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ペルシャ湾岸諸国の領土問題

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 意外と根深くややこしい湾岸諸国の領土問題

北方領土や竹島、尖閣諸島の問題はいつでもホットイシューであります。これまで多くの努力がなされるも未だに解決の見通しは全く見えていません。領土問題があったほうが両国の為政者にとっていろいろ都合がいいのではなかろうかとすら思います。

 さて、このブログではたびたび世界の領土問題について取り上げています。他国の事例に、領土紛争解決のスタディがあるに違いないと思うからなのですが、今回はペルシャ湾岸諸国の領土問題を取り上げてみたいと思います。

 

湾岸諸国になぜ領土問題が多いのか

ペルシャ湾岸には領土問題が多いとされています。その理由はいくつかあります。

まず、伝統的にアラブ人の支配対象は土地ではなく人にあり、離れた地域に住んでいる部族でも自分に税を収めている場合は勢力範囲とみなしました。また、アラブ遊牧部族は一箇所にとどまらずにあちこち移動するため、土地を基礎にした国分けが発想としてありませんでした。さらにはこの地域はサウジアラビア(ワッハーブ派)、オスマン帝国、ペルシャといった大国がせめぎ合っており、勢力圏が日々移り変わっていき不変の国境などない状況でした。そんなところにヨーロッパ諸国が近代的な国民国家の国境概念を持ち込み、勢力圏の移り変わりをある日を境に止めてしまったので、あちこちでコンフリクトが起きることになってしまいました。

湾岸諸国の地図をGoogle Mapで見ると、あちこちに飛び地があったり、領土内に他国の領土があって、その他国の領土内に自国の領土があったり、もうとにかくややこしいのです。 

湾岸諸国で石油が発見され多額の富を生み出すと、超ざっくり引かれた国境線はコンフリクトを多く起こすことになり、陸上のみならず海底でも石油が多く見つかるため、小さな島々をめぐっても領土紛争を起こしています。

 

1. イランのバーレーン領有主張

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Credit: UN Office for the Coordination of Humanitarian Affairs (OCHA)

伝統的にアラブとペルシャの係争地となってきたバーレーン

バーレーン王国はバーレーン湾に浮かぶ島国で、カタールとサウジアラビアの間にあります。現在の王室はサウジアラビア王室の強い影響化にあり、住民の多数派はシーア派ですが支配層はスンニ派です。バーレーンは湾岸諸国の中では酒が比較的簡単に手に入るので、サウジアラビアの金持ちはバーレーンまでクルマでぶっ飛ばし(バーレーン島まで橋がかかっている)、ビールやらウィスキーやらを楽しむのだそうです。

さてそんなバーレーンですが、かつてはペルシャの支配下にありました。この地は16世紀初めにポルトガル人が占拠していましたが、1602年頃にペルシャ人がポルトガル人を追い出して占領してしまいました。バーレーンでは天然の真珠の採取が盛んでペルシャは膨大な富をバーレーンから得ました。

その後カタールの付近にアラブ人が住み着くようになり、ペルシャ人の真似をして真珠採りをバーレーン湾で行うようになったため紛争が発生します。やがて真珠の漁場や交易をめぐる争いは紛争に発展し、1783年にカタールのズブラーから来たウトブ部族が中心となり、ペルシャ勢力をバーレーンから追放してしまいました。

そのような経緯があり、ペルシャの歴代王朝ガージャール朝もパフレヴィー朝も、バーレーンは伝統的にペルシャ領であると主張していました。2011年、いわゆる「アラブの春」が吹き荒れた際には、バーレーン国内のシーア派がスンニ派の政府への反政府運動が起こった際に、イランは裏で活動を支援していたと言われています。そんな事情もあり、2016年にサウジアラビアとイランの国交断絶に合わせて、バーレーンもイランと国交を断絶して今に至ります。

 

2. カタール領ズブラーのバーレーンの領有権主張

バーレーンとカタールの歴史的対立

カタール北西部にあるズブラーは、現在は世界遺産の街として観光業が盛んですが、かつては天然の真珠の採集で大いに栄えた街です。真珠の街ズブラーは現在でもバーレーンとの間で領有争いがあります。

