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伝説的インド人クリケット選手と「英国スゴイ神話」

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イギリス人に愛されたインド人選手、クマール・シュリ・ランジットシン

インドはクリケットの強豪国で、2019年現在、イングランドに次いで世界ランキング2位です。

インドではクリケット・ワールドカップは大変な盛り上がりで、みんなテレビにかじりつき、インド代表の試合中はあらゆる街の機能がストップするそうです。インド代表がライバルのパキスタン代表に敗れると、怒りのあまりテレビをぶっ壊す奴が全土で続出するため、試合後はテレビ需要が高まるという嘘みたいな話もあります。

さて、そんなクリケット狂インド人のクリケットの先駆者的な存在が、20世紀初頭にイングランドで活躍したクマール・シュリ・ランジットシンです。彼は初めてイングランドの代表になり、イギリス人のチームメイトのみならず、ファンからも大変愛された男です。

ランジットシンの生涯からは、当時のイギリス人のインド人観、そしてエリートインド人にとって大英帝国とはどんな存在だったかが見えてきます。

 

1. ランジットシン、クリケットに出会う

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クマール・シュリ・ランジットシンは1872年9月10日に、現在のグジャラート州カチャワル州西部のサロダールにて、ラージプートの武将の家系に生まれました。

当時カチャワル地方を治めていたナーワナガル藩王国の王ヴィブハジは世継ぎの男子がおらず、部下の武将ジャラムシンの子を養子にとって跡を継がせようとしました。しかし、一年とたたずにその子が宮廷で毒殺されてしまったため、王はさらにジャラムシンの孫で当時7歳のランジットシンに白羽の矢を立てました。ジャラムシンはナーワナガル藩王国の王位継承者となったわけですが、再び毒殺が起きることを恐れた王はジャラムシンをラージクマール・コレッジという寄宿生の学校に送ることにしました。

ラージクマール・コレッジの学生はほぼ全員がインドの藩王の子息たちで、「民のためを思う為政者となり、正直なジェントルマンかつ帝国の忠実の臣民である人物を育てる」ことを最大の目標としていました。教育はすべて英国式で、特にフットボールやクリケットが重視され、それらの球技を通じて勇気や自制心、団結心、忠誠心、責任感などを身につけることを目指しました。

ランジットシンは8歳でラージクマール・コレッジに入学。優秀な学生で、特にスポーツではクリケットやテニスなどの競技で学内でトップクラスでした。1888年、タージクマール・コレッジから3人生徒を選抜してイギリスで高等教育を受けさせることになり、ランジットシンはそのうちの一人に選ばれました。

残りの二人のうち一人は後に法廷弁護士となるシホール藩王国のクマール・シュリ・ラムシン。もう一人はジャズダン藩王国のクマール・シュリ・マンスールカチャールでした。

こうしてランジットシンはイギリスに渡ることになるのですが、故郷のナーワナガル藩王国では事変が起きていました。側室の一人がヴィブハジ王の男子を生んだのです。この結果、ランジットシンは王位継承権順位一位の座から落ち、将来の立場が約束されない状態でイギリスに行くことになったのでした。

 

大英帝国の絆を深めるクリケット

ヴィクトリア朝時代のイギリスでは、上流階級の男は世界各地に赴いて統治を担う故、熱帯や亜熱帯の激しい気候に耐えられるように体が頑強でなくてはいけないと考えられていました。そのためフットボールやテニスなどさまざまなスポーツが奨励されたわけですが、中でもクリケットは特別なものでした。

剛速球の打球に立ち向かうバッター、飛んでくる硬いボールを素手で掴む守備。しかし試合の合間にティータイムの時間があったりもして、男らしさと優雅さを兼ね備えた「イギリス紳士」らしいスポーツと考えられました。

クリケットは本国人と植民地人との文化的交流を通じて絆を深めるためにも用いられました。1861年からはオーストラリアとの「テストマッチ」が始まり、以降毎年英豪のどちらかで試合が行われるのが恒例行事になりました。1877年にイングランド代表がオーストラリア代表に敗れたニュースは衝撃的に伝わり、当時の新聞紙が「イングランド・クリケットは死に亡骸は火葬されてオーストラリアに送られた」と書いたことから英豪戦を「アッシュ(灰)」と呼ぶことが恒例化しました。

20世紀に入るとオーストラリア以外にも、南アフリカ、西インド諸島、ニュージーランド、インドとの現地イギリス人との間でもテストマッチが行われるようになり、この試合は現在まで続いています。

