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ビザンツ帝国の名君列伝

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 領土を広げ、財政を健全化させた名君たち

ビザンツ帝国はいつから成立したか、というのは難しい問題です。

ディオクレティアヌス帝がローマ帝国を東西に分けた時から。

コンスタンティヌス帝が都をローマからコンスタンティノープルに移した時から。

テオドシウス帝が息子たちに帝国を東西に分けて相続した時から。

など複数の説があります。ビザンツ帝国はローマ帝国の延長上にある国家なので、どれが正解ということではなく解釈の問題です。

今回はビザンツ帝国の名君と呼ばれる人のピックアップなのですが、テオドシウス帝以降の皇帝で名君と呼ばれる人たちをピックアップしていきたいと思います。 

 

1. ヘラクレイオス(在位:610年〜634年)

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Image by Classical Numismatic Group

 ササン朝ペルシアとの戦いに勝利した皇帝

ヘラクレイオスはカルタゴ総督の父を持つ貴族でしたが、暴君フォカスの政治に対して父である大ヘラクレイオスが蜂起。息子ヘラクレイオスは軍を率いてカルタゴから船に乗ってコンスタンティノープルに攻め入り、フォカスを倒すことに成功します。

人々の歓喜に迎えられたヘラクレイオスは610年に皇帝に就任しました。

しかし、この内乱のゴタゴタに紛れてササン朝ペルシアが国境を越えて侵入。シリアが侵され、エルサレムが陥落し、エジプトも占領され、イエス・キリストの磔刑に使われたという聖遺物の十字架も持ち去られました。

 ヘラクレイオスはあまりのショックにしばし無気力状態となりますが、しばらく後に気力を取り戻して軍を興し、ニネヴェの戦いでササン朝に勝利。さらには首都クテシフォンに攻め入り降伏させました。失われた領土と聖遺物を取り戻したヘラクレイオスは、首都コンスタンティノープルに戻り大規模な凱旋パレードを開いたのでした。

その栄光の一方、勃興するアラブ帝国軍に敗れ、シリアとパレスチナを奪われています。

 

2. コンスタティノス5世(在位:741年〜755年)

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Worked by  Classical Numismatic Group, Inc.

 「糞野郎」とあだ名された軍人皇帝

コンスタンティノス5世は聖職者や宗教保守派から大変嫌われた皇帝でした。というのも、父レオン3世が始めた聖像破壊運動をさらに徹底させ、教会資産の没収を通じて権力の強化を図ったためです。教会関係者は、コンスタンティノス5世が幼い頃洗礼を受ける際に糞をもらして洗礼盤を汚してしまったエピソードから、皇帝を「糞野郎」と罵りました。

しかしコンスタンティノス5世はテマ(軍管区)制の改定を行い、地方のテマから将兵を引き抜いて中央軍団を創設し、ウマイヤ朝に対して反転攻勢をかけて北シリアを回復。またアルメニアやブルガリアにも侵攻しました。コンスタンティノスの軍事改革によって地方のテマ長官が配下の軍勢を率いて反乱するような事態はなくなりました。

 

3. ニケフォロス1世(在位:802年〜811年)

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Photo by Panairjdde

 財政改革を成し遂げた財務官僚出身の皇帝

ニケフォロス1世は年代記作者テオファネスに糾弾され、実際に当時の民衆には大変嫌われた皇帝でした。なぜかというと、ニケフォロス1世は厳しい財政再建政策を採り、民衆から容赦無く税金を徴収したからです。

 具体的には、税額改定、免税の取り消し、教会・修道院への課税、相続税への課税など。これらの政策は「十大悪政」という名でテオファネスによって批判されていますが、他にも「村の財政で村出身の軍役の費用を負担させた」「素人に無理やり土地を割り当てて課税させた」「急に豊かになった者を宝の発見者とみなして課税する」など。その他にテオファネスはニケフォロス1世の非道ぶりを示すエピソードとしてこのような逸話を記しています。

 かなり儲けたという噂の蝋燭商人がいた。皇帝は彼を呼び出し、財産がいくらあるかを尋ねた。商人は畏れおののいて、金100ポンド(金貨7,200枚)ですと正直に答えてしまった。ニケフォロスは「おいお前、そんなに持っててもしょうがないだろう。私と一緒に食事をしたら、金貨100枚だけ持って家に帰るがいい」こう言って商人の財産を巻き上げてしまった。

当時の人には評判が悪かったのですが、財政改革に成功してマネーを効率よく投資に回し、ビザンツ帝国の経済発展に貢献したと現代では高く評価されています。 

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4. ニケフォロス2世フォーカス(在位:963年〜969年)

