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【腐敗・汚職】中国史の悪名高い宦官列伝

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中国史を裏で動かしてきた宦官

宦官とはご存じの通り、宮廷に仕える去勢をした男性のことです。

皇帝の身辺に侍り様々な世話をする役割を与えられ、通常は掃除や料理や連絡など雑用が主でしたが、皇帝の近辺にいることを許される立場を利用し、強大な実権を握る人物も少なくありませんでした。皇帝や帝国のために尽くした名宦官もいる一方で、自らの私腹を肥やし権勢を高め帝国の没落をもたらした悪徳宦官も数多くいます。今回は後者の悪徳宦官をピックアップします。

 

1. 秦の趙高(ちょう こう)

戦国七国を統一した始皇帝の秦王国を崩壊に導いた要因の一つは、宦官の趙高にあるとされています。

趙高がどのように始皇帝に仕えたかは定かではなく、子の胡亥の守役となった後、始皇帝の信頼を得て身辺に侍るようになりました。

始皇帝は死ぬ直前に聡明な長男の扶蘇を後継者に指定しました。しかし趙高は丞相の李斯を説得して遺言を書き換え、末子の胡亥を即位させました。 彼はあまり頭の良くない胡亥に良いことばかり言って宮中に籠らせ、自ら重役に就き実権を握りました。始皇帝の信頼の厚かった李斯ですら胡亥に上申するには趙高の仲介が必要なほどでした。趙高は蒙恬などの重臣すら冤罪で処刑させ、宮廷には彼に逆らう人物はいなくなり、恐怖政治が秦の宮廷を支配することになりました。

陳勝呉広の乱発生以降、全土で反乱の狼煙が上がり、李斯は改革を行おうとするも、趙高は現状維持にこだわり、胡亥に讒言して李斯を処刑させてしまい、とうとう自分が丞相となりました。しかし状況はますます悪化し、項羽軍と劉邦軍の前に秦軍は崩壊。しかし趙高は秦が亡国寸前になることを胡亥には一切知らせておらず、皇帝は首都咸陽の近くにまで敵軍が来てはじめて事態を知りました。

趙高はすべての責任を胡亥になすりつけた上で部下に殺させ、皇帝の玉璽を奪って自分が帝位に就こうとしました。しかし部下たちは従わず、「天」も自分に味方しないと悟った彼は、王族である子嬰を傀儡にしようとしますが、子嬰は操り人形になるのを拒否し、韓談らの反趙高の官吏によって最終的に殺害されました。

趙高は「馬鹿」の語源となったエピソードがよく知られています。

胡亥を殺そうとする時、趙高は官吏たちの忠誠度を試すために、宮廷に鹿を連れてきて「馬です」と言った。胡亥は「何を言っているのか、これは鹿ではないか」と言ったが、趙高を恐れる官吏たちは「確かに馬です」と口々に言った。一部「鹿です」と言った者を趙高は殺害させ、胡亥の暗殺を実行した。

 

2. 前漢の石顕(せき けん)

前漢の中興の祖と賞される宣帝が亡くなった後、皇帝の位に就いたのが「儒学かぶれ」と言われる元帝でした。

元帝の下で、儒家の古制によって様々な諸制度を整える改革がスタートしました。このこの儒教による国家改革は元帝の後も進行し、漢を簒奪して新を建てた王莽によってピークを迎えます。王莽の改革により、伝統中国の国のかたちである生民論(天子が民を安堵させる)と承天論(天命を受けた天子が天の秩序を握り地上に秩序を成す)が定着することになります。そのため、元帝はその後の中国の国家感を構築する改革を始めた先駆者であるのですが、同様にその後の中国を苦しめる宦官・外戚の台頭を許したのも彼の「業績」でした。

石顕は病弱な元帝に代わって政治を取り仕切り、自派の宦官で有力ポストを占めて権勢を欲しいままにしました。元帝に宮廷に宦官が跋扈していると上奏した蕭望之(しょう ぼうし)らは、逆に有罪とされ自殺に追い込まれました。

しかし元帝が死去し次に成帝が帝位につくと、石顕は左遷された挙句、前皇帝での悪行を追及されて罷免され、故郷に追放された末に一家ともども餓死しました。

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3. 後漢の十常侍(じゅうじょうじ)

後漢の十常侍とは、後漢末期の霊帝に仕えた張譲(ちょう じょう)、趙忠(ちょう ちゅう)、夏惲(か うん)、郭勝(かく しょう)、孫璋(そん しょう)、畢嵐(ひつ らん)、栗嵩(りつ すう)、段珪(だん けい)、高望(こう ぼう)、張恭(ちょう きょう)、韓悝(かん かい)、宋典(そう てん)の十二人の宦官を指して言います。

後漢では第五代の幼帝である殤帝(しょうてい)が早逝して嫡系が途絶え、傍系の若い皇帝が乱立し政権が不安定になり、皇后や外戚たちが皇帝権力を巡って争い、その中で宦官が台頭していきます。宦官勢力は外戚勢力と争いながら存在感を強め、第八代順帝や第十一代桓帝を擁立。宦官と外戚は特に群太守などの地方官の任命を独占し、国中の利権を自分たちだけで独占するようになりました。

