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ハイダラバード藩王国のインド統合の過程

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デカン高原の大国・ハイダラバード藩王国の帰属問題

イギリス統治時代のインド亜大陸には、数多くの藩王国が存在しました。イギリス時代には藩王国は550~600程度存在したと言われます。

これらの藩王国はイギリス進出以前からあった独立王国で、イギリスの「至上権」を認める代わりに内政権を保証されました。

イギリス直轄領のインドではガンディーやネルーなどのインド国民会議派は独立運動を進めましたが、これらの藩王国はその枠外にあり、インドが独立した後に政治的な帰属が問題となりました。

デカン高原にあった最大の藩王国であるハイダラバード藩王国は、統治層はムスリムでしたが住民の大部分はヒンドゥー教徒、かつ国内に3つの言語があるという地域。

最終的にはインド軍による侵攻でインドに統合されるのですが、パキスタンのように独立を目指す動きも存在していました。

 

1. ハイダラバード藩王国とは

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Image by Jkan997

 ハイダラバード藩王国はインド中部、デカン高原にある内陸国で、1931年時点で人口1,500万人と最大の人口を抱える国でした。藩王はムスリムで「ニザーム(統治者)」と呼ばれ、別名ニザーム王国とも呼ばれます。初代藩王ミール・カムルッディーンは、ムガル皇帝に仕えデカン高原一帯を統治する長官でしたが、1724年に事実上の独立を果たしました。

ハイダラバード藩王は非常に富裕なことで知られ、第10代藩王ウスマーン・アリー・ハーンは当時世界最大の金持ちで、当時のインド政府の国家収入をも上回る資産を有していました。蛇足ですが、彼は3人の妻に42人の側室を抱え、200人の子どもがいたと言われています。

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 ハイダラバード藩王国の住民の約84%はヒンドゥー教徒で、イスラム教徒は約11%。しかし少数のイスラム教徒は王族や官僚のみならず大土地所有者の大部分を占め、多数派のヒンドゥー教徒を支配していました。

一方で被支配者のヒンドゥー教徒は3つの言語地域に分かれていました。東部テランガーナ地方はテルグ語圏、南西部カルナータカ地方はカンナダ語圏、北西部マラートワーダー地方はマラーティー語圏。ちなみにムスリムはウルドゥー語を話していました。

 

ハイダラバード藩王国の政治運動

ハイダラバード藩王国では19世紀後半から内閣参事会と立法参事会が設立され、1919年には前者は行政参事会に再編されているものの、あくまでニザームの諮問機関であり、藩王による親政の体制が継続されていました。

主に1920年代から民間の政治組織が登場してきます。後にハイダラバード藩王国の行方を左右した組織は以下の3つ。

 

ムスリム統一教会

1927年に発足したムスリムの利益の保護を目的とする団体で、ニザーム体制を積極支持した。

 

藩王国会議派

反ニザーム体制を代表する団体で、ニザームに非合法化されたためサティーヤグラハ(非暴力抵抗運動)を繰り広げた。ガンディーの影響を受けていたが、インド国民会議派との直接の関係はない独自の組織。

 

アーンドラ大協会

1930年に発足したテルグ語圏のテランガーナ地方を基盤とする組織。1944年以降、指導部が共産主義者となり、農民解放運動を進めていく。

 

これらの組織はインド独立前から存在し活動をしていたものの、活発化するのはインドが独立した後のことでした。というのも、インド独立の中心勢力であるインド国民会議派が独立を目指したのはまずはイギリスの直轄領である「英領インド」のみ。統一インドを実現するか、ムスリム地域をパキスタンとして分離するかの交渉が続いており、国土の45%、人口の24%(1941年時点)を占める藩王国をどうするかは、独立運動中はまったく考えられていなかったからです。

 

2. インド独立後の王国の行方

第二次世界大戦が終了し、イギリス本国では労働党のアトリー政権が成立。本格的なイギリスのインド撤退が進むことになります。

藩王の中には、国民会議派が主導するインド政府が藩王国を併合し利権を失うことを嫌い、イギリス撤退を望まない声もありました。しかし、イギリスは独立インドとの良好な関係を維持し、限りなく影響力を保持した「名誉ある撤退」を望んでおり、これまでのイギリスと藩王国の関係を維持することを拒否。同時に至上権はインドと藩王国との間にも存在しないとして、暗に藩王国のインド連邦への併合を示唆していました。

 1947年6月3日、印パ問題はいわゆる「マウントバッテン裁定」により、インドとパキスタンの分離独立が決定。翌日、インド総督マウントバッテンはイギリスの藩王国に対する至上権を返還し、藩王国がインドとパキスタン、どちらの制憲議会に参加するか、あるいは参加しないかは自由であると表明しました。

翌月7月、インド政府は藩王国問題を解決するために藩王国省を設置し、国民会議派の老練な政治家ヴァッラブバーイー・パテールを任命しました。

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パテールは早速藩王との交渉を開始。インド側は藩王に対し、藩王国がインドに外交・防衛・通信および運輸の三事項を委ねることと、イギリスと藩王国との間の合意や取り決めを今後はインドとの間で継承することを求め、大部分の藩王から合意を取り付けることに成功しました。

しかしハイダラバードのニザームはこれらの文書への調印を拒否し、インド・パキスタン、いずれの制憲議会にも代表を送らないことを宣言しました。

ハイダラバードの支配層であるムスリムは、インドに加盟したらムスリムがマイノリティになり自らの立場が脅かされることを懸念した上、インド政府が州や藩王国といった地方の自治をどこまで許すかまったく見えなかったためです。

