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下層民が救済を求める「千年王国運動」の事例

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ヨーロッパ、南米、南アジアの千年王国運動

 前回の記事では、千年王国運動の起源と世界中への伝播について説明しました。

まだご覧になっていない方はこちらからどうぞ。

今回はいつどのような背景で、どんな運動が起こったかを具体的に説明していきます。

なお、以下に挙げるのはかつて発生した千年王国運動のごくごく一部であることをご承知おきください。

 

1. ミュンスターの反乱(ドイツ)

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 再洗礼派によるミュンスターの支配

再洗礼派(アナパブテスト)は、カトリックやプロテスタントの幼児洗礼を批判し、成人した後の信仰告白による洗礼を行う一派です。幼児洗礼を受けた人物は、再度成人後に洗礼を受けさせるため、再洗礼派と呼ばれます。

宗教改革の流れを受け、1533年2月、カトリックのミュンスター司教の抵抗を退け、ミュンスター市に福音主義体制が確立しました。するとすぐに、市の説教師ロートマンとその仲間が幼児洗礼を批判し始めました。幼児洗礼を批判することは当時は大罪。市はロートマン派の公での説教を禁止したため、説教が行えなくなったロートマン派は地下に潜り、個人の家での布教を始め、市民に急速に広がっていきます。

1534年、オランダ再洗礼派の指導者ヤン・ファン・ライデンとヤン・マティスがミュンスターに到着。再洗礼派は勢いづき、ミュンスターでは再洗礼派とルター派の市民の対立が激しくなりました。一方でミュンスター司教が傭兵を率いてミュンスター市を包囲し巻き返しを図り、これに対し再洗礼派も武装をし抵抗戦を繰り広げました。

同年2月、市参事会選挙で再洗礼派が勝利し市運営の主導権を握り、市民全員の再洗礼を強制しました。反対する人物は市を出ていき、再洗礼派独裁体制が構築されていきます。

 

ミュンスター司教軍によるミュンスター占領

ヤン・マティスはミュンスターは「新エルサレム」であると宣言し、復活祭の終了後に訪れる終末に備え、ミュンスターに集まるようにヨーロッパ各地の再洗礼派に呼びかけました。こうして続々と再洗礼派の信者がミュンスターに集まって来ましたが、指導者のヤン・マティスは復活祭の後にミュンスター司教の軍によって殺されてしまいます。

予言が実現せず、しかも指導者を失った再洗礼派は、新たにヤン・ファン・ライデンを指導者に据えました。ライデンはマティスの死は神の意志であったとして、今後ミュンスターを始めとしてで世界は聖化すると宣言。12長老を指名して寡頭制の指導を開始しました。

市では一夫多妻制が導入され、結婚が義務付けられました。また、その前から富の私有が禁じられ、財産は全て共有性になることが定められ、極端なキリスト教的理想社会の実現が推進されました。

8月31日、ミュンスター司教の軍は再びミュンスターに大規模な攻撃をしかけますが失敗。再洗礼派の指導者ライデンは12長老による指導体制を破棄し、自ら王となることを宣言。市内に王宮を構え、自ら世界を再洗礼派で聖化する正義王であると自称しました。

ライデンはヨーロッパ各地の再洗礼派に呼びかけ、各地で蜂起して市の主導権を握り、軍を結集させミュンスター市を包囲する司教の軍を打ち破るように命じました。各地で再洗礼派による蜂起を起こして軍を展開し、再洗礼派の軍を各地に展開する計画を立てていたのです。しかし、ドイツやオランダ各地で計画されていたクーデター計画は事前に露呈し未遂に終わり、ミュンスターに救援軍が到来することはありませんでした。

翌1535年5月にはミュンスター司教軍の包囲は完全になり、完全にミュンスター市は孤立。市内では飢餓が発生し、市民が次々に市街に逃亡。ライデンは裏切り者を処刑することで籠城を続けようとしますが、6月25日に包囲軍が城壁を突破して市内に侵入。再洗礼派は敗北し、ライデンを始め指導者は処刑されました。


2. プエブロの反乱(メキシコ)

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スペイン人支配に抵抗し、12年間の自治を実現したプエブロ人

