失政や敗戦で悪名高いビザンツ皇帝
前記事では、ビザンツ皇帝の名君を紹介しました。
翻って今回は、歴代の悪帝をピックアップしてみます。
前回と同じく、テオドシウス帝以降の皇帝で悪帝と言われる皇帝たちです。
1. フォカス(在位:602年~610年)
内外で混乱を引き起こした帝位簒奪者
フォカスの若い頃の詳細はよく分かっておらず、ビザンツ軍の一介の下士官にすぎませんでした。602年、軍は皇帝マウリキウスのドナウ川での越冬命令と賃金ダウンに抗議して反乱を起こし、フォカスはこの反乱軍で頭角を表し、コンスタンティノープルに進軍し皇帝を捕らえて処刑。兵の推挙でフォカスは皇帝に就きました。
しかしフォカスは一部の軍にしか支持基盤がなく、特に都の官僚や市民、地方の軍団は彼を信頼していなかったため、政権の安定策として前皇帝の行政スタッフや軍団長を処刑して自分の親戚を据えました。
そのため各地でフォカスに対する反乱が起き、その混乱に乗じてアヴァール人、スラブ人が次々と国境を超えてきました。608年にカルタゴ総督ヘラクレイオスが軍事蜂起し、同名の息子ヘラクレイオスは船でカルタゴから首都コンスタンティノープルに向かい、別働隊として従兄弟のニケタスがエジプトに向かいました。フォカスはシリア駐留軍をエジプトに向かわせますが、シリアがガラ空きになったことでササン朝ペルシアが「皇帝マウリキウスを討った輩を討伐する」名目で侵攻を開始(ビザンツ・ササン戦争)。帝国が大混乱する中、首都の官僚や市民はヘラクレイオスに内通し城門を開け放ったため、ヘラクレイオス軍はやすやすとコンスタンティノープルに侵入しました。フォカスは捕らえられて処刑されました。
2. ユスティニアノス2世(在位:685年~695年、705年~711年)
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偉大な皇帝ユスティニアヌスを目指した男
ユスティニアヌス2世はその生涯で2度皇帝に就き、2度反乱を起こされています。
1度目の統治の時は、ウマイヤ朝の内紛のためアラブ人の攻撃がゆるんだため、スラブ人の侵入に苦しむバルカン方面への遠征を敢行しました。といっても海岸沿いにコンスタンティノープルからテッサロニケまで行軍しただけで、戦闘らしい戦闘はありませんでしたが、ユスティニアヌス2世は偉大な勝利を記念して、偉大な皇帝ユスティニアヌスと同じ「勝利者」の称号を望みましたがさすがに無理で「平和をもたらす者」という称号に落ち着きました。
彼は様々な面でユスティニアヌスを模し、大規模な建築事業を行い、アジアへの遠征も積極的に行ったため財政状況が悪化。不満が高まり、とうとうクーデターを起こされ鼻を削がれて追放されました。
ビザンツ帝国では、皇帝は五体満足な者でないといけないとう不文律があったため、捕まった皇帝は目や鼻を潰されるケースが多かったのですが、ユスティニアノス2世はしぶとく、黄金の鼻のマスクをこしらえて復位しました。
2度目の統治でも積極的に対外遠征に打って出ますが、ブルガリアにもアラブ人にも敗北。内政面ではかつての失敗を踏まえ、政敵を徹底的に弾圧しました。ケルソンの街が反乱を起こし、反乱を鎮圧するために送られた軍も寝返りコンスタンティノープルに侵攻。都はあっけなく陥落し、ユスティニアノス2世はアナトリアに逃げますが捕まって殺され、首はさらしものにされました。
3. テオドシオス3世(在位:715年~717年)
反乱軍が擁立した無能な「お飾り皇帝」
テオドシウス3世はもともと、地方のしがない徴税役人でした。
しかし、皇帝アナスタシオス2世に対して反乱が起きた際に、どういうわけか地方(テマ)反乱軍の対立皇帝に担ぎ上げられ、しかもこの反乱が成功して皇帝アスタシオス2世が失脚したために皇帝に就任してしまいました。そのため他の地方からの支持がなく、アラブ帝国が侵攻してきて敗北してしまうと、すぐにその統治能力を疑われてテマ・アナトリコン長官のレオーンによって退位させられました。