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イスラム軍を倒した武人皇帝

ニケフォロス2世はイスラム教徒との戦いにその生涯を費やした軍人皇帝で、彼の登場によってビザンツ帝国の軍人皇帝時代が始まりました。

ニケフォロス2世は前皇帝ロマノス2世に仕える将軍でしたが、擁立された幼帝バシレイオスとコンスタンティノスの摂政の地位を巡って宦官のプリンガスと内乱が勃発。これに勝利したニケフォロスは、幼い皇帝たちの母テオファノと結婚し皇帝に就任しました。ニケフォロスはイスラム教徒への対外戦に打って出て、アレッポ、タルソスを陥落させて、さらには五本山のひとつアンティオキアを取り戻し、ビザンツの人々の熱狂的な歓喜を浴びました。凱旋するニケフォロスに対して市民たちは

おお、明けの明星が昇り始めた。朝の星が昇る。彼の瞳に太陽の光が輝く。その前ではサラセン人も恐怖に蒼ざめて死ぬ。皇帝ニケフォロス!

という歌を歌って皇帝を讃えました。

 

5. バシレイオス2世(在位:976年〜1025年)

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「ブルガリア人殺し」の異名を持つ皇帝

バシレイオス2世は壮絶なブルガリア征服戦争で名高い皇帝です。

国王シメオンとペタル1世の下で強大化するブルガリアに対し、バシレイオス2世はスヴャトスラフ1世のキエフ・ルーシと結び、南北からブルガリアを圧迫。キエフ・ルーシに東ブルガリアを攻めさせ、バシレイオス2世はにしブルガリアを攻撃。1014年の戦いでは15,000人のブルガリア兵を捕虜にしました。バシレイオスはこれらの捕虜を100組ずつに分け、1人だけ片目を潰し、残りの99人は両目を潰し、片目の男に道案内をさせてブルガリア王の元に送り返しました。両目が潰れた大量の捕虜がヨタヨタと故郷に戻ってくる姿を見て、ブルガリア王はショックのあまり死亡したと言われています。この壮絶な措置でバシレイオス2世は「ブルガリア人殺し」のあだ名で呼ばれることになりました。

バシレイオス2世はその他にも新たな税制度を導入して国庫を拡充して軍事キャンペーンを強化し、帝国は平和と安定を取り戻し、国庫は潤沢でビザンツ帝国の最盛期を創出しました。

 

6. アレクシオス1世コムネノス(在位:1081年〜1118年)

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第一回十字軍を招き入れた外交巧者

バシレイオス2世の後の皇帝たちは、放漫財政から国債を乱発して財政を破綻させ、他国の介入と反乱の頻発により帝国は瀕死状態に陥りました。アレクシオス1世コムネノスは、貴族を懐柔して反乱の芽を摘み、通貨制度の改革で国庫収入を増やして赤字国債を整理。アナトリア半島からやってくるトルコ人の脅威に対しては、ローマ教皇ウルバヌス2世に助けを求め、主に北フランスの諸侯からなる第1回十字軍を派遣させることに成功しました。第1回十字軍は破竹の勢いでシリア、パレスチナを占領し、エデッサ、アレッポ、アンティオキア、エルサレムを攻略。トルコ人の脅威からビザンツ帝国を解放させました。

アレクシオスは十字軍諸侯がボスポラス海峡を渡る際に、「これから汝らが占領する土地は全てビザンツ帝国の領土」という誓約書を書かせ、アンティオキアを占領したプーリア公ボエモンに軍を背景に「アンティオキアの返還」を要求。なかなか汚い手ですが、ボエモンはアンティオキア公となりますがビザンツ帝国の臣下であることを認め、アレクシオスは他人の褌をつかって領土を取り戻すことに成功しました。

 

7. ヨハネス2世コムネノス(在位:1118年〜1143年)

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ビザンツ屈指の名君の誉れ高い皇帝

ヨハネス2世はアレクシオス1世の息子で、前皇帝の死後の内乱を押さえて実権を握りました。彼はアレクシオス1世の貴族優遇政策を踏襲して貴族を懐柔しつつ、有能であれば身分の低い者でも積極的に取り入れて皇帝を支える官僚機構を整備しました。その中には皇帝の片腕として活躍したトルコ人アクスークもいます。ヨハネス2世は官僚機構と貴族の舵取りをしつつ、反乱を起こさせず帝国を発展させたことが後世の歴史家に評価されています。

ヨハネス2世は軍事面でも活躍。コムネノス家の故郷カスタモンの街を奪還し、華々しい凱旋式をあげました。

1143年、ヨハネス2世は遠征先で狩をしていて毒矢が指に刺さり、それが原因で死亡しました。死の床で彼は末子のマヌエルを次皇帝に指名し死亡しました。

 

