歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

豆腐の歴史 in アメリカ

f:id:titioya:20200507230036j:plain

ダイエット、ビーガンフードの代表格・トーフ

豆腐はもはや世界的に一般的な食材となりました。

特にアメリカでは1970年代からローカロリーながらプロテインが摂れる栄養食として注目されて以来、年々普及が進み、スーパーマーケットで普通に売られるくらい食品となりました。特に最近では、ダイエットフードやビーガンフードの人気の高まりで、意識が高い人の間では豆腐は常食となりつつあります。

アメリカにでの豆腐の製造が始まったのは意外と古いのですが、普及には100年近くの時間がかかっています。今回はアメリカにおける豆腐の歴史を簡単にまとめます。

 

1. 初期の時代

f:id:titioya:20200510153324j:plain

アメリカ人の豆腐の"発見"

アメリカ人で初めて豆腐について言及したのは、アメリカ独立功労者の一人ベンジャミン・フランクリンと言われています。

彼は1770年1月11日に、ロンドンからペンシルバニア州フィラデルフィアのジョン・バートラムに宛てて大豆を送り、手紙を同封しました。その中で「中国では大豆で作られたチーズが一般的に使われている」そして簡単な作り方を書いた上で「こうやって.......タウフが作られている」と述べています。おそらく彼は初めて豆腐を食べたアメリカ人か、それでなくてもごく初期の人間の一人であることは間違いありません。

しかし、ベンジャミン・フランクリンは豆腐を「発見」しただけであり、アメリカに豆腐が普及するのはもっと後のことです。

 

ごく初期のアメリカでの豆腐製造

本格的にアメリカ本土で豆腐を作り始めたのは、西海岸に移住した中国系移民と日系移民でした。しかしごく初期の歴史についてはほとんど記録が残っていません。

1800年代後半から1900年代前半にかけて、アジア系が多く住むサンフランシスコ、ロサンゼルス、シアトル、ニューヨーク、ボストンなど都市部には、中国人が経営する豆腐屋が少なくとも一軒以上あったと考えられます。

1899年のブラスデールの "Some Chinese Vegetable Food Materials "によると、サンフランシスコに中国人の豆腐屋があり、小さな四角い豆腐と新鮮な豆腐を売っていたと述べています。豆腐は固くピーナッツオイルで揚げられていたと書かれています。

アメリカで最も古い豆腐会社の一つはクオン・ホップ社(Quong Hop & Co.;)で、創業は1904年頃のことです。アジア系移民の増加に伴い、1912年頃には多くの豆腐店も順調に売り上げが伸びていました。豆腐店自体の数も増え、アメリカの大都市、特に東海岸や西海岸ではかなり広く手に入るようになっていたと思われます。

しかし、アジア系以外のアメリカ人には豆腐はほとんど馴染みがなかったようです。ここからアジア系の人々による、長きに渡る「豆腐啓蒙時代」が始まります。

 

2. 豆腐啓蒙時代(1910年~1940年代)

f:id:titioya:20200509125345j:plain

ヤメイ・キン博士による豆腐料理の紹介

20世紀初頭に豆腐をアメリカの人々に最初に紹介しようとした功労者は、中国出身の医師・栄養士のヤメイ・キン博士(金韻梅)です。

ニューヨークの女医大学を卒業し、中国北部で女医病院の仕事を率いていた彼女は、第一次世界大戦中にアメリカ農務省と密接に協力して仕事を始め、中国の大豆と大豆食品についてアメリカに詳しく紹介しました。

当時アメリカは第一次世界大戦に参戦して日用品の物資不足に陥り、赤身肉、小麦、植物油などの「有益な代替品」を調査していました。そこで注目されたのが豆腐でした。アメリカ農務省化学局のスタッフ、サラ・マクドゥーガルは、キン博士が作った豆腐料理を食べた時の感想を書き記しています。

