歴ログ -世界史専門ブログ-

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世界史のパンデミック死者数TOP10

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Photo by Cybercobra

世界史の引き金となってきたパンデミック(世界流行) 

 歴史上、何か大きな内乱や対外戦争、王朝の交代が起きたその背景には、世界規模の気候変動やパンデミック、大恐慌などがありました。

政治機構による安定した統治が実現していても、多くの人が否応無く巻き込まれ、食えなくなったり没落したりする人が続出すると、統治能力の限界に陥り、人々の不満の高まりから内乱や対外戦争が勃発する場合がありました。

今回は歴史上、もっとも多くの死者を出したパンデミックをまとめていきます。

資料によりかなりばらつきがあって、この順位が確実というわけではありませんので、ご承知おきください。

 

10.第三次コレラ流行 約100万人以上が死亡(1846年~1860年)

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コレラのパンデミックは史上七回発生しています。

第三次コレラ流行は19世紀半ばに発生したパンデミックで、発生源はインドのガンジス川デルタ地帯。世界的流行によりロシアでは約100万人が死亡、ロンドンでも約2万人が死亡しました。この流行による世界中での正確な人数はよくわかりません。おそらく100万人は確実に超えていると思います。

19世紀後半から20世紀前半は、世界的なヒトとモノの流通量が飛躍的に増大し、グローバル化が一段と進んだ時代でした。大英帝国との経済的な繋がりを深めたインドで、世界各地からヒトやモノ(特に家畜)が流入してきたことで大きな被害が出ることになったのでした。
 ロンドンで流行した1854年、疫学の父と言われるジョン・スノウ博士の貢献により、病気の媒介が汚染された井戸水によることが突き止められました。

 これがきっかけでロンドンでは大規模な上下水道システムの整備が進み、公衆衛生の安全性が高まりました。

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reki.hatenablog.com

 

9.天平の疫病 約150万人死亡 (735年~737年)

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 Photo by 663highland

天平9年(737年)、奈良時代の日本で天然痘が大流行しました。

おそらく中国か朝鮮の使節が持ち帰って広まったもので、当時は地震・凶作などが相次ぎ、多くの人の体力が弱っていたと考えられ、追い討ちをかけた疫病によって150万人が死亡したと考えられています。

猛威を振るう天然痘は、当時の権力者・藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)を全員病死させ、その影響で政治機能が一時的に麻痺し、その後聖武天皇を中心に橘諸兄などによる皇親政治が始まり、その後、武智麻呂の子・仲麻呂の巻き返しが起こるなど政局が混迷していきます。奈良の大仏が建立されるのはこうした世の中の混迷の延長線上にありました。 

 

8. アジアかぜ 約200万人死亡 (1957年~1958年)

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Photo by Cybercobra

1957年に始まったアジアかぜもインフルエンザで、2月下旬に中国から流行が始まり、4月に香港、5月にシンガポールと日本に上陸。10月には世界中で症例が確認されました。熱帯の国と日本では上陸と同時に一気に流行しましたが、欧米では侵入後潜伏期間があり6週間後に一気に広がりました。

スペインかぜよりは致死率は低くかったものの、児童と高齢者を中心に爆発的な感染が起こり、世界中で約200万人が死亡しました。ワクチンがアメリカで8月、イギリスで10月、日本では11月に利用可能になりましたが、生産量が非常に少なく、学級閉鎖が伝播を防止できる唯一の手段でした。

 

7. 第三次ペスト流行 約1,200万人死亡 (1855年~1960年)

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第三次ペスト流行は、過去世界で壊滅的な被害を与えてきた腺ペストの大流行で、1855年に清帝国の雲南地方から始まりました。当時の雲南では鉱山開発により漢人が大量に流入し回族との軋轢が生じており、物流の増加の中でネズミが媒介する腺ペストが流行。危機が高まり、回族が反漢・反清の反乱(パンゼーの乱)を引き起こしました。回族の反乱は太平天国の乱とも連動し、清帝国の支配を揺るがすことになります。

さらに腺ペストは広東、香港、そしてインドにもたらされ、インドだけで1,000万人が死亡しました。

 