1783年にバーレーンをペルシャから奪ったのはウトブ部族のアール・ハリーファ族とジャラヒーマ族でした。しかし主導権争いから、多数派のアール・ハリーファ族が少数派のジャラヒーマ族をバーレーンから追い出してしまいました。しかし、故郷のズブラーもアール・ハリーファの勢力が強く、ジャラヒーマ族はさらに10キロメートルほど離れたホール・ハッサンの地からズブラー回復のための戦いを始めました。

戦いは長年続きましたがアール・ハリーファ優位で進み、ジャラヒーマ勢力は次第に没落していったこともあって、ズブラーはバーレーンの支配が長く続きました。

19世紀後半にイギリスがこの地域の支配権を強め、その下でマーディド部族のムハマンド・ビン・サー二が力を強め、カタールの独自性が高まりました。バーレーンは警戒感を強め、ズブラーで真珠採りをしていたナイム部族の支持を取り付けて支配を維持します。

1937年、ナイム部族内の内紛が発生し、カタールが干渉を強めたことで、バーレーンとの間に緊張が高まり、イギリスの仲介の下で領土交渉が行われました。交渉は行き詰まり、ナイム部族内の騒動に乗じてカタールがズブラーを占領してしまいます。追われたナイム部族はサウジアラビアなど各地に四散。バーレーンはイギリスに対し領土の返還を求め、カタール側と領土交渉が何度か行われました。しかしイギリスはバーレーンの支配根拠であるナイム部族がズブラーにいないことを理由に実効支配するカタールの領有を認めました。バーレーンはこれを不服とし、もはや形骸化しつつありますが、現在でもズブラーの領有を主張しています。

 

3. アブー・ムーサ島、大小トンブ島

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イギリスの中東撤退以降イランが武力占領する島々

アブー・ムーサ島、大トンブ島、小トンブ島は、 UAEとイランの間の海峡のちょうど中間にある島で、いずれも真水が手に入りにくいため人口は少なく、近海漁業やベンガラ(赤色の顔料)の採取、ナツメヤシ栽培が細々と行われている程度で産業には乏しいですが、近海は海底油田・ガス田の埋蔵が期待されている海域でもあります。現在はこの4島はイランの実効支配下にあり、UAEが主権を主張しています。

1747年、イランではアフシャール朝初代君主ナーディル・シャーが死亡して王国が弛緩し、その混乱に乗じてアラブのジョワーシム部族が対岸のリンガまで進出。4島を含む沿岸部を実行支配してしまいました。しかしその後、ジョワーシム部族はペルシャの体制内に取り込まれていき、アラブ人が支配を行うものの、リンガ長官に属するという体制になりました。イランから見るとイランの地方長官の統治下にあり、アラブから見るとアラブ部族の実効支配化にあるという二重体制でした。

その後、この地域をイギリスが支配するようになった時、イギリスは支配者であるジョワーシム部族がアラブ部族であることを根拠にアラブ領であるとし、アラブ人を住まわせイギリス艦の巡回などを実施しました。

その後、イランはたびたび4島の返還要求を行い、時には武力行使を行いましたが、都度イギリスによって退かれていました。しかし、1971年にイギリスがスエズ以東からの撤退を行うと、イランは直ちに軍を送り込んで4島を占領しました。この占領にはアラブ側からの反発が強く、1980年にイランと戦端を開いたサダム・フセインの開戦理由の一つは「4島のアラブへの返還」がありました。 

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4. クウェート問題

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湾岸戦争のきっかけにもなったクウェートの莫大な石油資源と歴史問題

クウェートはペルシャ湾の奥にありイラクとサウジアラビアの国境にある小国で、1990年の湾岸戦争はイラクがクウェートに攻め入って併合したことがきっかけで発生したことはご存知と思います。

もともとこの地域は長年オスマン帝国の支配下にありましたが、18世紀にサウジアラビアのサウード家とも親戚筋にあたるサバーハ家がこの地域の支配を強めました。サバーハ家はオスマン帝国やサウード家からの圧迫のためイギリスとの連携を強めます。

19世紀後半にオスマン帝国は弛緩する帝国内の引き締めを図り、サウジアラビアを圧迫してクウェートの支配権を強め、サバーハ家の当主を「バスラ州総督」に任じ、帝国の支配下に組み込みました。しかし1899年、サバーハ家当主ムバラクはイギリスと結んでオスマン帝国からの離脱を宣言し、独自にクウェートの支配を開始しました。

