「信仰のために敵を倒す」僧侶兵士
中世日本には僧兵という集団がありました。
延暦寺や根来寺などが有名ですが、広大な荘園領を持つ寺院の警備や、他の勢力との武力紛争に対応し、彼らの存在によって寺院は守護大名に匹敵する強大な力を持ちました。
似ているものに、中世ヨーロッパの騎士団があります。テンプル騎士団や病院騎士団、チュートン騎士団が有名ですが、聖地の守護や巡礼者の警護、さらには異端者への攻撃をその任務としました。
こういう集団をリストアップしても面白いのですが、今回はもともと本業が僧侶で、訳あって武装し活躍した人をピックアップしてみたいと思います。
1. ル・ピュイのアデマール(フランス)
第一回十字軍の諸侯のまとめ役だった司教
アデマールはフランス南部の町ル・ピュイの司教で、第一回十字軍に教皇ウルバヌス二世の代理として従軍した人物です。
本来の役目は従軍する兵士の魂の救済にあったわけですが、この人は坊さんになる前は武人で軍事の経験もあり、第一次十字軍では諸侯の軍に混じって軍を指揮し、なかなか渋い活躍をしました。
キリスト教諸侯がセルジュク・トルコと戦ったドレリウムの戦いでは、軍を引いて立て直そうとするトルコ騎兵に対し、アデマール率いる騎馬隊が敵の背後に回り込んだことがきっかけで勝利を掴みました。彼はアンティオキア攻防戦でも重要な役割を果たし、街を守る塔を陥としたり、疫病で倒れたトゥールーズ伯サン・ジルの代理で南フランスからの軍を率いたりしました。
アデマールは諸侯のまとめ役としても貴重な人材でした。行動方針でたびたび喧嘩となる諸侯の間にたって説得したり調整したり。単に従軍神父という以上の重要な役割を担っていました。しかしアンティオキア陥落後に疫病にかかって死亡してしまいます。
その後諸侯は南下してエルサレム攻略にかかりますが、水や食料が欠乏し苦戦を強いられます。その時、アデマールの弟ユーグ・ド・モンティユが「昨晩夢枕に兄アデマールが立ち、3日間の断食を行えば9日以内にエルサレムが陥落すると言った」と証言しました。キリスト教軍はこれを実践し、実際にその通りになったのです。
今に残るアデマールの肖像画は、甲冑を身に着けて騎馬で戦いに赴く姿を描いたものです。とても僧侶には見えません。
2. ルドルフ・フォン・ツェーリンゲン(ドイツ)
Photo by Flominator
フリードリヒ一世に代わってシュヴァーベン兵を率いた男
ルドルフ・フォン・ツェーリンゲンの父はツェーリンゲン公コンラート一世で、兄がツェーリンゲン公を継いだので聖職の道に進み、1160年には神聖ローマ帝国で最高位の司教座であるマインツの大司教となりました。
1189年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世(バルバロッサ)がキリスト教諸侯の総司令官として第三回十字軍の参加するにあたって、従軍司祭としてキャンペーンに参加しました。戦役当初は、フリードリヒ一世はアイユーブ朝の軍を打ち破る活躍をしますが、1190年にキリキアのサレフ河で水浴びをしていたところ急逝してしまいました。死因は諸説ありますが、溺死か発作と考えられています。
総大将が死亡して動揺するシュヴァーベン兵を取り仕切ったのがルドルフでした。彼はすぐに準備をし、キリキアからドイツまで撤退の行軍を指揮しました。無事にツェーリンゲンまで帰還したものの、この行軍は過酷で彼の神経は相当衰弱したようで、1191年8月5日に亡くなりました。
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3. ルカ・ラザレビッチ(セルビア)
セルビア独立を目指して戦った小さな村の神父
セルビア人がオスマン帝国に対し独立反乱を起こした第一次セルビア蜂起と第二次セルビア蜂起では、蜂起の中心となったのは地元の名望家の豚商人でしたが、現場の軍事指揮官には数多くのセルビア正教の神父がいて、「ポップ」というあだ名で親しまれたルカ・ラザレビッチもリュチツェ村とコジェリェヴァ村の神父でした。
豚商人出身の名望家カラジョルジェ・ペトロヴィッチが起こした対オスマン帝国戦争の火がセルビア全土に飛び散っていき、ラザレビッチもこの運動に参加。1805年にいくつかの戦闘で重要な勝利を収めた後に、シャバツの町の包囲戦を開始。カラジョルジェの本体もラザレビッチの動きに同調し、1806年1月にラニタヴァックでオスマン帝国軍を撃破。その後、補給路を絶たれたオスマン帝国軍はシャバツの町をラザレビッチに引き渡しました。
ラザレビッチはシャバツの町の統括者として治安回復や裁判など統治を担うも、1809年にチェガルの戦いで敗れてセルビア軍の勢いが停滞し、ナポレオン戦争によりロシアの支援を失ったセルビア反乱軍が1813年にラヴニェの戦いで決定的な敗北をすると、ラレゼレビッチを始めとして主だった指導者たちはオーストリアに逃亡しました。
4. 西山大師(李氏朝鮮)
日本軍に対する抵抗を呼びかけ僧兵を糾合した高僧
西山大師は朝鮮初期の禅の大成者として有名ですが、1592年〜1598年の秀吉の朝鮮出兵(韓国では壬辰倭乱)の際、朝鮮の僧に抵抗を呼びかけた人物でもあります。