イギリス人にとって植民地とのテストマッチは、大英帝国の地域の交流であると同時に、「温暖な地域に移り住んだイギリス人の北方の血が退化してないか」を試すという「テスト」であったのです。

 

2. イングランド代表選手へ

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イングランドに渡ったランジットシンは本格的にクリケットに打ち込み、めきめき成長し、トリニティ・コレッジ在籍一年で「ライト・ブルー(ケンブリッジ代表)」に選ばれます。 翌年にはチームのキャプテンに選ばれました。インド人がこのような伝統ある役職に選ばれるのは前代未聞でした。

ランジットシンはますます活躍し、1895年のシーズンではサセックス・チームのメンバーとしてあげた1766打点、一試合アベレージ50打点強という成績は、当時のトップクラスの選手に並ぶもので、翌年には打点で歴代記録を塗り替える活躍をしました。

普通に考えると、ランジットシンはイングランド代表となりテストマッチに出場するべき逸材でしたが、植民地インド出身の選手がイングランド代表になるなど前例がなく、1896年のテストマッチ第一戦目にはランジットシンは選ばれませんでした。

この決定には「西洋の思想で東洋を開化させる」ことを使命と考えるメアリーボーン・クリケット・クラブのハリス卿の意向が強く働いていました。彼はインド人に「イギリス人的な開化精神」を植え付けるためにインド人がクリケットをプレイすることには積極的でしたが、インド人であるランジットシンが他のイングランド人を押しのけて代表選抜選手になることには強硬に反対しました。

しかし、彼の決定に批判が殺到します。

ランジットシンのような優秀な選手を出さないで一体どうするのだ、と。

ファンの猛烈な抗議を受けて第二戦からはランジットシンは試合の出場を果たし、イングランド代表として試合に出場。一試合216打点をあげ、彼の活躍のおかげで敗色濃厚だったイングランドチームは奇跡の勝利を得たのです。

東洋から来たスタープレイヤーに、イングランド中のクリケットファンは熱狂し、ランジットシンを大いに讃えたのでした。

一方で彼の故郷では、藩王ヴィブハジが他界し、側室の子が王位を継承。故郷からランジットシンへの援助は激減し、彼のイギリス滞在は借金と後見人による援助によりまかなわれる状態でありました。

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3. 大英帝国のインド支配の成功の象徴

ランジットシンは根強い東洋人に対する偏見と差別を受けていましたが、どちらかというと彼を称える声や「イギリスとインドの友情のシンボル」を語る言説がほとんどでした。

ランジットシンが初めて「アッシュ」を戦った後、彼を称える晩餐会が開かれ、ケンブリッジ市長や州知事、州長官、国会議員らのお偉方も多数出席するほどでした。イングランドのファンも熱狂的に「ランジ」を讃え、ランジの肖像はタバコやマッチ、整髪料、サンドイッチのパッケージに描かれさえしました。

このようなイングランドの人々の熱狂に対し、ランジットシンは晩餐会の席上で以下のようにコメントしています。

私は、クリケットは大いに奨励するに値するものだが、それはたんに優れた娯楽であるからだけではなく、女王陛下の臣民のあいだに好意的感情ををもたらすからである、と言いたいのです。……私は、女王陛下のインド臣民が、過去において間違った行いをしてきたと信じます。しかし、もしそうであっても、その頃の彼らの経験は過ぎ去り、そして忘れ去られるでしょう。そして、イギリスとインドは、ひとつの統一された国家を形成し、共通の的に対する共同戦線を示す準備をし、他のすべての国々からの称賛と羨望の的となるでしょう。

ここで言う 「間違った行い」とは、1857年に起こったインド大反乱(セポイの乱)のことを指しており、ランジットシンはインド民衆の反乱を間違いであったと断罪し、イギリスのインド支配を称賛するのです。

そのようなランジットシンをイギリス人は大いに賛辞を与えました。雑誌「パンチ」1986年9月11日号に掲載された「黒いプリンスのオード」の一部。

プリンス・ランジット。彼は西に向かって進撃してきた。出身地たるボンベイの片隅から、ケンブリッジの川辺に向かって。そして彼は栄光に満ちたゲームにおいて、王冠を戴いた。グレイスとストダーツという、フランネルを着た西洋の男たちが、すべての男らしい娯楽のなかで最も誇らしく、最も高貴で、最高のものであると宣言した、そのゲームで。……「ランジ」という響きはクリケッターらしい音となり、スリムな浅黒い王子の姿ほど、「フォーム」の鑑定家を楽しませてくれるものはない……ジョンブルでなくとも、サセックスの希望。彼が現れたケンブリッジの誇り。……断じて黒い打者は飛んでいったりはしなかった。そしてすべてのイギリス人は、彼がそうしないことを願っているのだ。なぜならわれわれは、「ランジ」がわれわれのものであることを考えるのを愛するから。……クリケットの黒いプリンス、ランジットを、われらとともにあらせたまえ、そしてよい仕事をさせたまえ!