 この地域の領有問題がややこしくなったのは、1938年にクウェートで巨大な油田が発見されたことによります。1932年にイギリスより独立していたイラク王国は、バスラ州がオスマン帝国領であったことを理由にクウェートもイラク領であると主張し始めました。

クウェートは1961年にイギリスから独立しますが、独立クウェートの領有に対する主張は、共和制下のイラクでもずっと主張され続けていました。それを実際に実行してしまったのが、1979年に政権の座についたサダム・フセイン。1990年8月2日、「クウェートの反体制革命勢力を支援する」という名目でクウェートに侵攻し、同日中に中枢を制圧して2日後の8月4日にクウェート共和国の成立と、サバーハ王家の追放を宣言しました。8月28日、クウェート共和国政府はクウェートの「イラクへの併合」を全会一致で承認。共和国は解散し、クウェートはイラクの19番目の県「クウェート県」となりました。しかし、湾岸政争によりイラクはアメリカを中心とする国際連合軍に敗北し、再びクウェートもイラクから切り離されて1991年2月26日にクウェート国が復活しました。

 

5. ブライミ・オアシス領有権問題

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Photo by Marko

石油利権をめぐったサウジアラビア、アブダビ、オマーンの衝突 

ブライミ・オアシスは、現在のUAEのアル・アインと、オマーンのブラミ特別行政区にまたがって存在する地域のことを指します。 

この地域は石油の埋蔵があると考えられ、1949年にイギリスのアラビアン・アメリカ・オイル・カンパニーが調査に訪れてサウジアラビア当局に拘束されるなどの事件を起こしていました。サウジアラビアはこの地は1800年代にワッハーブ派の影響下にあったことを理由に領有権を主張。領有問題が緊迫する中、1952年1月にサウジアラビア、アブダビ、オマーンの間で会議が催され、ブライミ・オアシスを含む国境線の制定会議を行いました。しかし結論がでず、8月にサウジアラビアがとうとう軍隊を派遣してブライミ・オアシスの一部を占拠してしまいます。オマーン政府はイギリス政府に仲介を依頼し、10月にイギリス軍が暫定的に軍事占領する事態に。

1974年までイギリス軍の駐留は続きましたが、サウジアラビアとアブダビの交渉が行われ、結果サウジアラビアはアブダビに妥協し、この地域の領有の放棄を認めました。その代わり、ペルシャ湾に面するハウル=アル・ウダイドと、ハウル=アル・ドゥワイヒーン、さらにさらにアブダビ南部のシャイバの油田権益の8割をサウジアラビアが獲得するという妥協がなされました。

ちなみにこれだけ揉めたのに、この地域から結局石油は出なかったというオチがついています。

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 まとめ

まだまだあるものの、代表的な5つの事例をピックアップしました。

ざっと見る限り湾岸諸国の領土問題は最終的には「武力」で解決してる感がありますが、「カネ」で妥協をするという知恵もあります。

これはアラブが育んだ偉大な知恵だと思うのですが、領土や人の命といったものをカネや富に変えて保証するという伝統があります。例えばある部族が違う部族の人を殺害してしまった場合、ラクダ何頭で保証、といったことがルールとして決められているそうです。そうして手打ちにすることで報復合戦となることを避けるという知恵です。

東アジアもそれくらいドライにできないものかと思いますが、遊牧民族と農耕民族の違いなのか、領土問題となると妥協ができず、行くところまでいってしまう民族の性が悲しいです。

 

参考文献・サイト

 "湾岸諸国間の領土紛争 ーバハレーン・カタール問の場合ー"  石田進 国際大学中東研究所 紀要 第6号 1992年

"湾岸諸国間の領土紛争 ーアブー・ムーサ島、大・小トンブ島、シッリ島の場合一" 石田進 国際大学中東研究所 紀要 第7号 1993年

"湾岸諸国における国境と国家の存立構造―UAEの国境問題の展開―" 日本国際政治学会編「国際政治」第162号年(ボーダースタディーズの胎動 2010年12月)堀拔功二