日本軍が朝鮮半島に攻め入ると西山大師は高僧たちと相談し、日本軍への抵抗を行う義僧を組織することを決定。指揮官となる5人の僧兵を集めて義僧軍を組織しました。彼はその時すでに70歳を超えていたので、漢陽に戻って王に引退を申し出、組織した兵の指揮を部下の處英と惟政に託しました。
西山大師は仏教の真髄は禅にあり、禅がもっとも優れていると主張。「禅深教浅」を弟子たちに口を酸っぱくして教え込んだそうです。しかし弟子である四溟大師は師の教えに反し、浄土信仰へと近づいていきました。
5. 四溟大師(李氏朝鮮)
秀吉軍に抵抗した義僧兵の総司令官
四溟大師は字名で、本名は惟政(ユジョン)といい、西山大師の法嗣にあたり、彼が組織した僧兵を引き継いで抵抗戦を繰り広げた人物です。
国王により義兵を指揮することを命じられた四溟大師は、僧兵の司令官として明軍と連携し抵抗戦を繰り広げました。1593年には明軍と協力して小西行長が守る平壌を攻撃し陥としています。戦線が膠着してくると四溟大師は朝鮮側の使節として交渉にあたることが多くなり、終戦後には日本に渡り徳川家康と会談して戦後講和を行い、朝鮮人捕虜の帰還などを実現させました。
この時代の朝鮮では、西山大師のように唯心淨土説(仏も浄土も心のうちにあるという説)を唱え、禅を以って至高とする僧が多かったものの、四溟大師は阿弥陀如来の浄土信仰的な書を残しており、亡き者を弔い極楽浄土に向かわせるという、社会的意義を持った仏教の形を追及しました。これも、日本との戦いで自らの命令で多くの死者を出したことに対する弔いの気持ちだったのかもしれません。
6. アタナシオス・ディアコス(ギリシャ)
ギリシャ国家のために殉国した烈士
アタナシオス・ディアコスは19世紀前半のギリシャ独立戦の際に、秘密結社フィリキ・エテリアのメンバーとしてオスマン帝国と戦い殉国した人物です。
父も独立の闘士でしたが危険が迫ったため、母は幼い息子を安全な場所にかくまおうと修道院に入れてしまいました。
修道士として成長しますがある時にちょっとした事件(複数の説あり)を起こして山に逃げ、一時は当局に逮捕されますが処刑の前夜に脱獄し、僧籍のままバルカン南西部ヤニナの半独立勢力テペデレンリ・アリー・パシャの軍隊に入り、独立戦争に身を投じました。同時にディアコスはギリシャの解放を目指す秘密結社フィリキ・エテリアのメンバーにもなっています。
1821年3月に独立戦争が始まったとき、ディアコスはクリミアのリバジャの町を解放し、その後ペロポネソスに向かって進軍し、そしてテルモピレーの近くで戦いでオスマン帝国と戦いますが、敗れて逮捕され、さらに脱獄して戦いを続けましたが1821年4月24日に爆死しました。ディアコスの壮絶な死は、ペルシア帝国に対し300の兵で抵抗し玉砕したスパルタ王レオニダスと重ねられ、殉教者として讃えられました。
7. ホセ・マリア・モレーロス(メキシコ)
メキシコ独立を指導した英雄
1810年に始まったメキシコ独立独立革命の初期に指導的立場に立ったのはカトリックの司祭でした。最初に独立革命の火をつけたのは、グアナフト州の小さな町ドロレスの教会の司祭ミゲル・イダルゴ。そしてイダルゴの教え子で初期からの同調者である神父のホセ・マリア・モレーロスです。
モレーロスは貧しいメスティーソ家庭の生まれで、25歳で神職に就くまでロバと牛飼いをしていました。師匠のイダルゴが農民革命に身を投じるとそれに同調しました。イダルゴがスペイン当局に捕らえられて処刑されると、モレーロスが指導者の後を実質に受け継ぎ、南部の戦闘を継続しました。モレーロス率いる軍はアカプルコ、オアハカ、テワカン、クアウトラを占領。当初の師匠のイダルゴが農民反乱の意味が強かったのですが、モレーロスはメキシコのスペインからの独立をはっきりと意識していました。モレーロスは1813年、メキシコの独立を宣言。チンパンシルゴに議会を開きました。
しかしスペイン軍の逆襲にあい、1815年に逮捕されて処刑されました。
現在でもモレーロスは独立の英雄としてメキシコ国民に敬愛されています。
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まとめ
他にも色々いるのですが、結構特定の地域に偏っています。
具体的に言うと、セルビア、メキシコ、そして朝鮮です。
特に多いのがセルビアで、第一次セルビア蜂起と第二次セルビア蜂起でセルビア正教の聖職者が軍事指導者となって活躍しています。おそらくセルビアの町や農村で若者たちをまとめられるのが聖職者で、普段から教育や生活などに深く教会が関わっていたためと考えられます。そこらへんもう少し詳しいことが分かったらまた記事にしたいと思います。
参考サイト
Лука Лазаревић — Википедија, слободна енциклопедија
"四溟堂惟政の思想的位相に關する考察" 康東均 印度學佛教學研究第56巻第2号 平成20年3月
"朝鮮・四溟大師惟政の淨土信仰について" 韓普光(泰植)印度學佛敏學研 究第 61巻 第 2 号 平 成 25 年 3 月