社会の疲弊や政治腐敗を目の当たりにして、清流派と呼ばれる官僚層が政界刷新を目指して宦官勢力の駆逐を図りますが、宦官勢力は合計三度に渡り清流派の大弾圧を行って公職追放・逮捕・殺害が行われました。これが名高い「党錮の禁」です。

第十二代霊帝はそんな党錮の禁が吹き荒れる中で皇位に就いた男で、当然ながら宦官勢力の強い影響下にありました。霊帝の時代に影響力を持った宦官たちを総称して、十常侍と言います。中でも特に張譲、趙忠の権勢は絶大で、霊帝に「我が父、我が母」と言わせるほどでした。

一方で疲弊した華北の農村では太平道教団が勢力を拡大し、張角率いる農民反乱が一斉に蜂起しました。いわゆる黄巾の乱です。反乱が起きても張譲、趙忠らは責任を他の政治家や武将に擦り付けて権勢を維持しました。

しかし霊帝が崩御すると代替わりの混乱の中で、将軍の何進と袁紹が宦官勢力の排除に乗り出し、何進は張譲らの策略によって殺害されるも、激怒した袁紹が宮廷に乱入して宦官たちを切り捨て、逃亡した者たちも黄河に落とされ溺死しました。

 その後、張譲らの下にあった皇帝の劉弁と劉協は董卓によって保護され、董卓によって劉協が献帝として即位。董卓は絶大な権勢を得ますが、地方では袁紹ら反董卓の同盟軍が結成され、地方軍閥の台頭から時代は魏呉蜀の天下三分の時代に向かっていきます。

 

4. 漢の王沈(おう しん)

王沈は四世紀~五世紀に興亡した五胡十六国の一国である漢(後の前趙)の宦官。

三国時代を終わらせた晋王朝は八王の乱の勃発で崩壊。混乱のさなか、諸王が各地に乱立していきます。三〇四年、匈奴を率いていた劉淵が山西省北部で自立し漢王を名乗り独立。騎馬軍団を率いて南方に領域を拡大していきました。

劉淵の四男で第三代皇帝劉聡は、三一六年に長安に拠っていた晋最後の皇帝司馬鄴を攻めて降伏させました。これがきっかけで、以降一五〇年に渡り諸王が乱立し興亡を繰り返す五胡十六国の時代がスタートしたということになっています。

劉聡は皇帝就任当初は、武芸に秀で自ら親征をする活発的な男でしたが、三一二年に呼延皇后が亡くなると、そのショックからか、次第に宮廷にこもって愛人らと過ごし政治を顧みないようになっていきました。そんな中で劉聡の信を得たのが宦官の王沈です。

劉聡がまったく政治を取り仕切らなくなったので、王沈がその代わりにすべてを取り仕切るようになり、劉聡の信を得ている王沈の発言は皇帝の発言に等しいとみなされるようになっていきました。次第に王沈自身もまるで皇帝のようにふるまうようになっていき、気に入った部下に法外な賞賜を与えたり、功績のある旧臣や賢人が自分に反抗的だという理由で閑職に遠ざけたり殺害したりしました。また自らの邸宅や車、衣服、生活も皇帝のそれに近い豪華なものになっていきました。

見かねた太宰・劉易、御史大夫・陳元達らが、このままでは亡国の危険がある故、王沈を裁くように劉聡に諫言をするも、劉聡はこの書を破り捨ててしまったと言います。

劉聡の死後、実子である劉粲が皇位に就くと、王沈らの勢力は一掃されました。王沈もその中で殺害されたと考えられていますが、記録はありません。

 

5. 北魏の宋愛(そう あい)

 宋愛は五胡十六国時代を終わらせ華北を統一した北魏の第三代皇帝太武帝拓跋燾(たくばつ とう)に仕えた宦官。

北魏の初代、道武帝拓跋珪(たくばつ けい)は、支配者集団の再組織によって八部からなる政治共同体を作って代人によって統治させる一方で、戦士集団を供出させ皇帝直属軍の編成を行いました。その結果北魏軍は強大になり、第三代太武帝の時代には夏や北燕、北涼を滅亡させ、念願の華北統一を果たしました。

宋愛は太武帝に仕えた宦官ですが、太武帝の長男拓跋晃(たくばつ こう)と対立し、虚偽によって陥れ結果的に拓跋晃を死に追いやりました。太武帝はもっとも目をかけていた長男の死を嘆き悲しむのですが、宋愛は拓跋晃を死に追いやった疑いが自分に降りかかることを恐れ、あろうことか太武帝を殺害してしまいました。