プエブロ人は、現在のアメリカ・ニューメキシコ州に住んでいた原住民の総称で、いくつかの部族が含まれます。

プエブロ人はスペイン人征服者の重火器の力の前に敗れ、事実上の農奴の地位に落とされ、古代の宗教を否定されカトリックに改宗させられました。カトリック教会はプエブロ人に対し、食料・教育・技術・芸術など様々な支援を行い、プエブロ人も次第にカトリックの教えに従うようになっていきました。

しかし、スペイン植民地当局が課す賦役・徴税・徴兵は過酷極まりなく、疫病や干ばつも追い討ちをかけ、教会の施しも間に合わないほどプエブロ人の不満が高まり、キリスト教の神は我々を救ってくれないとして、1620年ごろから伝統的な神々への回帰が始まりました。

1632年ごろから断続的に反乱や蜂起が発生。 1675年には47人の指導者が「魔術」と「偶像礼拝」の罪でスペイン当局に逮捕され、 4人は公の面前でロープから吊られ、43人は鞭打ちの刑となりました。

鞭打ち刑を受けた宗教指導者たちは屈辱を感じ、その後プエブロ人の指導者たちと会議を重ねてスペイン人とカトリックを追放するための戦略を練りました。ズニ人とホピス人をはじめプエブロ人の大多数を糾合し、蜂起の日は1680年8月10日開始と決められました。

そして当日、プエブロの戦士6,000人を含む17,000人の反乱勢力は、2,500〜3,000人のスペイン人入植者に一斉に攻撃をかけました。リオグランデ河上流域内のミッション系教会を攻撃し33人の修道士のうち22人を殺し、聖なるアイコンを破壊。農場やアシエンダを攻撃し、家族全員を殺して回りました。スペイン人はサンタフェに逃げこみ、これを追ってプエブロ人はサンタフェを包囲しますが、反撃を受け陥落させるのには失敗。プエブロ人は包囲を解除し、スペイン人はエルパソ・デル・ノルテへ脱出しました。

こうしてプエブロの地は解放され、人々はスペイン人やキリスト教の痕跡をすべて跡形もなく消し去り、かつての宗教と秩序を復活させようとしました。

しかし、宗教指導者や部族同士の対立から内乱が発生し、飢饉も起こり、プエブロ人の内部の結束はすぐに揺らぎ始めました。

1690年にニューメキシコ総督に任命されたディエゴ・デ・バルガスはサンタフェに赴き、プエブロ人に対し再びスペインの支配下とキリスト教の教えに戻るのであれば寛大な処置をするとして、平和的に回復することに成功しました。

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3. ラザレッティ運動(イタリア)

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「共和制と神のイタリア王国」を目指した宗教指導者

 ダヴィド・ラザレッティはイタリア・トスカーナ州の寒村アルチドッソの生まれ。若い頃は不遜な男でしたが、1868年の32歳ごろから改心して宗教者になり、不思議な体験をするようになったと言います。

ある時、ラザレッティ家の祖先であるフランス王の庶子マンフレッド・パラヴィチーノが枕元に立って啓示を与え、ラザレッティはその神秘体験を元にして布教活動を始めました。

彼が生まれた時代はイタリアのレソルジメント運動(統一運動)が熱狂的に推進されていた時代で、1861年にはイタリア王国が成立し、民族主義が高まっていました。その社会的潮流もあってか、ラザレッティは理想的なイタリアの国について神から啓示を得たとされます。しかし実際のところはミラノの司祭オノリオ・タラメッリの影響が大きかったようです。タラメッリは君主制に反対して逮捕された人物で、ラザレッティは彼の思想から「共和制と神の王国」という考えに行き着きました。

1878年8月、ラザレッティと彼の信奉者は公に王政を否定して共和制を求めるデモを敢行しました。ラザレッティは1848年に失敗したローマ共和国の再興ではなく、「神の恩寵の戒律を受け継いだ方の規律による神の王国」を求めました。

ラザレッティはデモの最中に治安部隊の銃弾を浴び、それが致命傷となり死亡しましたが、ラザレッティが訴えたラザレッティ運動は「ダヴィデ主義キリスト教」という名前で長年生き続けました。多くはアルチドッソ村に集まり、ラザレッティを追憶しながら結束を高めました。信者曰く、「ラザレッティは第一次世界大戦とラテン諸国の勝利、そして国際連盟の誕生までを予言していた」とのこと。

