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決闘(デュエル)で死んだ政治家たち

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政府高官も活動家も皆決闘(デュエル)が好きだった 

ヨーロッパでは19世紀まで自らの名誉を守るための決闘(デュエル)はわりとポピュラーでした。

国王や政府や私闘を禁じてはいたものの、その国王や政府を支える貴族や政治家たちが頻繁にやっていたのだから取り締まりも何もありません。20世紀に入って決闘が古臭くてダサいという価値観が浸透してようやく廃れていきました。

 今回は本来は禁じるべき立場なのに率先して決闘をやり、しかも敗けて死んだ著名な政治家をピックアップします。

 

 1. ウィリアム・ドゥルーリー(イギリス)

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どちらが上席かをめぐる口論の末に決闘 

ドゥルリー家はイングランド東部のサフォークの地主階級の一家。ウィリアム・ドゥルリーは1557年に父、1558年に祖父の土地を受け継ぎ、ドゥルリー家の当主となります。

1582年にサフォークの高位保安官、1584年~1586年にサフォークのナイト・オブ・ザ・シャイア(中世イングランドの下院議員の呼び名)、1587年からはエセックス、ハートフォードシャー、ミドルセックス、ロンドンの財務管理担当を歴任。1588年からはオランダの駐留イングランド軍の指揮官となり、ベルゲンオップズーム知事となりました。

時を同じくしてスペイン兵が積極的な攻勢をかけ、彼は「世話と勤勉、規律と政策」に尽くしますが、エリザベス女王はより経験豊かなトーマス・モーガンへの交代を望み、辞任させられました。決して大きなミスをしたわけではないため、「彼の心は死んでしまう」と不憫に思ったウィロビー卿はオステンド知事の職をあてがおうとしますが失敗。

次に、ウィロビー卿はドゥルリーを大佐にして1,000名の兵士を預けフランス王アンリ四世の支援に向かわせました。しかしその途中、ドゥルリーはジョン・バラという男と「どちらが上席かをめぐる馬鹿馬鹿しい口論」でヒートアップ。イライラしていたのかもしれませんが、収まりがつかなくなり、決闘で決着をつけることに。戦いの結果ドゥルリーは手に重症を負い、切断せざるをえなくなり、その後すぐに死亡しました。

 

2. バトン・グインネット(アメリカ)

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名誉回復をかけた政治ライバルとの決闘

バトン・グインネットはアメリカ独立の功労者の一人ですが、あまり目立つ活躍をした人物ではありません。有名なものとしては、独立宣言に二番目に署名をしたこと、36ある独立宣言書の彼のサインは後にオークションで高値で取引されたこと程度です。

イングランドで生まれた彼は妻と一緒にアメリカに移住し、プランテーション経営で成功しジョージア州の植民地議会議員にまで出世しました。彼の政治的ライバルはラックマン・マッキントッシュという男で、二人はたびたび抗争を繰り広げました。独立戦争中の1776年7月には、グインネットは第一ジョージア連隊の指揮官の座をマッキントッシュに奪われ、屈辱を味わいます。その後、今度は東フロリダ侵攻の指揮もマッキントッシュの部下に奪われ、このキャンペーンが失敗したことで評判を落とし、これがきっかけでジョージア知事選にも敗れてしまいます。

マッキントッシュは一連のグインネットの失態を公然と嘲笑したため、グインネットは我慢がならなくなり決闘を申し込みました。1777年5月16日にサンダーボルトという小さな町で決闘が行われ、二人共に負傷するもグインネットは足の負傷が原因の壊疽が原因で3日後に死亡しました。

 

3. フェリーチ・カヴァロッティ(イタリア)

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 激情型の左派政治家と保守派ジャーナリストの決闘

フェリーチ・カヴァロッティは統一イタリア王国初期の左派政治家。

若いころは、ガリバルディの「赤シャツ隊」の一員として、両シチリア王国の征服に参加。統一イタリア成立後は、雑誌ガゼッタ・ロサの設立に携わり、1873年に選挙に出馬し下院議員に当選。国王を排した完全な民主主義、ナショナリズムへの反対、ヨーロッパ連邦主義、女性の自由、死刑の廃止、労働者の解放などを訴え、当時では極端な左派としてならしました。政界では右派のアゴスティーノ・デプレティスとフランチェスコ・クリスピを批判し続けました。

 カヴァロッティは激情的な男で、人と議論になって感情的にもつれ自分の名誉が傷つけられたと思ったら、その回復のために決闘を求めました。彼はその生涯で33回も決闘を行っています。しかし彼は決闘で殺害をすることなく、サーベルを首や動脈のぎりぎりのところで止めるというやり方が常でした。