8. マヌエル1世コムネノス(在位:1143年〜1180年)

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イタリア半島の一部を回復した征服王

父ヨハネス2世に指名されて皇帝職に就いたマヌエル1世は、かつての大帝ユステニィニアヌスの領土への復活を目指し、イタリア半島への遠征を実行しました。

1155年、シチリア王国のルッジェーロ2世の死後の混乱に乗じてイタリア半島東部に侵入して占領。このまま全土占領を目指そうとしますが、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世により西ヨーロッパ諸国に反ビザンツ大同盟が結成され、ビザンツ軍は包囲されます。1156年にビザンツ軍はシチリア新王グリエルモ1世に敗れて撤退せざるを得なくなりました。

外交政策では、ヴェネツィアとトルコとの関係が悪化し、オスマン=トルコ軍とミュリオケファロンの戦いで敗北してしまいます。この敗北で、彼のユステニィニアヌスの大帝国を再現するという野望は破綻してしまいました。

ヨハネス2世はフランスとの関係を強化し、ルイ7世の娘アニュスを息子アレクシオスの妃に迎えました。この結婚式は大変豪勢で、帝都は着飾った人々が世界中から集い、連日のように見世物やパーティが催され、ローマ帝国の栄華かくもあらんといった雰囲気だったようです。

 

9. ミカエル8世パライオロゴス (在位:1258年〜1282年)

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 ビザンツ帝国を回復した「もっとも狡猾なギリシャ人」

ミカエル8世は第4回十字軍によってコンスタンティノープルが占領された後に成立した、ビザンツ亡命政権の一つ、ニカイア帝国の有力貴族の出身。前皇帝テオドロス2世が死んだ後、新皇帝ヨハネス4世の後見人となり、その後ヴェネツィアの後ろ盾によって共同皇帝に就任しました。

ラテン帝国やエピロス専制侯国など周辺国は、ニカイア帝国に強大な王が成立することに警戒し反ニカイア連合を結成し攻めてきますが、パラゴニアの戦いでこれを撃破。そうして1261年、ラテン帝国の軍団とヴェネツィアの艦隊が黒海周辺に出払っている隙を狙い、コンスタンティノープルの城壁にハシゴをかけて侵入し占領。こうしてビザンツ帝国はあっさりと復活しました。

この勢いのまま、ビザンツはアカイア侯のペロポネソス半島を占領し、ブルガリアを降して黒海沿岸の街も占領し、エピロス専制侯国との戦争も有利に講和しました。

ラテン帝国の滅亡はカトリック諸国を狼狽させ、フランス王ルイ9世の弟でシチリア国王のアンジュー伯シャルルはビザンツ帝国の再征服と自身のラテン帝国皇帝就任を目指して新たな十字軍発足を目指しますが、1174年のリヨン公会議でローマ教皇を全キリスト教の長と認める代わりに、コンスタンティノープル再征服計画を破棄させました。

しかしシャルルはラテン帝国政権を諦めきれず、シチリア王国とヴェネツィア戦艦の軍勢をまとめてコンスタンティノープルに攻め入ろうとしますが、タイミングよく「シチリア晩鐘事件」が発生します。これは、シチリア王国の都パレルモで、復活祭の夕方、シャルルの兵がシチリア一女性にいたずらをしようとしたところいざこざが起き、激怒したシチリア市民が「フランスに死を!」と叫びあちこちで暴力沙汰に。タイミングよく教会でミサの鐘が鳴り始め、小さな事件瞬く間に巨大な暴動事件に発展しました。

実はこの事件を裏で扇動し、パレルモに息のかかった者を送り込んでいたのはミカエル8世でした。この事件の発生でシャルルはコンスタンティノープル出発を断念せざる得ませんでした。

このような謀略やだまし討ちが得意だったミカエル8世をもって「もっとも狡猾なギリシャ人」というあだ名がついています。

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まとめ

ビザンツ帝国はあまり世界史の授業でも習いませんし、馴染みが薄いのですが、ちゃんと学ぶとすごく面白いです。

ビザンツというと、教条主義的で頭が硬くて意固地な連中、というイメージがありますが、歴代の皇帝のキャラクターや歴史を見てみると、かなり柔軟な経済人もいますし、ゴリッゴリのマッチョな軍人もいたりして、さすがはローマ帝国の後継国といった感があります。

次は、「ビザンツ帝国の悪帝列伝」をまとめます。 

 

参考文献

世界の歴史11 ビザンツとスラヴ 井上浩一,栗生沢猛夫 中央公論社 1998年2月10日初版印刷 1998年2月25日初版発行

世界の歴史〈11〉ビザンツとスラヴ (中公文庫)

世界の歴史〈11〉ビザンツとスラヴ (中公文庫)