「他の研究室の化学者たちも立ち寄り、キン博士の豆腐を持ち帰って夕食を食べてみたが、魚や豚のチョップと見分けがつかなかった」

マクドゥーガルは、豆腐が料理の仕方によって様々な形に姿を変える様子に感銘を受けたようです。

「長いテーブルの上にずらりと並んだガラス瓶の中に、白いチーズ、茶色がかったペースト、茶色のソースなどの大豆製品が並んでいた」

「大豆には多くの料理法があるので、ある形では好きになれなくても、別の形では好きになるはずです」

Jordan (1918) は著作「スープからナッツまでの大豆」の中で、豆腐がもっと広く手に入るようになれば、「広く使われるようになる運命にある」と熱心に書いています。しかし、第一次世界大戦中に盛り上がっていた豆腐への関心は、終戦後に物資が回復するとほとんど消滅してしまいました。

 

豆腐に注目したキリスト教徒

初めてアメリカ白人で豆腐の生産を始めたのは、セブンスデー・アドベンチスト教会(安息日再臨派)のメンバーでした。セブンスデー・アドベンチスト教会の一部の信者は、禁欲主義と菜食主義を貫き神の道にたどり着くための実践を様々に試みていましたが、豆腐の生産・販売もその一環でした。

彼らが製造販売していた製品は「大豆チーズ」と「ベジタブル・ミルク」。彼らの豆腐はチーズに似せて作られていたので、すりおろすことができるほど硬かったそうです。1929年以降、このようにヨーロッパ系になじみ深いチーズの代替品として販売されたことで、アジア系以外のアメリカ人が初めて豆腐を食べるようになりました。

 

大戦で再度高まる豆腐への注目

f:id:titioya:20200509194453j:plain

第二次世界大戦が始まると、再び日用品が不足するようになり、代替品としての大豆食品への関心が高まりました。

当時、豆腐に魅せられ多くの著作を書いたのが自然食品の先駆者と言われる作家ミルドレッド・ラガーです。1942年彼女は「大豆レシピ」を出版しました。150のレシピの中には、クリーミーなドレッシングやデザートに豆腐を使った最初のレシピや、その他多くのアメリカンスタイルの豆腐レシピなどが紹介されました。

ラガーは1945年、次の著作「有用な大豆」を出版。ここで彼女は豆腐のことを「大豆チーズ」と呼び、豆腐ステーキ、スクランブル豆腐、豆腐カツレツなど、クリエイティブなレシピを掲載しました。

 

日系人強制収容所の豆腐

1941年12月、アメリカが日本との戦争に本格的に突入すると、西海岸の日系人はすべて収容所に送られ1943 年までに11万人が抑留されました。街中では日系の豆腐屋は姿を消すことになりますが、収容所では大きな豆腐屋ができ非常によく食べられていたようです。例えば、ワイオミングの砂漠にあるハートマウンテンという収容所では1万人の日系人が収容され、毎日2,000ポンド(900キロ)以上の豆腐を作っていました。スーパーで売ってる豆腐が300グラムなので、その1/3くらいを全員が食べていた計算になります。

PR

 

 

3. 豆腐空白時代(1950年~1960年代)

第二次世界大戦が終わり日用品の供給が復活すると、再び豆腐は人々の注目を失いました。好調な経済と「強いアメリカ」の意識を背景に、古き良きアメリカの価値観や文化が強調され、肉や乳製品といった従来の日用品の消費が急増し、豆腐を始めとした大豆製品は、特に食べなくても問題ないと考えられました。1960年代もその無関心は続きました。

1961年のSoybean Digest Blue Bookのアメリカの大豆食品メーカーのリストには、「大豆チーズ」を製造しているメーカーは3社しか載っていませんでした。

「豆腐空白時代」にも一部の熱心な研究者が豆腐や大豆製品について研究を続けていました。当時の代表的な研究者がアラン・K・スミス。

彼は大豆製品に関する会議で、豆腐と豆乳の関心を高めるべきと強く訴えました。

「豆腐工場は、小規模な単位で非常に重要な食品を生産している。牛乳と豆腐の両方を作るという二重の目的を果たすためには、さほど多くの投資しか必要がない。日本には5万近くの豆腐工場があり、この製品が日本人の食生活に役立っていることを証明している。豆腐工場を開発途上国で拡大することは、人々の食生活の改善とアメリカ産大豆・大豆製品の輸出拡大のために真剣に検討すべきである

 

