際、張蚝は大声をあげて前秦の兵陣へ突撃して荒らしまくり、その武勇にほれ込んだ苻堅によって前秦に仕えることになりました。義父である張平も同時に仕えますが、その後苻堅によって討伐されています。

張蚝は、前秦の五人の皇族(苻幼、苻双、苻柳、苻廋、苻武)が起こした「五公の乱」を鎮圧して虎牙将軍に任ぜられました。太和4年(369年)、苻堅は王猛を総大将にして前燕侵攻を命令し、張蚝も従軍しました。この遠征で張蚝は晋陽城を陥落させ、また前燕の軍40万と対峙した時も、張蚝は鄧羌・徐成らと共に自ら最前線で矛を振るい敵兵数百人を殺傷。前燕はこの戦いで捕虜を含めると約十万の兵を失い、やがて滅亡しました。その後、鮮卑拓跋氏の国である代を亡ぼして張蚝は後将軍に任ぜられ、苻堅が自ら二十五万の兵を率いて東晋に親征した際にも従軍。この時に前秦軍は東晋軍に淝水の戦いで大敗を喫しました。撤退の際に張蚝は5,000の兵を率いて并州に拠り最前線での防衛を担いました。

太元10年(386)6月、張蚝は太尉に昇進し、その後史料には記録が見当たりません。

 

2. 楊思勗(よう しきょく)

 楊思勗は唐の中宗、睿宗、玄宗に仕え、軍事面で活躍し唐代で最高位に上り詰めた宦官です。

「新唐書」によると、「楊思勗は獰猛で、人を殺すことををためらわず、捕虜の顔や脳や皮を剥ぎ取るなど獰猛なやり方で殺した」、「軍事的な功績で将軍に昇格」、「驃騎将軍に昇格し、虢國公に任ぜられた」とあります。

楊思勗は元々は蘇という名字で、洛州県石城(現・聯江)の出身。若い頃に楊という名の宦官の養子になったことがきっかけで去勢し、宦官としての道を歩むようになりました。しかし彼は若いころから力が強く戦闘に長け、玄宗は若いころに楊思勗の強さに惚れ、ボディーガードに任じました。玄宗が皇帝になると右監門衛将軍に任命され、大きく出世することになります。

開元10年(722年)、現在のベトナム北部で梅叔鸞(ばい しゅくらん, マイ・トゥック・ロアン)が反乱を起こし、ベトナム、カンボジア、チャムパーの人々も糾合して「黒帝」と称し、唐の南海支配の拠点である安南府を陥落させました。楊思勗は討伐を命じられ、十万の兵をを募り、梅叔鸞の不意を突き攻撃を加え反乱を鎮圧させました。梅叔鸞は捕らえられて殺され、反乱の一味は全て処刑されました。

その後楊思勗は、無錫(現在の湖南川上流)の覃行章、永州(現在の広西チワン族自治区南寧)の梁大海、瀧州(現在の広東省羅定)の陳行範・何遊魯・馮璘、広州の馮維など南方の少数民族の反乱との戦いを命じられ、その戦いの中で、数十万単位の少数民族を残虐な方法で殺して死体を積み上げ、莫大な財産を分捕っていきました。

楊思勗は残忍さで知られ、時には捕虜の顔や頭皮を剥ぎ取ることもあり、部下に恐れられました。反乱を鎮圧するたびに、捕虜であろうと降伏兵であろうと皆殺しにしたと言われています。 反乱を鎮圧する度に何万もの人を殺しており、 最も多かったのは、瀧州の陳行範による蜂起の鎮圧で、「6万人以上の兵を殺害」し、「都を強くするため」と称して小高い丘に遺体を積み上げたそうです。 

少数民族側から見ると、自分たちの国や生活や命を奪った極悪人ですが、唐朝からすると辺境の安定に貢献した忠臣でした。 

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3. 童貫(どう かん)

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 童貫は北宋の徽宗に仕えた宦官。

宦官でありつつもガチムチで、立派な髭をたくわえ、妾や養子を多く抱えていたというので、もしかしたら完全に去勢していなかったのかもしれません。

もともと書画の目利きにすぐれ、芸術家でもある徽宗皇帝のために杭州で貴重な書画コレクションを収拾して皇帝の歓心を得て出世の糸口を掴みました。当時の宰相・蔡京(さい きょう)は童貫と結び、「媼相」と呼ばれるまで出世をとげることになりました。

兵法にも優れていたため軍人としても活躍し、西夏から青海甘粛四州を奪還する際に監督として軍を率いました。この時に将軍たちに「もし失敗しても俺だけが罰を受ければ済むことだ」と言って信頼を得て、さらに乞食になっていた戦死した将軍の息子を引き取って義理の息子としたことで、武将たちは感動し、童貫は大人物だと讃えるようになったそうです。