この藩王の判断に、国内の政治勢力がざわつきはじめます。

ムスリム統一協会はニザームの「ハイダラバード独立」構想を支持しますが、藩王国会議派はインドへの加盟と責任政府の導入を求めて運動を組織しました。

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3. 王国内の勢力の争い

藩王国会議派内には右派から左派まで様々な勢力がいたのですが、主導権を握ったのはティールタの率いる左派。左派は社会党や共産党とも繋がりもあり、当時共産主義者の指導下にあったアーンドラ大協会ではテランガーナの農民解放闘争が始まっており、共産党は藩王国会議と大同団結して反ニザーム統一戦線を構築しようとしていました。

一方インド政府ならびにインド国民会議派は、ハイダラバードのインド加盟を目指しますが、藩王国の独自の政治勢力による活動を警戒。あくまで自らが主体的になってハイダラバードを統合することを目指しました。

パテールはまず、藩王国会議派から社会党・共産党を離反させるべく、ティールタと会談して圧力をかけました。ティールタは圧力に屈し、解放区設置は会議派とは関係ないと表明。さらに政府から派遣されたK.M.ムシンが藩王国会議派のメンバーに共産主義者と協力することの危険性を警告。1948年3月に藩王国会議派は共産党の暴力的戦術を非難する声明を発表するに至りました。

藩王国会議派と社会党・共産党、そして藩王国省は「反ニザーム」と「インド加盟」という点では一致していたたものの、藩王国省は藩王国会議派と社会党・共産党との離反を画策し、反ニザーム統一戦線の成立を妨害しようとしました。その一方で藩王国会議派に武器や資金の支援は一切行いませんでした。

つまり、藩王国省はハイダラバードの政治勢力を分断し、組織の弱体化を図り、中央政府主導の併合を目指していたわけです。

 

4. インド軍の武力介入

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 1948年1月ごろから藩王国省はハイダラバードへの軍事進攻の検討を開始し始めます。

この侵攻作戦は「ポロ作戦」と名付けられ、作戦はジャヤント・ナス・チョウドリ将軍によって立案されました。

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一方であくまで話し合いで解決しようとする意見もインド政府には根強くありました。ハイダラバードにはインド国内から多数のムスリムが難民として逃げ込んでおり、ここに軍事進攻することで国内のムスリムの反発を招くこと、さらには国際的な問題になっていたカシミール藩王国の帰属問題に関連し、インドが非人道的なオプションをしたと国際的な非難を浴びる恐れがあること、です。

しかし、国内のヒンドゥー勢力からは政府のムスリム勢力への弱腰対応への非難が高まっていました。さらにハイダラバードの近隣の州からは「問題を放置しておくと、ハイダラバードの共産党による農村解放運動が近隣に拡大し混乱が広がる恐れがある」として介入を求める声が高まりました。

8月13日、カシミール問題に関連する国連委員会の決議が発表され、これをインドが承諾した一方、パキスタン側は返答を保留しました。首相ネルーは、インドが柔軟な対応をとってくれると国際的な評価を高めた今がチャンスと考え、ハイダラバードへの軍事介入に踏み切ります。

9月13日、チョウドリ将軍率いるインド軍は4方面からハイダラバードに軍事侵攻を開始。ニザーム政府は国連に提訴すると同時にパキスタンに支援を求めますが、パキスタン政府は支援を送ることができず、わずか4日後の9月17日に降伏。ハイダラバード軍の死者は約600名、インド軍の死者はわずか10名でした。

 

5. インド併合、ハイダラバードの分割

 インド政府はハイダラバードにチョウドリ将軍を首相とする臨時政府を設置。

その後1949年12月にインド政府の官僚M.K.ヴェッローディに首相の座が引き継がれ1952年まで続きました。この間にインド政府はハイダラバードの政治勢力に介入し、インド国民会議派の支配下に組み入れていていきました。

まず、ハイダラバード藩王国のムスリム官僚のほとんどを解雇し、近隣の州から派遣したヒンドゥー系官僚に置き換えます。

次に共産党勢力を徹底的に弾圧し、49年4月までに約4,000人の共産主義者を逮捕。さらに藩王国会議の中の社会党・共産党勢力を排除し、右派に主導権を握らせました。藩王国会議は1952年にインド国民会議派の地方組織に再編され、完全にコントロール下に置かれました。

ハイダラバード藩王国は1950年1月26日施行のインド憲法によって、インド諸州と同様の立法・行政・司法制度が導入され、完全にインドの一州となりました。

その6年後、ハイダラーバート州は言語によって3分割され、テルグ語圏、カンナダ語圏マラーティー語圏の近隣の州に併合されました。

こうしてかつてのハイダラバード藩王国の行政区分は消滅しました。

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まとめ

 当時のインドとパキスタンの関係は一触即発であり、ちょっと見誤ると全面戦争に突入する危険なものでした。

もしハイダラバード藩王国が独立すると、西パキスタン(現パキスタン)、東パキスタン(元バングラデシュ)に次いで、中央パキスタンが誕生した可能性もあり、国内のどてっ腹に敵対的な国が誕生することをインド政府は何が何でも防ぐ必要がありました。これがインド政府が強固にハイダラバード問題に介入した理由の一つです。

そして印パが分離したことによって、ヒンドゥー勢力が率いるインド政府はムスリム勢力に譲歩する必要がなくなり、強い権限で強引に500近くもある藩王国の問題を解決することができたわけです。

 

参考文献

「インド独立と藩王国の統合 ー藩王国省のハイダラバード政策ー」 井坂理穂 アジア経済 1995年3月

岩波講座 世界歴史24 解放の光と影 "インド・パキスタン分離独立" 井坂理穂 1998年7月10日初版第一刷