6. ユスティニアヌスのペスト 約2,500万人〜約5,000万人死亡(6世紀)

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542年〜543年、ユスティニアヌス一世治下の東ローマ帝国で腺ペストが大流行しました。ペストは帝国の領土に広範囲に広がり、隣国のササン朝ペルシアやイタリア半島、北アフリカにも波及。60年にも渡って猛威を振るい続けたと言います。ユスティニアヌス自身も感染しますが、辛くも命は取り留めました。

しかし人口の大減少は経済に壊滅的な被害を与え、ユスティニアヌス以降の東ローマ帝国の衰退のきっかけになったと言われています。定説によると、ユスティニアヌスのペストによる死者数は2,500万〜5,000万と言われてきました。これは古代の人口からするととんでもない数です。

一方で最新の研究によると、ユスティニアヌスのペストは当時のヨーロッパ社会を揺がすほどの深刻なダメージはないらしく、過大評価だと見る向きもあります。

www.cnn.co.jp

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5. HIVウイルス 約3,000万人死亡 (20世紀~現在)

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Image by Thomas Splettstoesser

 HIVウイルスは1970年代後半に世界的に拡大し、1981年にエイズが発見されました。2015年段階で約3,670万人がHIVウイルスに感染しています。

95%の患者が発展途上国の人で、性交渉や親子感染、汚染された血液の注射によって感染します。先進国では主に、薬物の薬を打つ注射の使い回しや同性間での性交渉による感染が多くなっています。

HIVはもともと霊長類を宿主とするサル免疫不全ウイルスで、それが突然変異によってヒト免疫不全ウイルスに変異したと考えられています。どのような経緯で現れたかは様々な説がありますが、最も有力なものが1930年代のアフリカ中部で、サルを食べたチンパンジーがウイルスに感染して混種ウイルスが形成され、そのチンパンジーの肉を食べた人に伝染し広がったというもの。

HIVウイルスを完治させる治療法・治療薬はまだ見つかっておらず、治療によってウイルス量を抑え続けるしか方法はありません。

 

4. スペインかぜ 約4,000万人死亡 (1918年~1920年)

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Photo by Otis Historical Archives Nat'l Museum of Health & Medicine

史上流行したインフルエンザで最も甚大な被害を出したのが、通称「スペインかぜ」。

第一次世界大戦中の1918年にアメリカから流行が始まり、患者数は世界人口の25〜30%で、致死率は2.5%以上、死亡者数は全世界で4,000万、一説には1億人ともいわれています。

1918年3月にアメリカから第一波が起こり、1919年はじめまでに三回の大流行が発生。通常は児童や老人に死亡が多いですが、この時は15~35歳の青年層が最も被害を受け、死亡者の99%が65歳以下でした。当時はインフルエンザウイルスの存在は知られておらず、当然ワクチンなど存在しないため、有効な手立てはなく、学級閉鎖や移動の禁止、マスク着用の義務化などで対応せざるを得ませんでした。

日本も例外でなく、約2,300万人の患者と約38万人の死亡者が出たと報告されています。

 

3. 明末大疫病 約4,000万~5,000万死亡 (1641年~1644年)

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明帝国の息の根を止めたのは李自成の軍ですが、そのきっかけを作ったのはペストの大流行でした。

地球は小氷河期に突入し、中国では作物の不作が長年続き、いなごやネズミの大量発生が起き、人々は充分に食えなくなり、体が弱っている所にネズミが媒介するペストが発生しました。干ばつ、飢餓、ペストにより人々は餓死、病死、自殺していきます。さらには内乱などによって多くの人が殺され、当時の中国の人口は約1億人でしたが、この危機により約4,000万人が死亡したとされています。

首都北京でも住民の約1/4が死亡、北京を守る兵も半分が死に、モンゴル北方を守る3つの大隊も壊滅。馬も大半が死亡して機動力は失われ、兵たちはただ身を横たえるのみ。この混乱に乗じて、北の満州族をはじめ各地で反乱が相次ぎ、その中で李自成が各勢力に先んじて北京を落とし、明帝国を追放しました。

 

2. アメリカ先住民疫病死 数千万人規模で死亡(16世紀半ば)