 1898年3月6日、カヴァロッティはガゼッタ・ディ・ヴェネツィア紙の編集者フェルッチョ・マコラと決闘を行い、頸動脈と口蓋をサーベルで刺され出血多量で死亡しました。

▽サーベルで戦うカヴァロッティとマコラ

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 イタリア政府は決闘を1875年以来禁止していましたが、通常カヴァロッティのように寸止めで終わっていたので容認していたのですが、今回のように本当に殺してしまった場合は「名誉」の緩和要因があるにも関わらず殺人とみなされ、最高5年の懲役に処せられることが決まっていました。マコラは判決により13ヶ月の禁固刑の後に保釈という軽微すぎる刑を受けたのみでした。

しかし当時はすでに決闘が社会的に価値を失っており、マコラは社会的地位や財産等すべてを失い、数年後に自殺しました。

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4. カデグアラ(チリ)

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 ピューレン砦の引き渡しをめぐってスペイン人と決闘

カデグアラはチリ南部の原住民マプチェがスペイン人と戦ったアラウコ戦争における指導者(トキ Toki)。役職は代々受け継がれ、カデグアラは1585年~1586年のトキです。

彼はマプチェの高い位の家系出身で若いころからスペイン人との戦いに参加し、実績を上げて将軍級にまで出世をしました。1584年のトキ、カヤンカルはカデグアラに兵を預け、アンゴル市とトリニダード砦の攻撃を行わせましたが、両方とも成功せず、砦にこもっていたフランシスコ・ヘルナンデス指揮のスペイン兵の反撃にあって撤退を余儀なくされ、カデグアラ自身も重傷を負いました。

その後カデグアラはトキとなり、再びアンゴル市への攻撃を行いますが、指揮官アロンソ・デ・ソトマヨールによる反撃で再び失敗。翌年、約4,000のマプチェ戦士を率いてピューレン砦を攻撃しソトマヨール率いる150名の守備隊を退却させました。その際、カデアグラはソトマヨールに決闘を申し入れます。

お互い騎馬で槍を持って一騎打ちをし、最初の衝突でソトマヨールの槍がカデアグラを貫き死亡。それでも仲間のマプチェは彼の死を認めず、再び馬に乗せて戦わせようとしますが既にこと切れていました。

その後マプチェは新たなトキとしてグアノアルカを選出して再びピューレン砦を包囲。補給が途絶えたスペイン兵はとうとう降伏を余儀なくされました。

 

5. フェルディナント・ラッサール(ドイツ)

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 政治闘争で消耗した社会主義者が恋愛のもつれで決闘

フェルディナント・ラッサールは19世紀ドイツを代表する社会主義者の一人。

若い時分は、カール・マルクスと時には協調、時には対立しながらも、革命闘争を進めました。労働者階級を率いた政治闘争を繰り広げ、国王を筆頭とする「封建主義勢力」を打倒し、真の「立憲主義国家」の成立を目指し、1863年5月に全ドイツ労働者同盟を結成し指導者となりました。

1864年7月、飽くなき政治闘争に疲れ果てたラッサールは、バカンスでスイスを訪れます。そこで彼はバイエルン王国の外交官の娘ヘレーネ・フォン・ドンニゲスに会い恋に落ちました。彼は彼女に情熱的に求愛し、ヘレーネもそれを受け入れますが、すでにヘレーネにはルーマニア貴族の許嫁がおり、保守的なヘレーネの家族は社会主義者ラッサールの求婚に反対。怒ったラッサールは、彼女の父と婚約者、ヤンコ・フォン・ラコヴィツアに決闘を挑みました。ラコヴィッツァはそれを受け入れ、8月28日にジュネーブ近くの小さな森で決闘が戦われました。ラサールは腹部を撃たれ、3日後に死亡しました。中年になって初めて経験する恋愛は質が悪いと言いますが、これがいい例ですね…。

 

6. チャールズ・モーン(イギリス)

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政治争いと土地争いのもつれで決闘

チャールズ・モーンは、父の遺産を受け継いで第四代モーン男爵オークハンプトンに就きますが、父は借金まみれで他界しており、モーン家の栄誉と威信を回復させることが彼に課せられていました。