60年代の若者のカウンターカルチャー

祖国のために戦った父親母親の子どもの世代は、アメリカの家父長的な雰囲気に反発し、1960年以降カウンターカルチャーを形成していきます。

その中で、若い世代は自然食品や健康食品、ベジタリアン食、低コストで無駄の少ないタンパク質源、そして世界飢餓の大きな問題に深刻な関心を寄せ始めていました

1971年にアメリカの作家フランシス・ムア・ラッペは、「小さな惑星の緑の食卓―現代人のライフ・スタイルをかえる新食物読本」という著作の中で、環境破壊・格差・飢餓の理由は食肉生産などの非効率な食料供給にあるとし、人類の食事の中心は野菜や果物、小麦など植物性のものとするべきだと訴えました。

この本は人口爆発が起き食糧危機を迎える地球全体の問題を提起し、環境問題と食料問題、経済問題というテーマを結びつけることで大きな話題となりました。

この本は、栄養学のに関する本としては異例のベストセラーとなり、最初の10年間で200万部以上を売り上げ、アメリカ人の食生活や食に対する考え方を変える上で大きな影響を及ぼしました。

健康食はカウンターカルチャーから急速にアメリカの食のメインストリームの一部になっていき、「豆腐ブーム」が到来することになります。

 

 

4. 健康食ブームの高まり(1970年~)

f:id:titioya:20200510150056j:plain

健康食豆腐

 ダイエットと健康食への関心が高まると、豆腐は一躍注目されるようになりました。

コレステロールを含まず、脂肪分が少なく、100グラムあたり72カロリーと超ヘルシー。主要なグルメ雑誌では、チーズケーキ、ドレッシング、スクランブルエッグ、サラダなどレシピが紹介され、チーズの代替として豆腐を使うとカロリーが1/3で済むと書かれました。ダイエット中の人々は豆腐に飛びつきました。

ベジタリアンの人たちは、豆腐が完璧な代用品であることを知り、豆腐のハンバーガーやカツレツを好んで食べるようになりました。

カリフォルニアのセーフウェイやラッキー、東海岸のA&Pなど大手スーパーは、1970年までには大規模に豆腐を取り扱うようになっていました。

 

マクガバン報告

アメリカ政府の調査も健康食ブームを後押ししました。

1968年〜1977年にアメリカ上院において「栄養と人間欲求における合衆国上院特別委員会(United States Senate Select Committee on Nutrition and Human Needs)」という特別委員会が設置されました。これはアメリカ人の医療と平均寿命に警鐘をならし、このままではアメリカ経済は破綻するとして、世界中から学者を集めて食事と健康のあるべき姿を討議。1977年に「アメリカの食事目標」通称マクガバン報告を発表しました。

この報告書では、肉、乳製品、卵、砂糖、塩分の過剰摂取を控え、穀物、鶏肉、魚、野菜、果物を中心にした食生活が推奨されました。特に日本食の栄養バランスの良さが高く評価され、豆腐がアメリカ政府のお墨付きを得たのでした。

 

豆腐作成キットの販売

アメリカ初の豆腐成形箱は、1975 年にカリフォルニア州バークレーのガネーシャという木工職人によって開発されました。彼は、地元の自然食品店や通信販売で、穴の開いた松の木の箱を販売しました。

その後1976年8月、カリフォルニア州ボデガにある木工店「ザ・ラーニング・ツリー」のラリー・ニードルマンによって、アメリカ初の豆腐キットが発売されました。この豆腐キットは広く宣伝され、月に300~500個のキットが主に自然食品店や健康食品店で販売されました。安価なキットの発売は、全米各地に小規模な豆腐店のオープンを促しました。

 

5. 豆腐産業の勃興

f:id:titioya:20140413104422j:plain

Photo by 美知

若い世代による豆腐店

 1976年以降、白人経営の小規模な豆腐店がアメリカ各地に次々とオープンしていきました。

初期のお店は、自然食やベジタリアンに興味のある20~30代の若者が始めたものがほとんどでした。彼らはヒッピー的な精神を持っていて、豆腐を作ることをZEN(禅)と同一視しました。儲けというよりは、精神と身体の両方にとって「正しい」仕事に興味を持っていました

彼らは起業や経営の経験はなかったものの、基本に忠実に、新鮮な豆乳ににがりを打った添加物なしの豆腐を手頃な価格で販売しました。また日本に赴き達人と呼ばれる人から直接豆腐作りを学んだり、世界各国で豆腐の会社を立ち上げたりする若いアメリカ人が続出しました。

