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中世・北東アジアの歴史 -モンゴルの樺太侵攻-

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国境を超えて様々な民族が交錯したきた北東アジア

現在のロシア極東、中国東北部、サハリン、北日本は、オホーツク海を挟んでいますが歴史的に民族的・文化的・経済的に極めて緊密な関係にありました。

日本民族が進出するまでは北海道はアイヌ人が広く住んでいましたが、アイヌというグループもかつては明確に定まっておらず、大陸側や樺太に住む民族とも繋がりがありました。モンゴル帝国の進出、次いで明王朝と清王朝の成立という大陸側の大きな政変と、日本列島の中央の抗争との間にあって、北西アジアは中世に大きく揺れ動くことになり、その後の運命が変わっていくことになります。

 

1. 中世・北東アジアの勢力図

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13〜15世紀ごろ、ロシア極東〜樺太〜北海道には中国・日本の文献で様々な呼称で呼ばれる原住民が広く分布していました。
日本の津軽・下北から北海道の渡島にかけては、津軽の安藤氏が拠点を構えていました。安藤氏は鎌倉幕府の支配下で、内地からの流刑人の受入窓口となる一方で北の蝦夷への抑えとしての機能を持ち、かつ十三湊を拠点とした北東アジア交易によって大いに栄えました。安藤氏は自ら「蝦夷」と名乗っており、和人でありつつも半ば土着化した蝦夷で、「諏訪大明神絵詞」では「渡党」と呼ばれています。これによると北海道東部〜千島列島の人々は、東の蝦夷という意味で「日ノ本蝦夷」、北海道北西部から樺太にかけての人々は、中国の影響を強く受けていたという意味で「唐子蝦夷」と区分して呼ばれています。

十三湊は日本海を通じて畿内との交易をしていただけでなく、太平洋に向かって鎌倉、日本海を横断して沿海州・朝鮮半島、樺太西岸をたどってアムール川流域、北海道の太平洋岸から千島列島にまで交易路を広げていました。

しかし、この北東アジアの秩序が大いに乱れる事件が発生します。それが13世紀後半から始まるモンゴル帝国の侵入です。

 

2. モンゴルのアムール・樺太進出

元のアムール・樺太方面への侵入はフビライの時代に始まりました。

元は沿海州南部から一気にアムール川河口までをも制圧し、アムール川とアムグン川が交わる奴児干(ヌルガン)に東征元帥府を設置し、アムール河口の吉烈迷(ギレミ)という先住民族を支配下に置きました。この吉烈迷(ギレミ)という人々はアムール川周辺のツングース系民族を総称した呼称です。

そして1264年に、その吉烈迷(ギレミ)からの要望で、吉烈迷と紛争をたびたび起こしていた骨嵬(クギ)という先住民族を討伐するため、モンゴル軍は樺太に渡り彼らを制圧しました。骨嵬(クギ)は元に服属しますが、1284年に離反し、たびたび元に抵抗を繰り広げました。また「元分類」という書物によると、1297年に不簾古と名乗る骨嵬王が率いる一隊が樺太から海を渡って大陸側に攻め込み、元の守備隊を攻撃したとあります。しかし結局元軍に撃退され、再び1308年に元に服属して毎年毛皮をもって来貢するようになったそうです。骨嵬(クギ)とは吉烈迷(ギレミ)が現在のアイヌ民族の祖先を指した呼称で、アイヌが元に対して武力抵抗をしていたのは間違いありません。これは九州へのモンゴル軍の侵入に対する「北の元寇」などと言われています。

 

蝦夷の乱は元の樺太侵攻がきっかけ?

元が骨嵬(クギ)をその支配に組み込んだことで、北海道の蝦夷社会は大きく混乱したと想定されます。

骨嵬(クギ)が樺太にまで進出していたのは、安藤氏らを仲介とした和人との交易によって鉄製品や陶磁器・漆器などを得て権勢を強めていたからで、その骨嵬(クギ)が朝貢体制に組み込まれてしまったことで、蝦夷では様々なコンフリクトが起こったと思われます。例えば、日本製の鉄製品が入手できなくなり狩猟や農業ができなくなった、物資の流入ルートが大幅に変更になってそれまで栄えていた町が急速にさびれてしまった、和人との交易で威信を得ていた名望家が信用を失い没落した、など。

13世紀初頭に始まる安藤氏の内紛に端を発する「蝦夷の乱」も、この蝦夷社会の混乱が何らか影響をしているという予測がありますが、詳しくは分かっていません。元が安藤氏が支配していた交易圏を侵害してダメージを受けたから、という説もあります。いずれにしても元というユーラシア大陸をまたぐ強大なパワーが生じたことは、周辺にも大きな影響を与えることになりました。その中で骨嵬(クギ)は社会的・経済的・文化的に中国に大きな影響を受けて変化し、日本人はそうやって中国化した蝦夷を「唐子蝦夷」と呼んだわけです。