鄭河元年(1111年)には、童貫は軍官の最高位太尉に昇進しました。

1120年、北宋は金と結び(海上の盟)遼を挟撃して燕雲十六州を奪還しようと試み、童貫にその任を託そうとしました。しかし突如江南で反乱が起き、童貫は急遽南下して事態の収拾にあたり、その間に金が遼を攻撃して遼の天祚帝は逃亡し、遼の将軍耶律大石らは燕雲十六州に逃げ、北遼を建てました。

南方の反乱を鎮圧した童貫はようやく北方へ出兵し、北遼の天祚帝のいる燕京を攻撃しするも、耶律大石らの頑強な抵抗を受けて二度も攻撃に失敗。成果が出ずに焦る童貫は金に援軍を要請。これに応えた金軍はたちまち燕京を陥落させ耶律大石を捕らえました。この「勝利」によって北宋は燕雲十六州のうち燕京以下南の六州を得るも、多額の歳幣を北宋に要求し、北宋はこれを飲まざるを得ませんでした。

この不名誉な勝利の代償を払うべく、北宋は遼の残党と密かに結んで燕雲十六州の完全奪還を画策するも金に情報が洩れ、同盟を破棄した金軍は1123年に北宋に侵攻。童貫は太原に駐屯していましたが、金に脅されて部下を捨てて南に逃亡して非難されました。最終的には海南島に配流となり、その途中で斬首されました。

童貫は北宋を腐敗させた「六賊」の一人として後世に糾弾され、小説「水滸伝」でも「四奸」の一人となっています。

 

4. 董海川(どう かいせん)

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 董海川は中国武術の一つ、八卦掌(はっけしょう)の創始者として知られる人物です。

董海川の生涯は様々な伝説で彩られ真実かどうか分からない話もたくさんあり、中には八卦掌の創始者は董海川ではないという説もあるのですが、少なくとも彼が武術に長け、八卦掌の普及と弟子の育成に尽くしたのは事実です。

董海川は本名を董明魁と言い、河北省文安県竹家武村の貧しい農民の生まれ。長身で腕が長く、手が大きく、腕力に優れていた彼は、武術に優れた従兄弟の董宪(とう けん)の影響で武術にハマってしまいます。

武術を極めるため、故郷を捨てて各地を流浪し、稽古に励む生活を送りました。その時に故郷の一族に迷惑をかけないように名前を「海川」と改名しました。湖や川を流浪して回る求道者、のような意味があるのかもしれません。

その途上、安徽省の九華山で「雲盤老祖」と出会い、その技術を教えてもらい、八卦掌を創業したと言われています。これは作り話の可能性が高いのですが、彼が道教に強い影響を受けていたことは確かで、八卦掌には道教の儀式が色濃く見られます。

その後董海川は、宦官になり北京の肃王府で働くようになりました。

なぜ宦官になったかはいくつかの説があり、殺人を犯した罪を去勢をしたことで免れようとした説、立身出世意を求めた説。宮廷に仕えた後に何らかの罪を犯して罰として去勢された説。実は董海川は太平天国が清朝の宮廷に潜りこませた潜入捜査官だったという説すらあります。

本当のところはよく分かりませんが、宮廷に仕えた董海川は武術の腕前で有名になり、名声を高めていくことになります。すると北京内外の多くの武術家が董海川を破ろうと挑戦状を叩きつけてきました。 羅漢拳のレジェンド、尹福(いん ふく)。レスリングを得意とする程廷華(てい ていか)、蹴り技を得意とした史計棟(し けいとう)など、名だたる格闘家がいずれも董海川に敗れました。彼らは皆董海川の弟子となり、八卦掌の普及に尽くしていくことになるのです。

1874年に肃王府を退官し、北京に学校を設立して後継の指導に当たりました。 亡くなる直前までベッドの上で仰向けに寝てながら手のひらを返したままだったと言われています。

▽八卦掌の紹介動画

www.youtube.com

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まとめ

もともと戦闘力が高かった人がたまたま宦官になったという感じで、やはり武に勝る宦官というのは珍しかったようです。宦官だったら特別どうこうということはないのですが、去勢した男性は出世の糸口を見出しやすかったので、彼らももしかしたら宦官になっていなかったら出世せずに、歴史に名を残していなかったかもしれません。 

 

参考サイト

"张蚝" 百度百科

"董海川" 百度百科

 "中國歷史上最能打的宦官,有「殺人魔王」的稱號" 壹讀

"童貫的傳奇" 一老講古