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スペイン人が新大陸に上陸して後、原住民の多くがスペイン人が持ち込んだ疫病によって死亡したことはよく知られています。当時の新大陸の原住民の人口がよく分かっていないこともあり、どれくらいの人が死んだかあまりよく分かっていません。アステカ帝国の中央メキシコの人口は、1548年に603万人あったのが1608年には107万人に減ったと推定されています。コルテスらがやってきたのは1519年だったので、おそらく1519年から1548年の減少数はもっと多かったはずです。新大陸全体で、超ざっくり、数千万人は死んだであろう、とされています。

新大陸はいわゆる「疫病の処女地」であり、 人々にユーラシア大陸で史上猛威を振るってきた疫病に対する免疫がなく、天然痘、はしか、チフス、インフルエンザといった「ごく一般的」な疫病によって次々と倒れていきました。

原住民の人口が激減したことで、新大陸では労働力が足りなくなり、プランテーション農園や鉱山の資本家は西アフリカから奴隷を連れてきて働かせることになり、今度は大量の人々が連れ去られたアフリカの荒廃を起こすことになります。

 

1. 黒死病 約7,500万~2億人死亡 (1346年~1353年) 

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「黒死病」は感染すると皮膚に黒い斑点がつくから英語で「Black Death」と呼ばれ、それが日本語に直訳された名称ですが、つまるところペストです。

1347年に黒海に面する商業都市カッファで発生し、またたくまにヨーロッパ全体を覆い尽くし、当時のヨーロッパの人口の1/3が死亡したとされ、死者数は全世界で7,500万人から2億人とまで言われています。

黒死病の流行の背景には、モンゴル帝国のユーラシア大陸制覇による物流革命があったとする説があります。モンゴル軍がペストが風土病となっていたミャンマーを攻めた時に感染して中央アジアに持ち帰り、そこから中国本土でペストが流行り、その後東西交易の中で中国から黒海へと渡って、それがヨーロッパ中に広まったというものです。

ペストの病原菌はネズミが媒介し、その病原菌をネズミに寄生するノミが人間に感染し発症します。ユーラシア東西交易の物流の中にペスト菌に感染したネズミが紛れ込んでいたか、ペストを媒介したノミがいたことは充分にありえます。

ユーラシア全体でのペストの流行は、かねてより小氷河期に入って干ばつが続き食糧不足にあえいでいた各地に大打撃を与え、モンゴル帝国の支配は弛緩して地方の分権化と独立が進んでいきます。中国では元がモンゴル高原に追われて明が誕生することになります。

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まとめ

こうして見てみると、パンデミックの発生条件がいくつかあるように思います。

まず、高度に物流が発展して人と物の交流が盛んになり、病原菌が伝わりやすい条件にあること。ついで、気候変動の発生で干ばつなどが起こり深刻な不足が起こり、人々の栄養状態が悪いこと。さらには、明確な感染ルートや原因が分かっておらず、対策が取れないこと。こういう条件下でペストやインフルエンザ、コレラなどが爆発的に流行していきました。

現在は公衆衛生の発達で以前よりはパンデミックのリスクは減ったものの、鳥インフルエンザや豚インフルエンザ、BSEなど、突然変異種で対策の取りようのない病原菌がいつ、どこで起こるか分かったものじゃありません。

自分と家族の身を守るためにも、予防注射や衛生の管理など自分でできることはやっておきたいものです。

 

参考文献

"疫病のグローバルヒストリー -疫病と交易史の接点" 脇村考平 「地域研究」Vol.7 No.2 2006年2月

明末大鼠疫_百度百科

 "History of Cholera" History.com

"Influenza" History.com

 "No.9 インフルエンザの流行史" 国立保健医療科学院

 "Q2. 過去におこったインフルエンザ・パンデミックにはどのようなものがありますか?" 国立感染症研究所 感染症情報センター

 "政治の流れを変えた「天平のパンデミック」~インフルエンザの比じゃない恐ろしさ!" WEB歴史街道

"ヒト免疫不全ウイルス(HIV)感染症" MSDマニュアル家庭版

"HIVの起源は「サルを食べたチンパンジー」か" WIRED