彼らは神秘的な東洋思想にインスパイアされた層でしたが、アメリカのクリエイティブな発想を生かした豆腐ビジネスの発展も進行していきます。

 

クリエイティブな豆腐ビジネス

1978年4月、マイアミのスワンフーズ社は、自分たちで製造した出来立ての豆腐をすぐに加工して販売するスタイルを始めました。

焼き豆腐、醤油漬け豆腐、豆腐チーズケーキ、豆腐パイ、豆腐チップディップ、豆腐ライスサラダ、豆腐ベジタブルシチューなどなど。美味しいだけでなくオシャレなパッケージで、数誌の雑誌に一面広告を掲載して全国に広まり、大好評を博しました。

これを発展させたのが、先述のクオンホップ社。天然にがりと有機栽培の大豆をいち早く採用し、豆腐カツや豆腐バーガー、豆腐アイス、豆腐パンなどの二次製造品を次々と販売。さらに、月額50ドル払えばデリのキットが届くサブスクモデルにも乗り出し、アメリカ人消費者に「伝統的な本物の」豆腐と豆乳を紹介するプログラムを確立しました。

 

より良い設備の導入

ビジネスが成長すると、より効率のよい豆腐製造設備への需要が高まりました。

1977年2月、ラリー・ニードルマンとウィリアム・シャトレフは、日本から高品質の豆腐と豆乳の製造機を輸入する会社を設立。彼らは日本に出向き、豆腐・豆乳製造機器メーカーの高井製作所と業務提携。

当初は高井製作所の輸入代理店でしたが、1980年までにアメリカ製の装置を独自に開発。販売を開始しました。日本のメーカーも豆腐製造機器の売り込みに余念がなく、例えば、東京武蔵野市の中小企業・川西は80年代にはロサンゼルス近郊に事務所を開設し、豆腐や豆乳製造機器の販売を開始しました。

1976年から1982年にかけて、アメリカでは豆腐工場が年間約19の割合で増加していきました。地産地消型のローカルな中小の食品会社が手掛ける他、大手食品加工会社も豆腐加工食品の生産に乗り出しています。

 

今後も成長が期待される豆腐

1981年5月に調査機関FIND/SVPが発表したレポートによると、アメリカ豆腐の売上高は1986年までに約2億ドル(約200億円)になり、10年後にはその倍になるだろうと予測しました。Grand View Researchの調査によると、さすがにそれは勇み足だったようですが2016年には約3.4億ドル(約340億円)になり、近い将来に4億ドル(約400億円)になることが予想されています。

f:id:titioya:20200510161906j:plain

世界的に見ても豆腐の市場規模は増加傾向にあります。

イギリスやドイツといった国では動物愛護の風潮から、ビーガン食への関心が高まっており、2019年から2025年まで年間5.2%で成長すると予測されています。

SDGsやサスティナブルといった「ソーシャルグッド」への人々の関心も目に見えて高まっていることもあり、温室効果ガス削減や貧困対策といった文脈からも、大豆製品、そして豆腐への期待感はますます強まっていきそうです。

PR

 

 

まとめ

 1970年以前に豆腐が見向きもされなかったときに比べて、いまの状況は雲泥の差です。早くはベンジャミン・フランクリンの時代から、一部の人は豆腐の可能性に気づいていたものの、社会的な風潮が大きく変わらないと豆腐が受け入れられるのは難しかったようです。逆に、爆発的に豆腐が普及したのは、不遇の時代にも豆腐の可能性を信じて啓蒙活動や研究を続けた人が大勢いたからとも言えます。

また、当たり前ですが、豆腐が大変すばらしい食品だから、というの大前提にあったでしょう。今夜もそんな素晴らしい豆腐をありがたくいただきましょう。

 

 関連記事

reki.hatenablog.com

 

参考文献・サイト

"The Chinese-Born Doctor Who Brought Tofu to America" Smithonian Magazine

"You can thank Ben Franklin for introducing tofu to America" mnn

"History of Tofu" Soyinfocenter

"Tofu Market Size, Share & Trends Analysis Report By Distribution Channel (Supermarkets & Hypermarkets, Grocery Stores, Online, Specialty Stores), By Region, And Segment Forecasts, 2019 - 2025" Grand View Research