レオーンはレオーン3世として即位し、内乱で疲弊した帝国の再建に乗り出すことになります。
4. ロマノス2世(在位:959年~963年)
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狩猟しかしなかった皇帝
ロマノス2世は父コンスタンティノス7世の死後に皇帝に就きました。背が高く大変美男であったそうです。
彼の統治下では961年、将軍ニケフォロスによってイスラム教徒からクレタ島を奪還することに成功。内政面では宦官のヨセフ・ブリンガスの主導で統治システムの整備が行われ、安定した統治が行われました。
一方でロマノス2世は政治や遠征は部下たちにまかせっきりで、自分はほとんど仕事をせず趣味の狩猟にふけっていました。
死亡原因も狩猟中に負った傷が原因で、彼の死後は統治を支えた将軍ニケフォロスと宦官ブリンガスがロマノス2世の子どもを擁立して内乱に突入。ニケフォロスがニケフォロス2世フォーカスとして皇帝に就任するに至ります。
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5. コンスタンティノス8世(在位:1025年~1028年)
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皇帝職にやる気がなくずっと遊んで暮らした男
コンスタンティノス8世はロマノス2世の末子で、人生の大半を娯楽や乗馬、狩りをしてすごし、公務らしい公務はほとんどやらずに、苦労なくずっと楽しく暮らしてきた生粋のボンボンです。
皇帝に就任した時はすでに60歳を超えていたため、今さら意識を改めて皇帝職に取り組むことなどできませんでした。彼は皇帝就任から死までの短い3年という間、これまでの生活と同じようにずっと遊んで暮らし、遠征もせず、法も作らず、教会も建てず、本当に一切何もしませんでした。
後継ぎを作ることさえしていなかったので、死の間際に娘のゾエに婿をとらせて新たな皇帝に任命して死にました。
コンスタンティノス8世の統治は「ビザンツ帝国の終わりの始まり」「統治システムと軍事力の破壊」と散々に形容されています。
6. ロマノス3世アルギュロス(在位:1028年~1034年)
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妻と浮気相手に殺害されてしまった官僚出身の皇帝
コンスタンティヌス8世には男子がなく、3人の娘のうち次女のゾエに夫を迎えて帝位を継がせることにしました。候補は2人いましたが、貴族や官僚、宦官らの様々な思惑が入り混じる中で、最終的に高齢のコンスタンティノープル市総督ロマノス・アルギュラスがロマノス3世として皇帝に就任しました。
ロマノス3世はもっぱら行政官としてキャリアを積んできた人で、前皇帝コンスタンティノス8世と違ってやる気はありました。古の皇帝マルクス・アウレリウスとトラヤヌスに憧れ並ぶことを目指したのです。
軍事の面ではトラヤヌスを目指すも、彼自身軍務の経験はなかったため、シリア方面でイスラム軍に大敗してしまいます。文化面ではマルクス・アウレリウスを目指し、教会や聖堂の大規模な建設を行いますが、これが帝国の財政の破綻を招くことになってしまいます。そのため緊縮財政を敷き、 妃ゾエの出費に極度にケチになったために夫婦関係が悪化。ゾエはミカエルという愛人を宮廷に連れこむようになります。
ロマノス3世の最期は悲惨で、妃ゾエと浮気相手のミカエルに入浴中に襲われ溺死させられてしまいました。
7. ミカエル5世(在位:1041年~1042年)
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名君バシレイオス2世の血を引くゾエを蔑ろにして失脚
ミカエル5世は皇帝ミカエル4世の甥で、血縁で皇帝になった人物。
ミカエル4世は、もともとロマノス3世の宮廷の実力者で、宦官のヨハネスの弟で、大変な美男であったそうです。この色男にロマネス3世の妃ゾエは恋をしてしまい、夜な夜な密会を重ねることになります。