ラザレッティ運動の信奉者は、ラザレッティはイエス・キリストの再来であり、審判者としてのキリストの名において、カトリック教会に律法により人々を結集せねばならない」と主張しました。

 

4. カーゴ・カルト(ニューギニア)

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Photo by Tim Ross

ヨーロッパ人が持ち込む積荷(カーゴ)がたくさん手に入るという噂

ニューギニア島を始めとするメラネシア地域は、20世紀初頭までほぼ全域が欧米列強の植民地となりました。同時に、キリスト教の宣教師は人々を「未開な状態から文明化させる」ために積極的な伝道活動を行なっていきます。 その方法は主に、ヨーロッパ人が持ち込んだ物資や富、技術を介してでした。原住民は、宣教師たちが持ち込む品物欲しさにキリスト教に改修していきました。

1893年以降、「カーゴ・カルト」という現象がニューギニアやタヒチなどメラネシア全域で流行しました。ちなみにカーゴとは「積荷」のことで、ヨーロッパ人が持ち込む品物に対する物欲が絡んだ現象でした。噂は以下の通り。

やがて収穫期の南東風が吹くと大地が豊穣になり、ヤムイモやタロイモが豊かに実る。水平線上に死者の霊を乗せた船が現れ、信仰のあつい者は祖先の霊と再開できる。そして、ヨーロッパ人が持ち込む品物がなんでもいくらでも手に入る。皆豊かになれるので、いま飼っている豚は殺して食ってしまっても構わない。畑にあるものも全部食ってしまっていい。

これを信じて人々は仕事をやめてしまい、お祝いの時にしか食べない貴重な豚をすべてつぶして食ってしまいました。

カーゴ・カルトが流行った全域で共通しているのは、ヨーロッパ人のもっている積荷(カーゴ)を満載した船や飛行機がやってきて、それが自分たちのものになるというもので、そのカーゴを迎えるための儀式と称して宗教指導者の下で様々な行為が行われました。例えば飛行機を迎えるための空港を作ったり、船が着岸するための船着場を建設したり。

メラネシアでは、ヨーロッパ人の持ち込む富を作っているのは「自分たちの祖先」であり、その祖先の世界から船や飛行機がやってくると信じられました。ヨーロッパ人の富は自分たちの祖先が作っているものなので、自分たちにも分配されるべきだが、なんらかの理由でヨーロッパ人のみが独占している、と考えられました。

のちに太平洋戦争が起こった時は、日本軍はカーゴ・カルトを利用し「自分たちの言うことをきけば豊かな生活を送れる」と宣伝したので、一部の地域では人々は熱狂的に日本軍を向かい入れました。

 

5. サヤー・サンの反乱(ミャンマー)

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「税のない社会」を目指したビルマの農民反乱

ビルマは1886年に全土がイギリス領インド帝国の一州「ビルマ州」となり、インド本土への食料と燃料の補給基地として経済開発が進んでいきました。インドから農業移民が送り込まれて新たな農地が開拓され、生産高は向上していきました。

一方で、インド移民が増加して小作料が上昇し農業賃金が低下。急速な開発で余剰地が減り、国際的なコメの価格も下落し、ビルマ人農民は疲弊していました。また、植民地化と近代的な法体系の導入、キリスト教の流入で伝統的な社会や価値観が破壊され、伝統的な共同体の復活が求められるようになっていきます。

1910年代以降、下ビルマを中心にビルマ人地主が小作に、ビルマ人小作が農業労働者に転落する農民の下向分解現象が起き、土地なし農民が全体の40%を占める県が現れるようになり、経済格差が大きく拡大していきました。さらに1929年以降の世界恐慌からの世界的な米価格の下落が貧しい農民たちに追い討ちをかけました。

1930年以降、下ビルマ一帯で大規模な農民反乱が発生しますが、その代表的なものがターヤワディ県で蜂起した僧侶サヤー・サンの反乱です。

サヤー・サンはビルマ農民が苦しむ人頭税に反対して、自らを転輸聖王(セッチヤミン)と宣言して即位式をあげ、「ガルダ王」(ガロンーヤーザ)と号して反乱を起こしました。

