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世界史の驚くべき奇襲戦術(後編)

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 近現代の戦争の奇襲戦

近現代の奇襲戦と言えば、真珠湾攻撃が思い浮かびます。

あれが「だまし討ち」だったというイメージがあり、アメリカも日本が開戦準備してるの知らねえはずなかっただろ、とも思いますが、宣戦布告が遅れてしまいただでさえ悪い日本の国際的なイメージを決定的に悪化させてしまいました。

とはいえ、近代戦でも奇襲は非常に有効な手段であり、いかに初動で重要な拠点を潰すかが勝敗のカギを握りました。それは現代でも同じです。

歴史的な奇襲攻撃の後編は近現代編です。前編はこちらからどうぞ。

 

6. エバン・エマール要塞の戦い

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 Attribution: Bundesarchiv, Bild 146-1974-113-59 / Teschendorff / CC-BY-SA 3.0

ベルギー軍の固い要塞が29時間で無効化

フランスとドイツと国境を隣接するベルギーは、独立以来両国との国境沿いに要塞をいくつも建設し有事に備えていました。しかし、予算の都合上ヴィゼの町とオランダ国境の間には要塞が作られず、第一次世界大戦ではそこを通ってドイツ軍がベルギーへ侵入しました

戦後、ベルギーはこの「ヴィゼの隙間(Gap of Vise)」に新たな要塞、エバン・エマール要塞を築きました。要塞は三角形の形で、800 x 900メートルのエリアをカバー。北東部は高さ40メートルの巨大な壁で、南側は巨大な対戦車溝で、北西はジェカー川と水路によって保護されていました。砦の地下45メートルには補給物資を必要とせずに1,200人以上の兵士を長期間収容できる施設を保有。屋根には、3つの回転砲塔、4つの大砲、2つの機関銃を設置し、進軍してくる部隊を殲滅できるようになっていました。

ただし、エバン・エマール要塞は「空からの攻撃」に対する考慮をまったくしておらず、第二次世界大戦ではその点を突かれることになります。

ドイツ軍は装甲師団を進撃させるため、エバン・エマール要塞が守るアルバート運河にかかる3つの橋(フェルトヴェーゼルト橋、ヴロエンホーフェン橋、カンネ橋)を確保せねばならず、ベルギー軍が橋を破壊する前にスピーディーに橋を占領する必要がありました。

1940年5月9日4時30分、強襲降下部隊を乗せたドイツ軍の軍用グライダー40機が襲来し、3つの橋と橋を守るトーチカ、守備部隊に襲撃をかけます。フェルトヴェーゼルト橋、ヴロエンホーフェン橋はベルギー守備隊の抵抗を受けるも、爆破を阻止し占領することに成功。カンネ橋はグライダーの到着が遅れたり追撃されたりして強襲に時間がかかったため、ベルギー軍によって爆破されました。

エバン・エマール要塞に対しても空からグライダーで強襲降下部隊が乗り移り、火炎放射器と手りゅう弾、爆薬で要塞の火砲をすべて無効化。ベルギー軍守備隊の激しい抵抗はありつつも、出入り口はすべてドイツ軍により抑えられ、わずか29時間でベルギー軍は降伏。砦は陥落しました。


7. ターラント空襲(1940年)

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日本軍の真珠湾攻撃の下敷きになったと言われるイギリス海軍の襲撃

イタリア半島南部のターラント軍港は、ブーツに例えられるイタリア半島のちょうど「土踏まず」の箇所にあり、地中海全体の船舶の交通ににらみをきかせる海上交通の要衝です。イタリアが枢軸国側で参戦してから、ターラント軍港のイタリア艦隊はイギリス軍の海上補給の脅威でした。戦争が始まる前からイギリス軍はターラント軍港の襲撃について研究と分析を重ねており、その有用性が認められていました。

とはいえ、ターラント軍港は防雷網が張り巡らされ、空襲からは防空砲台やサーチライト、観測気球で厳重に防衛されおり、海上からの襲撃は容易ではない。そこでイギリス軍は、空母から離陸させた雷撃機で集中的に攻撃をする作戦を立案しました。
1940年11月11日深夜、空母イラストリアスから出撃した艦上雷撃機フェアリー・ソードフィッシュ12機が第一陣の攻撃を加えます。まず照明弾を投下し地上からの追撃を妨害した上で、港の石油施設と破壊し、停泊してあった戦艦コンテ・ディ・カブール、戦艦リットリオに魚雷を命中させました。1時間後に9機が第二陣の攻撃を加え、戦艦リットリオと戦艦カイオ・ドゥイリオにまた魚雷が命中しました。