事件は尚書左僕射の蘭延(らん えん)や侍中の和疋(わ き)、薛提(せつ えい)らによって厳重に伏せられ、次皇帝が擁立されました。蘭延らは太武帝の三男拓跋翰(たくばつ かん)を擁立しますが、宋愛は末子の拓跋余(たくばつ よ)を擁立。対立が激化し、宋愛は配下の宦官集団に命じて拓跋翰とその支持者の官僚らを殺害。拓跋余を皇帝に就任さえました。宋愛は北魏の三省と禁軍を掌握して絶大な権勢を得ます。皇帝となった拓跋余ですが、権勢を欲しいままにする宋愛を疑うようになり、排除に乗り出そうとしました。危険を感じた宋愛はまた先手を打って拓跋余を殺害します。もう行くところまで行った感じです。

これ以上の横暴は許されないと、尚書の陸麗、近衛団長の劉尼、殿中尚書の源賀らが決起。宗愛とその手下どもを捕らえ、五刑(墨《いれずみ》・劓《鼻きり》・剕《片足きり》・宮《去勢》・大辟《首きり》)すべてを使って処刑されました。

 

6. 明の劉瑾(りゅう きん)

 劉瑾は明の正徳帝(在位1505-1521年)の時代に権勢を得た宦官です。

正徳帝は変わった男で、少年時代は文武に秀で将来を期待された才能ある人物でしたが、秩序を重んじる明の伝統的価値観と、徐々に弛緩し自由さを求めていく社会の雰囲気のギャップに耐えられなかったのか、皇帝に就くと鬱屈した思いを発散するように放蕩生活に溺れました。宮中に商店を作って商店主の物まねをして遊んだり、宦官を集めて戦争ごっこをしたり、チベット仏教に傾倒したあげく豹房といういかがわしい寺院を建てて僧や楽人や美女を集めて快楽にふけるなど、一切政治を顧みることがありませんでした。また大軍を自ら率いてモンゴル高原への親征を行いますが、軍事遠征とは名ばかりで、遠征先の町や村を襲って美女を探し出し毎晩の夜の相手をさせるという有様でした。

そんな中で台頭したのが宦官の劉瑾です。劉瑾は新たな快楽を求める正徳帝に応じ、鷹狩りや芝居など様々なエンタメを提供して皇帝の信頼を得ました。そうして司令監掌印太監にまで上り詰めると、特務機関を駆使して反対派を弾圧し、自派で要職を独占させ、政治を私物化しました。賄賂政治がはびこり、官職のポストを得るのも昇進もカネ次第となり、軍功を立ててもカネを払って届け出をしないと処罰の対象となりました。

軍人はやる気を失い軍紀は緩み、地方で反乱が相次いでもめったに鎮圧できない有様となりました。がんばったら処罰されるのだから、がんばらない方がいいに決まっています。

しかし次第に劉瑾は正徳帝の寵愛を失っていき、あせった彼は帝位の簒奪を企てますがが、同じく宦官である張永の密告により寸磔に処せられました。これは生きたまま肉を少しずつ切り取っていくという過酷な処刑で、劉瑾の場合は3,357回に及びました。


7. 明の魏忠賢(ぎ ちゅうけん)

 明朝最大の暗君と言われる天啓帝(在位1620-1627年)の信を受けて権勢を振るったのが、魏忠賢という宦官でした。

彼は無学文盲の街のゴロツキの出身で、持ち前の才覚のみで司礼監秉筆太監にのし上がった男でした。1623年には秘密警察の東廠の長官に就任。当時、明の政界では東林派と反東林派の派閥争いが激化していましたが、反東林派は魏忠賢をタッグを組み、東林派のメンバーを次々に逮捕し拷問にかけ殺害。東林派は壊滅的な打撃を受けました。

政界では魏忠賢の権威が高まっていき、あまりにも力を持った彼に媚び持ち上げる動きが生じました。孔子と魏忠賢を同列に並べて讃える運動すら起こり、地方にまで魏忠賢を祀る祠の建設運動が推進され、建設費に多額の費用が注がれました。

魏忠賢が乗る車が通りを通ると、人々は土下座し「九千歳」「九千歳」と唱えなくてはならなかったそうです。皇帝は万歳なので、千歳少ない数としてはいましたが。

その皇帝である天啓帝は、政務には一切関心がなく、ひたすら宮廷にこもって趣味である木工細工に興じており、魏忠賢のなすがままでした。

しかし天啓帝が23歳で死去すると、後継ぎがいなかったため異母弟の信王朱由検が即位しました。彼が明朝最後の皇帝崇禎帝です。崇禎帝は天啓帝よりは政治に熱心であったため、すぐさま魏忠賢は追い落とされ、都落ちの途中で首吊り自殺をして死にました。彼を祀った祠は速攻で打ち壊され、魏忠賢をヨイショした大臣や官僚たちはすべて逮捕され死刑や流刑となりました。

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まとめ

 宦官が跋扈する背景にあるのは、無能皇帝の即位とか皇帝の座をめぐる争い、官僚勢力や政治勢力の争いなど様々ですが、一部の人間や勢力が皇帝を殺害するような非道がまかり通るのは、宮廷という非常に閉じた場所の中で政治が行われていたからということに尽きるかなと思います。一部の場所でしか通用しない文脈やルールで行われるゲームは外の世界ではまったく考えられない非道も通用してしまう。

 これは現代の政治や会社組織の中の話でも言えることではないかと思います。