このようにイギリス人はランジットシンを愛したわけですが、それは彼が「神秘の国・東洋のプリンス」である、オリエンタリズム的なイメージが強く働いていました。

 

4. 「神秘の東洋」としてのイメージ

デイリー・テレグラフ紙でランジットシンはこう書かれました。

イングランド人が愛し、理解したひとつのフィールドにおちえ、ふたつの大陸を結びつけることによって、それらに高貴なる貢献をなしたのである。東洋から昇る星のように、彼はクリケット界に忽然と姿を現した。……しなやかな、体格のしっかりとした、浅黒いヒーローがテントから現れると、いつでも怒涛のような歓声があがった。……パンサーのごとく優美な動き。褐色のなめらかな肌の下には細いが鋼鉄のような筋肉。手首はインドのジャングルを追う爬虫類のごとく柔軟かつ強靭。黒い瞳はバウンドするボールのあらゆる回転と変化を見極める。そうして彼は、クリケットを身に着け、それを東洋の詩的な動きへと変えた。

ランジットシンが藩王国のプリンス(マハラジャ)である、というイメージも好意的に働きました。東洋の「神秘的」「不思議な」「魔術」といったキーワードとともに、極めて抽象的なインドという国のオリエンタリズム的なイメージが語られています。

当時のクリケット・ライターのネヴィル・カーダス(Neville Cardus)はランジットシンのプレーを回想して以下のように書きました。

「ランジ」は、彼のチーム全体に魔法をかけた。私たちは、彼の東洋的才気の中にその光を見た。

ランジットシンの褐色の肌や目、イギリス人とは異なる身体という視覚情報もありつつ、彼がインドから来たマハラジャであるという事実が漠然としたオリエント的イメージと重なって語られました。イギリス人にとって「ランジ」は、「我々」でありつつ、「不思議な異邦人」であり、もっと言うと「イギリスにインテグレートされた話のわかる異邦人」でありました。

日本でも、日本文化に詳しかったり、武道に精通した外国人がもてはやされますが、ああいう感じかもしれません。結局、大部分の人にとっては、外国人というフィルターを通して自分たちの文化の優位性を確認しているに過ぎないわけです。 

 

5. インド帰国後のランジットシン

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ランジットシンは1904年まで9年間サセックスでプレーし、前王の死に伴い1906年にインドに戻って藩王になりました。しかしその後も何回かイギリスに戻ってクリケットをプレーしています。

藩王となったランジットシンは、行政・財政改革を推し進め、腐敗した官僚を追放し歳出を削減し、鉄道や灌漑施設、港湾施設、下水道などの王国内に積極的なインフラ投資をしました。一方で、削減分以上の財政出動を行ったため財政は悪化。彼自身の私的な趣味である宝石や馬の購入のためのお金の使用も財政悪化に影響を与えました。さらに彼は、サセックス時代の同僚を招いて顧問に据えたりしています。1920年にはランジットシンは国際連盟のインド代表団三人の一人に選ばれています。

基本的に彼の統治は王国の住民のためというよりは、大英帝国の一員として望まれることをやった、という感じです。そんな中で、イギリスが選ぶ理想的なインド人代表となり、彼自身もそうあることを望んでいました

彼は1932年に亡くなりましたが、生涯一度もインドでクリケットをプレーしたことはありませんでした。

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まとめ

 ランジットシンはインドの支配層でありましたが、おおよそ当時のインドの支配層は大英帝国臣民としてイギリスの支配に飲み込まれ、意識的にはランジットシンに近いものがあったのだろうと思われます。

 しかしその後に出てきたのは、支配階級出身でありつつ民衆の側に立って独立を求めた男、マハトマ・ガンディーです。

ランジットシンの物語はインドの歴史というよりは、大英帝国の文脈とそれを共にする人々の一種の「神話」であるように思います。

 

参考文献

近代ヨーロッパの探求⑧スポーツ 第8章フィールドのオリエンタリズム 石井昌幸 ミネルヴァ書房 2002年5月25日初版第一刷発行