▽フェアリー・ソードフィッシュ

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Photo by Tony Hisgett

この攻撃でイタリア海軍は戦艦一隻が沈没、二隻が大破し、港湾施設も多大な被害を受けました。一方でイギリス軍は二機の雷撃機を失ったのみ。この戦いは規模としては大きくありませんでしたが、これがきっかけでイタリア海軍の主力がナポリへ移動し、イギリス軍の航行の自由さが増したことに加え、航空機単独による襲撃の有用性が証明されました。日本軍が一年後に実行する真珠湾攻撃はこの戦いを下敷きにしたとする説もあります。

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8. アサル・ウッターの戦い(1965年)

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インド軍の罠にはまったパキスタン大戦車隊

1965年の第二次印パ戦争でのことです。

インド軍は英製の量産型戦車センチュリオン、旧型の米製M4シャーマン、仏製軽戦車AMX-13を中心に135輌の戦車を保有していました。一方のパキスタンは米製M47およびM48のパットン戦車を265輌保有。数の面でインド軍を圧倒していました。

インド軍のガーバクシュ・シン将軍は正面勝負では勝ち目がないと考え、戦車隊をサトウキビ畑の中に退避させ「Uの字」の体形に並ばせました。そしてサトウキビ畑の中に水を引き入れて泥沼状態にし、正面に囮の戦車10台を並べました。

翌日、パキスタン戦車団は数に任せて堂々と正面から突破を図りました。インド軍の10台の戦車はたちまち餌食に。そしてそのままサトウキビ畑に突入してきました。

しかし中は泥だらけでたちまちパキスタン軍は立ち往生。そこに周囲で待ち伏せしていたインド軍戦車隊から四方八方から集中砲火を浴びるハメに。約100台のパキスタン軍戦車が破壊され、残りはパキスタン領に撤退しました。その数があまりにも多く、戦場跡は「パットン・シティ」と揶揄され、破壊された戦車はその後戦意高揚のためインド中で巡回展示されました。


9. 第三次中東戦争(1967年)

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イスラエルが圧勝した通称「六日間戦争」 

イスラエル建国後に勃発した第一次中東戦争では、イスラエル軍は優勢なアラブ諸国軍相手になりふり構わぬ戦いを演じ、亡国の危機を脱するどころか、エルサレム新市街とネゲヴ砂漠を獲得する大勝利を得ました。

しかし東エルサレムなど重要な拠点は未だにヨルダンやシリア、レバノン、エジプトに「占領」されたままでユダヤ教正統派やユダヤ人強硬派は不満を高めていました。さらには、エジプトではカリスマ的な指導者ナセルが登場。汎アラブ主義を掲げアラブ圏で熱狂的な支持を得て、国際世論からも支持者を集めていました。その中で起こったスエズ危機(第二次中東戦争)では、イスラエルは軍事的には勝利を収めるも、国際的な支持を失いアメリカからも非難され、結局目標だったチラン海峡の制圧もままなりませんでした。

勝利したエジプトは国際的な威信を高め、さらに軍備拡張にまい進していくのですが、装備品や戦闘機・戦車は立派になっていくものの、兵士の訓練は行き届かず、指導層も訓練や学習を怠り私腹を肥やすことに熱心な有様。またアラブ諸国同士も表面上は汎アラブ主義で団結しているように見えつつも互いに疑心暗鬼でした。

そんな中でイスラエルは乾坤一擲の攻撃でアラブ諸国の軍を壊滅させる作戦と情報収集を長年に渡って練り続けていきました。念入りな諜報活動を何年も続け、どの空軍基地にいつどの機体が止まるか。司令官の顔と名前と声はどのようなものか。地上部隊はどこにどれほどいて、どのような武器を保有しているか。敵の軍の上層部の人間関係、彼らのスケジュール。これらの情報を時間をかけて念入りに調べ上げ、とうとう6月5日の早朝に、イスラエル軍は突如一斉に軍事攻撃を開始します。

エジプト、シリア、ヨルダンの空軍基地すべてが一日で攻撃を受け、その大部分が破壊され、中東の空は完全にイスラエルに支配されました。

地上では、シナイ半島に侵入したイスラエル軍が各地でエジプト軍を圧倒。シリア領のゴラン高原、ヨルダン領の東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区も占領しました。

後にシナイ半島はエジプト、ガザ地区、ヨルダン川西岸地区の一部はパレスチナ自治政府に返還することになりますが、ゴラン高原、ヨルダン川西岸地区は現在でもイスラエルが実効支配を続けています。