貴族院となったモーンは1701年、彼はハノーヴァーへの外交使節団でマックルズフィールド伯爵に同行し、その縁でマックルズフィールドが子を子を残さずに死亡した後、彼の財産のほとんどを託されました。しかしマックルズフィールドの遺産を狙うライバルは多く、モーンは10年以上も別の遺産継承を主張する者の挑戦に抵抗しなくてはなりませんでした。その一つが、第4代ハミルトン公爵ジェームス・ダグラスと争ったマックルズフィールド地区の継承権問題です。両者による遺産継承をめぐる裁判はひどく長く続きました。一方で両者は政治的なライバル関係にもありました。ハミルトン公爵は名誉革命の後も前国王ジェームズ2世を奉じる生粋のトーリー党で、一方モーンはハノーヴァー家を奉じるホイッグ党。

当時はスペイン継承戦争の真っ最中で、主戦派ホイッグ党の政権下で長引く戦争に厭戦気分が高まっていました。1710年の選挙ではそうした厭戦気分を反映して和平派のトーリー党が巻き返したことに加え、アン女王が和平に傾きトーリー党を信任したことでトーリー党が大勝。新政権が成立しました。その二年後の1712年11月、トーリー党政権はフランスとの和平を求め特使としてハミルトン公爵をパリに送ろうとしました。

そこでモーンは諸々の決着をつけようとハミルトン公爵に決闘を申し込みます。決闘は11月15日にロンドンのハイドパークで行われ、結果、モーンもハミルトン公爵もひどい重症を負い、二人とも死んでしまいました。

▽決闘をするモーンとハミルトン公爵

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ハミルトン公爵の支持者は、モーンのセコンドを務めたジョージ・マッカートニー将軍がモーンの死後に公爵を討ったと主張しました。マッカトニー将軍は逃亡し、起訴されましたが、仲間の証言で無罪となり、「モーンはハミルトン公爵に致命傷を負わせた後死んだ」と結論付けられました。

 

7. アレクサンダー・ハミルトン(アメリカ)

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 アメリカ政府の高官同士による決闘

 アレクサンダー・ハミルトンは創成期のアメリカを支えた重要人物の一人。

孤児から身を起こし苦学して政治家になり、独立戦争中はワシントンの右腕として活躍。独立後は連邦党(フェデラリスト)の代表的人物となり、ワシントン政権の財政長官となりました。アメリカ合衆国憲法の起草をしたり、ニューヨーク・ポスト紙やバンク・オブ・ニューヨークの創設にも携わるなど、当時アメリカの最高の頭脳の一人でした。

しかしながらハミルトンは敵が多く、政敵の共和党(レパブリカン)のトマス・ジェファソンのみならず、同じ連邦党のジョン・アダムズとも激しく対立。連邦党の中心であったものの女性問題などのスキャンダルで人望が薄く、大統領選に出馬できない微妙な立場でした。1800年の大統領選では、連邦党はハミルトンとアダムズの対立により分裂し、共和党が勝利。第三代大統領にはジェファソンが就きました。

さらにハミルトンは共和党のナンバー2であるアーロン・バーにも攻撃をしつこくしかけ、バーはとうとうハミルトンに決闘を申し入れました。なぜこの二人の確執が激しくなかったかは色々な説がありますが、ハミルトンが「お前はおれの娘と寝ている」などと個人的な侮辱をしたからと言われています。事実であればめっちゃ低レベルですね。

▽決闘をするハミルトンとバー

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さて連邦党の重鎮と共和党の副大統領は1804年7月11日にニューヨークからハドソン河を渡ったところで決闘。ハミルトンの銃は壊れていたか、弾が外れるかして失敗。一方バーの放った弾は確実にハミルトンの胸に当たり、翌日絶命させました。

この戦いでバーは政治生命を絶たれてアメリカ西部に逃げ、一説によると西部を連邦政府から独立させようとしたそうです。

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まとめ

一応太古の昔からもめごとの調停のための裁判の仕組みはあったのですが、法律がどうとかルールがどうとかより、とりあえずぶっ殺して名誉を回復したいという人が多くいて、しかもその考えが社会的に広く許容されていたので何とも治安が悪い話です。

それにしても、こうしてみると結構くだらない理由も多く、彼らが命をかけて守ろうとした名誉というのは果たしてどんなものだったのだろうと考えてしまいます。

 

参考文献・サイト

"DRURY, Sir William (1550-90), of Hawstead, Suff." The History of Parliament

 "Ferdinand Lassalle" Encyclopedia Britannica

"Button Gwinnett! Encyclopedia Britannica

"Duels and Duelling" Stephen Banks

"スキャンダルの世界史" 海野弘 文春文庫 2012年5月10日初版第一刷