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【太平洋戦争】ポツダム宣言受諾後も降伏しなかった日本兵

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 太平洋戦争が終結した後もジャングルに残った残留日本兵

残留日本兵と聞いて、パッと思い浮かべるのはおそらく、28年間グアムに居残った横井庄一さんと、29年間フィリピン・ルバング島に居残った小野田寛郎さんではないでしょうか。

敗戦の報を聞いて、大部分の人は悔しく思うと同時に「やっと国に帰れるぞ」と思ったはずなのですが、横井庄一さんの「恥ずかしながら帰ってまいりました」という印象深い言葉が示すように、当時の軍人には敗けてノコノコ帰るくらいなら死んだ方がマシというメンタリティを持っていた人が少なくありませんでした。横井さんや小野田さん以外にも大勢、居残って戦う道を選んだ日本軍人がいました。

ほんの一部ではありますが、あまり名の知られていない残留日本軍人をピックアップしていきます。

 

1. 大場栄

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 「あまり知られてない」と言っておいて、のっけから有名な方を紹介してしまいます。すいません。

大場栄さんの逸話は「太平洋の奇跡: フォックスと呼ばれた男」という名で本や映画になっているので、ご存知の方は多いと思います。

激しい戦いの結果日本軍のサイパン守備軍が玉砕して組織的な抵抗が終わり、大本営がサイパンの放棄を決めた後も、歩兵第18連隊衛生隊の大場栄陸軍大尉と46名の兵士は、サイパン島の160名の日本人の民間人を率いてジャングルに逃げ、ゲリラ戦争を遂行しました。

彼らは日本がポツダム宣言を受諾したことは知らず、1945年11月末まで抵抗を続けました。最終的に11月27日に天羽少将による降伏の命令を受け、12月1日に隊列を組んで行進をしながら山を降り投降しました。

 彼の人柄は敵であるアメリカ軍の兵士にも感銘を与え、かつて「フォックス」と会ったことがあるというスコット・ラッセルという人は「静かで威厳のある男だった」「彼の気持ちの良い人柄は、かつて彼が致命的な殺人者であることを忘れさせるほどだった」と述べました。

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2. 山口永

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 ペリリュー島は、島中を要塞とした日本軍守備隊とアメリカ軍の激しい戦いが繰り広げられた場所で、アメリカ軍第一海兵隊が壊滅するほどの凄惨な戦いで、両軍合わせて2万5,000人以上が死傷しています。

日本軍の守備隊はそのほとんどが玉砕しましたが、一部の兵は生き残り、戦争終結後も抵抗を続けました。その数34名。

その指揮官だったのが水戸歩兵第二連隊の山口永さん。大本営はペリリュー島守備軍に玉砕を禁じ「持久戦を完遂せよ」と命令していました。34名はその命令を忠実に守り続け、2年半もの間洞窟にこもり続けました。

山口さんたちは日本が敗けたことを「知らなかった」そうで、何か様子は変だとは思っていたようですが、「日本が敗けただろうから投降しよう」というような人はいなかったそうです。34名はアメリカ軍の軍需物資を奪って暮らしていました。

ある時、1人がパラオの本島にある司令部の様子を見に行ってくる、といって洞窟の外に出ていき、その男が歩哨に見つかって降伏したことがきっかけで場所が把握され、元第四艦隊参謀長の澄川道男少将の説得により全員投降しました。

山口さんの音声付きのインタビューがNHK戦争証言アーカイブスにあるので、是非ご覧ください。

 

3. マツド・リンソキ、ヤマカゲ・クフク

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硫黄島は日本軍守備隊とアメリカ軍の壮絶な戦いが繰り広げられた場所ですが、1945年3月21日に大本営が硫黄島の守備隊の玉砕を発表してからも、わずかながら日本兵が生き残っていました。
1949年1月9日、マツド・リンソキ(Matsudo Linsoki)とヤマカゲ・クフク(Yamakage Kufuku)という2人の日本兵が駐留するアメリカ軍に捕獲されました。

調査で2人は米軍の物資、ハムや缶詰や懐中電灯、軍服まで、必要なあらゆるものを失敬して洞窟の中で暮らしていました。戦争終了後からしばらくは、スクラップを片付けるために多くの中国人労働者が動員されていたこともあり、島に東洋人がいることはアメリカ人にとっては何ら不思議ではなかったようで、普通に島を歩いていても怪しまれることはなかったようです。ところが1949年に入ると中国人はすべて引き上げていたので、不釣合いのサイズの軍服を着て歩いていた2人は怪しまれ、捕まってしまいました。

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4. キノシタ・ノボル

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1955年11月14日、フィリピン軍のスポークスマンが「戦争終結から11年間ルソン島の山奥に潜んでいた、日本人の漁師キノシタ・ノボル(33歳)が首を吊って死んだ」と発表しました。

1944年、キノシタが操縦する漁船が沈没(理由は不明)してしまい、ルソン島に流れ着きました。職業は漁師ということなので、おそらく徴用軍属だったと思われます。

彼は戦争の終結を知ったものの降伏を拒否。11年間もの間、トカゲやサル、果物を食いながら生き延びたそうです。フィリピン軍は彼を殺害しようとしますが結局捕獲に成功しました。しかし、キノシタは「敗けて故郷に帰るのは恥である」と述べ、自殺してしまいました。

 

5. 皆川文蔵

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皆川文蔵さんはグアム島守備隊歩兵第18連隊に所属と米軍と戦い、戦いの中で部隊の仲間とはぐれ、しょうがないのでそのままジャングルに入り、その後16年間サバイバル生活を送りました。グアム島には同じく横井庄一さんもいて、他にも10人以上の日本兵が5年以上ジャングルに潜伏していたそうです。