 

10. テト攻勢(1968年)

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Photo by WO W. A. Parks, USMC official photographer

 ベトナム戦争を取り巻く国際的な状況を一変させた奇襲攻撃

テト攻勢は、1968年1月31日の旧正月(テト)から北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線が、南ベトナムの主要都市に一斉に奇襲攻撃をかけた作戦です。

南北ベトナムの並立が既成事実化すると、北ベトナムは南側に解放戦線ゲリラを送りこみ、スパイ活動や破壊工作を進め内側から南ベトナムの解放を進めていきました。これに対してアメリカは1961年以降介入を強め、1964年からはいわゆる「北爆」を開始、1965年からは地上軍を派遣。韓国やオーストラリアなど同盟国も派兵し戦線は全土に拡大していきました。

アメリカのジョンソン政権はベトナム問題に対する強硬路線を推し進め、あくまで北革命政府を武力で打倒する考えでした。北ベトナムは持久戦に持ち込みアメリカ軍を撤退させる戦略でしたが、中ソ対立から中国の国際的な影響力は増大しており、結局戦争が長引くと、米ソ中の三国による妥協が図られベトナムはそれを飲まざるを得なくなる、と北ベトナムの指導部は考えました。そうなると、祖国を統一するためのベトナム人民の多大な犠牲は水泡に帰する。

そこで北ベトナム政府は1966年10~11月に方針を転換し、乾坤一擲の「短期決戦」に打って出ることを決定しました。1968年11月のアメリカ大統領選を見据え、主要都市を一気に陥落させることでアメリカの反戦・厭戦機運を高めアメリカ軍の北爆の停止と地上軍の撤退を狙い、南ベトナムの指導部を追放して連合政府を樹立する、という壮大な作戦です。

作戦は1968年1月31日、解放軍は南ベトナムの主要都市に一斉に攻撃を行いました。

首都サイゴンではアメリカ軍と南ベトナム政府の中枢機関が攻撃を受け、一時サイゴン放送局が占拠されますが、アメリカ軍と南ベトナム政府軍の反撃で奪還されました。

第三の都市である旧都フエでは、内部の呼応者と解放軍が連携してスムーズな占領を進め、2月1日で市中をほぼ制圧。25日間に渡って占領しますが、アメリカ軍と南ベトナム政府軍に奪還されました。

第二の都市で要塞化した中部の都市ダナンでは、防御が固く解放軍は突破できずに撃退されました。

結果、軍事作戦的にはテト攻勢は失敗に終わりました。

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テト攻勢は1月31日から2月25日までの第一波、5月4日から6月18日までの第二波、8月17日から9月23日までの第三波の三回に渡って実行されました。当初は第二派と第三派の計画はありませんでしたが、第一波の攻撃がうまくいかなかったため追加の攻撃が加えられましたが、予想外にアメリカ軍と南ベトナム政府軍の立ち直りが早く、解放軍の損害は増えていきました。また、奇襲に関する作戦が長い間北ベトナムの中枢のトップシークレットで、現場に指令が落ちてきたのは攻撃の三か月ほど前のことで、必要な内部工作をするには時間が足りなかったのも、テト攻勢が失敗した理由の一つです。

しかしながら、テト攻勢は政治的には大成功を収めることになります。

ベトナム戦線で優位に立っていると信じていたアメリカ国民の衝撃は大きく、これがきっかけで反戦運動が高まり、アメリカの中枢部でも戦略の見直しが進められ、「北爆」の中止を余儀なくされます。ジョンソン大統領は次の大統領選には出馬せず、ニクソン大統領の誕生につながり、ニクソンはそれまでの強硬路線を撤回させて北ベトナム政府側との交渉を進め、ベトナムからのアメリカ軍の撤退を決める「パリ和平会談」が締結されるに至ります。

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 まとめ

時代が近づくにつれて奇襲攻撃も大掛かりで大胆なものになっていますね。

単なる戦術ではなく政治とも連携したものになっており、大局的視点に立って国家の利益を最大限高めるための手段として奇襲が用いられるようになっていることがわかります。

現代戦ではここにサイバー戦、メディア戦といった情報の戦いが加わり、奇襲攻撃も何が真実か分からないほどより複雑化・高度化したものになっています。

 

参考サイト

 "Battle for Fort Eben-Emael" Trace of War

"4 Devastating Surprise Attacks In Military History" War History Online

"1967 war: Six days that changed the Middle East" BBC News

"テト攻勢再考" 木村哲三郎 2009年 亜細亜大学アジア研究所