彼らはイギリスによって押し付けられた国家を無慈悲な体制として拒絶し、政府が課す税に反発し「税のない社会」を求め、村役場を襲って帳簿を焼き払いました。また、イギリスの「走狗」である村長やその取り巻きも暴行されました。

サヤー・サンらは慈悲でもって統治する仏教王国を再興するとし、下ビルマ一帯の農民らを糾合しました。イギリス植民地当局は竹槍と刀で武装したこれらの反乱軍に対し、近代的武力でもって封じ込めようとしましたが、それでも反乱の鎮圧に1年間を要しました。

 

6. ピー・ブンの反乱(タイ)

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貧しいタイ東北部に起こった千年王国運動 

タイ東北部(イーサーン)は長年人口が希薄な非開拓地域でしたが、1826年のヴィエンチャンの反乱の戦後処理の一環でラーオ人が大量に移住させられました。イーサーンはラーオ人の労働集約的な開拓によって開発されましたが、バンコク政府の補助は少なく、水利に恵まれず天候に左右された不安定な農業を生業とし、恒常的な貧困に苦しめられました。そのような歴史からラーオ人はバンコクを中心とするタイ人に対し被征服民・隷属民としての劣等感と被害者意識を持っています。

さらに1893年10月のシャム・フランス条約によってタイはメコン河左岸を割譲させられ、右岸についても岸から25キロは武装化が禁じられ、イーサーンでのタイ政府の威信は失墜していました。

1902年、「ピー・ブン(プー・ミー・ブン)」と名乗る白衣の行者がイーサーンに現れ、人々を集団ヒステリーに陥らせ、信徒集団を形成しました。ピー・ブンはイーサーン州のみならず、ウドン州、ナコンラーチャシーマー州など東北タイ各地に出現しあした。

ピー・ブンはいずれも修行に長け奇跡的な能力を身につけ、「ナンモン」と呼ばれる霊水を生成する呪法に長けたとしました。彼らは民衆の前で様々な「奇跡」を示して人々を糾合し、己の罪を清め、来るべき呪いの日に備えよ、と説きました。

その呪いとは様々なバリエーションがありますが、おおよそ以下の通り。

「ラタナコーシン歴120年(1902年)3月か4月に大異変が起きる。この時、金銀はすべて砂礫になり、ラテライト中の砂礫が金銀に変わる。豚と水牛が鬼になり人々を喰らう。冬瓜やかぼちゃが象や馬になる。そして『ターオ・タンミカラート』がこの世に降臨する。死を恐れる者はこれまでの罪を洗い清め、豚や水牛を殺して食え。若い娘は鬼に食われる前に早く結婚せよ」

この噂は急速に広まり、東北タイ全体で人々が豚や水牛を殺し、砂礫を集め始めたのです。イーサーン州の州都ウボンでピー・ブンを名乗ったのはオング・マンという行者で、ラオス出身のラーオ人でした。オング・マンは古邑ケマラートで様々な奇跡を起こして1,000名もの信徒を集め、州都ウボンに攻め上がろうとしました。バンコクのラーマ5世の異母弟サンバシット・プラソング親王は100名からなる討伐軍を編成し、オング・マンの一味を壊滅させました。

1902年はこのようなピー・ブンが各地に発生し、イーサーン州で43名、ウドン州で54名、その他にも20名のピー・ブンが摘発されました。

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まとめ

 千年王国運動のような、祈りや儀式によって奇跡の発露を求め、現世における即座の救済と理想郷の設立を求める考えは、現在でも新興宗教で数多く見られます。

まもなく世界は滅びるが、教えを信ずる者だけが救われて極楽へいける、といったものです。

そのような非科学的な教えを笑い飛ばすのは簡単ですが、実際にそのような教えにすがらないといけない人たちをどうやって救っていくかを考えて実行していかないといけないのだと思います。

 

参考文献・サイト

 「 タイにおける千年王国運動について」 石井米雄 東南アジア研究(1972) 京都大学学術情報リポジトリ

 「新版 世界各国史27 オセアニア史」 山本真鳥 山川出版社 2000年8月20日第一刷

「A.グラムシ『サバルタン・ノート』関連草稿について 松田博 立命館産業社会論集 2010年9月

 "Pueblo Rebellion" DesertUSA