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3. 北東アジアの社会の再編

 元がモンゴル高原に追われて明が成立した後、しばらくアムール川・樺太は権力の空白地帯となりますが、永楽帝の時代に支配が復活します。

東征元帥府の跡に奴児干(ヌルガン)郡司が設けられ、そこからアムール川河口にも数十か所の駅站が設置され支配が強まりました。しかし明では北のモンゴルから北元が、南からは倭寇が、いわゆる「南倭北虜」に苦しめられ、東北部の支配もままらなくなり、支配は有名無実化し女真族の勃興を止められなくなっていきます。

中国権力と強く結びつき威信を得ていた人々は没落し、朝貢貿易が途絶えたことで交易品が不足しがちになり、吉烈迷(ギレミ)や骨嵬(クギ)の人々はもちろん、彼らと交易をしていた日ノ本蝦夷の人々も混乱し社会の再編を余儀なくされていきます

そんな中、渡党は和人との関係が強かったため明の撤退の影響はあまり受けませんでしたが、一方で中央で安藤氏を庇護する室町幕府が急速に衰えたことで、安藤氏は権勢を失い新興の南部氏との戦いに敗れ北海道の渡島に逃れ、本格的に蝦夷と争いを行うようになります。

一方で安藤氏が去った後には蠣崎(かきざき)氏(松前氏)がやってきて覇権を確立し、蝦夷の支配体制を構築していきます。結果的に南からやってきた和人勢力(江戸幕府)が蝦夷支配を確立していくことになるのですが、その間は蝦夷の勢力と安藤氏の勢力、唐子蝦夷と日ノ本蝦夷の対立が複雑に入り組む対立抗争が繰り返された歴史でした。

一方で空白地帯に置かれた大陸側では、中国全土を揺るがす大勢力の発生が起こることになります。女真国家の成立です。

 

4. 女真国家の成立と松前藩支配の成立

 中国東北部では、明の権力が後退し、衛と呼ばれる軍事リーダーが割拠する状況となっていました。そんな権力空白地帯の中から、建州女直の愛新覚羅(アイシンギョロ・ハラ)が台頭。16世紀末に登場したヌルハチによって建州女直が統合され、海西女直(フルン・グルン)や野人女直をも撃破し、中国東北部から沿海州にかけての女真族を統一し、1616年に後金が成立しました。後金はその後内モンゴルや朝鮮を制圧し、1636年に大清に国号を変更。1644年に明が北京を離れた後の中原に侵入し、1911年まで中国全土を支配するに至ります。

 一方、日本の東北と北海道では、蠣崎氏による蝦夷の統合が進んでいきました。蠣崎氏の祖である武田信広が出自がよく分かっておらず、若狭武田氏の一族とする説もありますがこれは伝説に過ぎず、もっと低い出自だと考えられています。蠣崎氏は名目上は主家である安藤氏に仕える立場でしたが、弱体化した安藤氏に代わって1457年にコシャマインとの戦いを制し、渡島半島の館主の勢力も統合し、北海道の蝦夷勢力を抑えて最終的には幕藩体制下の藩として認められ、江戸幕府の北の抑えを担うことになります。蠣崎氏は17世紀までは松崎氏と同じく伝統的に自らを蝦夷と称していましたが、その後は明確に和人化し、北海道の蝦夷と対峙するようになります。その中で近世以降の「アイヌ民族」という区分が生まれ、認識されるようになっていきました。つまりそれまでは和人と蝦夷の中間のような曖昧な存在があってそれが異なる集団間のクッションになっていたのですが、そのような曖昧さがなくなって、誰も彼もどこか一つの民族集団に属すと認識されるようになっていくのです。

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まとめ

 北東アジアは大陸でも日本列島でも辺境にあたり、そこでは民族集団や国境の区分が曖昧な世界が広がっていました。

その辺境を支配すべく大陸でも日本でも中央政権が介入に乗り出しましたが、大陸では遊牧民の伝統を受け継ぐ女真族が力をつけて中央を支配し、日本では距離の問題もあって経済的・文化的な力を蓄えられずに中央の息のかかった地方政権によって制圧されていくことになりました。

そういう違いはありましたが、大陸でも日本でも、その土地を支配したのは旧支配層の下にあって中央と辺境の間にある存在でした、大陸では中央に仕える存在だった衛からヌルハチが台頭し、日本でも安藤氏に仕える蠣崎氏が台頭し、それぞれ辺境を制圧していくことになりました。そうして強力な中央政府による統制を受けつつ、とはいえ完全な征服を受けずある程度の曖昧さを残しつつも、中世から近世に入っていくことになります。

 

参考文献

岩波講座日本通史 第10巻 中世4" 特論 北海の交易-大陸の情勢と中世蝦夷の動向- 佐々木史郎" 1994年11月28日第一刷発行