そうしてヨハネスはゾエをたぶらかし、皇帝ロマネス3世の殺害を敢行。そうしてゾエの意向という大義名分のもとで、ミカエルはミカエル4世として皇帝に就任しました。皇帝に就任するや、ミカエル4世はゾエに見向きもしなくなり、あろうことか大奥に監禁するようになります。しかし持病持ちだったミカエル4世は病気が悪化し間も無く死亡。皇帝の座を甥であるミカエル5世に譲りました。
ミカエル5世は、叔父の妻であるゾエの存在によって自分の皇帝の座があることを理解せず、自分の能力を過信してゾエを宮殿から追放し、自らの政権を作り上げようとしました。しかしゾエの追放という暴挙に市民たちが蜂起して大規模な暴動に発展。求心力を失ったミカエル5世は皇帝の座から引きずりおろされ、群衆の目の前で目をくり抜かれ、修道院に放り込まれました。
8. ミカエル7世ドゥーカス(在位:1071年~1078年)
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領土の1/4を失った皇帝
1071年、ロマネス7世がセルジュク・トルコと開戦するも、マンツィケルトの戦いで大惨敗し、皇帝自身も捕虜になります。この敗戦は皇帝と対立していた貴族アンドロニコス・ドゥーカスが了承なしに軍を撤退したことにありました。ドゥーカスはコンスタンティノープルに戻り、皇帝の妃エウドキアに「皇帝が死んだ」と報告。エウドキアは息子のミカエルをミカエル7世として帝位に就けました。
しかし実はロマネス7世は死んでおらず、独自にトルコ人と講和を結んで帰国。ミカエル7世への相続を拒否するも両目を潰されてしまいます。これに怒ったのはセルジュク・トルコで、約束が反故にされたとして1081年からアナトリアへの本格的な侵攻を開始し、ほぼ全域を制圧してしまいます。その混乱に乗じて、西からはノルマン人ロベール・ギスカールがバルカンに攻め込み、帝国内部では軍部による反乱が起き、大混乱状態に突入しますがミカエル7世はこれらを制圧することができず、反乱軍の要求に応じて退位し修道院に入りました。
ミカエル7世は「領土の1/4を失った」という意味の「パラピネケス」というあだ名でも知られています。
9. アンドロニコス1世コムネノス(在位:1183年~1185年)
皇帝独裁に陥って殺された男
アンドロニコス1世は名君マヌエル1世の従兄弟にあたる男で、マヌエル死後に幼帝アレクシオス2世を殺害して帝位に就きました。
アレクシオスは危機にある帝国を復活させるべく、好き勝手に振る舞う貴族・官僚を統制しようと不正への処罰を厳しくしますが、思ったより成果が出ませんでした。焦りからか、些細なことでも有力者の罪をあげつらって監獄にブチ込んで処刑をするようになってしまいます。
貴族たちは南イタリアのノルマン人に助けを求め、これ幸いと乗り込んできたノルマン軍が帝国に侵入。ビザンツ軍は対ノルマン防戦にかかりっきりになります。そんな中、1185年に貴族の反乱が発生して大暴動に発展。軍は対ノルマン防戦で出払っており、アンドロニコス1世は暴動に対処できずに帝位を捨てて、ロシアに逃げようとしました。しかし興奮した市民に見つかって捕らえられ、なぶり殺しにされました。
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まとめ
良いタイミングで皇帝になっていれば名君になれたかもしれない、という人もいますが、どう考えても無能な皇帝というラベリングは免れないだろうという人もいます。もともとヤル気がない皇帝も結構いますよね。
ビザンツ帝国の歴史の面白さは、栄華と混乱が押しては引く津波のように入れ替わり、なんだかんだその伝統と格式の力で1,000年近く維持されるところにあります。その理解しがたさから日本人にはあまり人気がない分野ですが、一度本を取ってみることをお勧めします。おもしろいです。
参考文献
世界の歴史11 ビザンツとスラヴ 井上浩一,栗生沢猛夫 中央公論社 1998年2月10日初版印刷 1998年2月25日初版発行