皆川さんの証言も、NHK戦争証言アーカイブスに動画付きで詳細が掲載されているので是非読んでいただきたいのですが、インタビュアーの「ご苦労されましたね」という言葉にこう返しています。

いや、苦労はしません。それが自分に与えられた一つの運命だと思っていましたから苦労とは思いません。生きていくには、遊んでいちゃあ誰も持ってきてくれんから、自分でやらなきゃならんのだと心に思っていますから、つらいとは思わなかった、それがほんとです。つらいと思ったらそんなジャングルからすぐに出ていきますよ。
それですからね、「心頭を滅却すれば火もおのずから涼し」という、火が熱いと思うけど涼しい。いや自分がそう思えば、つらいと思えばつらいけれど、好きなことをやっていればご飯を食べるのも忘れてしまうでしょう。それですから、生きんがためには心持ち一つだと思います。

皆川さんが帰らなかったのは、恥とかではなく、「すべてこれも運命だ」というある種悟りに近い感覚だったようです。

 

6. ミンドロ島残留日本兵

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 ルソン島の南西に位置するミンドロ島は、戦争中は日本軍守備隊が駐屯していましたが、1944年12月にルソン島攻略を目指すアメリカ軍の攻撃を受け、守備軍の多くが島の山岳地域に逃げました。しかし地元ゲリラの掃討戦と疫病と飢えによって壊滅しました。 「野火」や「レイテ島戦記」を描いた大岡昇平はミンドロ島守備隊の一員で、アメリカ軍に捕虜になっています。

大方の守備隊が壊滅して以降も一部の兵は生き残り、戦争終結から11年たった1956年には4人の残留日本兵が発見されました。彼らの名は、ヤマモト、イズミダ、ナカノ、イシイ。それなりの人数がいたようですが、疫病や飢えで次第に数が少なくなり、1951年の時点で既に4人になっていました。1954年の終わり頃、彼ら4人はどういうきっかけがあったのか、先住民族マンギャン人の人々と親しくなり、彼らに食料を分けてもらいながら暮らすようになっていました。マンギャンの人たちは彼らを「トナリ」と呼び、隣人として親しくし、まだ未婚であったイシイは現地の有力者の女性と結婚まで予定していました。式は1956年11月に予定されていましたが、その前に4人が発見されたので行われることはありませんでした。

 

7. 中村輝夫

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 中村輝夫は、台湾のアミ族の出身で本名はスニヨン、中国名は李光輝と言います。

太平洋戦争末期に志願して日本軍に入り、現インドネシアのモロタイ島の守備兵として駐屯しました。1944年5月からアメリカ軍とオーストラリア軍によるモロタイ島攻撃が始まり、中村は部隊とはぐれてジャングルで潜伏生活を送るようになります。彼が部隊とはぐれた理由はいろいろな説がありますが、本人が語ったところによると、アメリカ軍によって偵察隊の仲間が殺され、追手に追われて逃げ回るうちに一人になってしまった、とのことです。

中村は日本帝国に絶対的な忠誠を誓っていて、毎朝皇居に向かって敬礼し、三八式歩兵銃の手入れを欠かさず、規則正しい生活を送っていました。台湾原住民出身の中村はモロタイ島の人々と同じオーストラロネシア語系の言語を操るため意思疎通が可能で、早くから原住民と通じて協力を得ていて、一人でもジャングルの中で生きていくことができました。

その原住民の話からモロタイ島に日本兵の生き残りがいることが知られ、1974年12月に捜索隊によって発見され、既に日本が降伏していること、インドネシアが独立していること、台湾と日本は別の国になったことを聞かされました。

翌年1月に飛行機で台湾に帰国し、中華民国政府と日本政府から多額の見舞金をもらいますが、環境の激変や富裕になったことでの人間関係のもつれによるストレス、ストレスからくる暴飲暴食により健康を害し、帰国後4年で死去しました。戦後19年間もジャングルで健康に生きたのに、市民生活に戻って健康を害す…。何とも言えない気持ちになります。

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まとめ

こういう話を聞いて、だから昔の人は偉かった、という結論に達する人もいれば、国によって洗脳された哀れな被害者、という結論に達する人もいるでしょう。

確かに見ようによっては「偉人伝」でもありますし「悲劇の話」でもあるのですが、そうやって紋切り型で全てを評価してしまってはなにか大事な事柄を見落としてしまう気がします。

表現が難しいんですが、それは「良いこと」と「悪いこと」の絶対不変の価値など存在しないということ。

ある社会の中での秩序やルールに適したときの良い悪いというのは、もちろんあります。しかしそれが崩れた時に、あるいはルールが適合できない例外が生じた時に、その善悪の基準は混乱をきたし、意識と行動の差異の中で、誰もが望まない悲劇をもたらすことになります。

国際関係・産業構造・人口構造がかつてと比べて大きく変化したにも関わらず人々の意識が変わっていない現代の日本。

残留日本兵の方々からいま我々が学べることは、意識と現実の大きなギャップが軋轢や衝突を生むこと、早く意識を現実に追いつかせないと悲劇が起こりうるということではないかと思いました。

 

参考文献・サイト

"Japan's renegade hero gives Saipan new hope" The Japan Times

 "U.S.S. Stevens: The Collected Stories" Sam Glanzman

「信じられなかった敗戦」 NHK戦争証言アーカイブス

「16年の密林生活」皆川文蔵さん証言 NHK戦争証言アーカイブス

" Yamakage Kufuku Born - 1925 Surrendered - January 6, 1949" wanpela.com

"Lt Ei Yamaguchi Surrendered - April 1947" wanpala.com

"The Stragglers" E. J. Kahn Jr.