歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

歴ログ-世界史専門ブログ-は「はてなブログ」での更新を停止しました。
引き続きnoteのほうで活動を続けて参ります。引き続きよろしくお願いします。
noteはこちら

中世セルビア王国の勃興と野望

f:id:titioya:20190615004402p:plain

東方キリスト教世界の王を目指したバルカンの大国セルビア

旧ユーゴスラヴィア連邦は南スラブ系民族を中心とした連邦国家でしたが、その中心にあったのはベオグラードを都に構えるセルビア人でした。

セルビアは現在でも様々な民族・宗教・言語が入り混じるバルカン半島内において、経済力・政治力・文化力で頭一つ抜け出した存在ですが、故に周辺国との摩擦が絶えません。セルビア王国は中世でもバルカンの有力な国家で、一時はバルカンの半分を占領しビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを脅かすほどでした。しかしオスマン帝国に敗れ、併合されてしまいます。

歴史はセルビア人がバルカン半島にやってきた7世紀ごろから始まります。

 

1. セルビア国家形成の動き

f:id:titioya:20190615015546p:plain

初期セルビア国家の形成

セルビア人は南スラブ系民族に属し、モンテネグロ人、クロアチア人、スロベニア人、マケドニア人と系統は同じです。南スラブ系民族は、7世紀ごろに遊牧民族アヴァールやブルガールのヨーロッパ侵入と共にやってきたと考えられています。遊牧民に追い立てられてというよりは、むしろ遊牧民族に積極的に協力し、ビザンツ帝国の支配下の住民に暴力を伴った乱暴な移住を敢行しました。

スラブ人はアヴァールやブルガールとは違って農耕民族で、侵略や破壊は遊牧民族に任せ、自分たちは農産物や工業製品の生産などを担い、お互いに依存関係にあったようです。

現在のセルビア、バルカン西部の山岳地帯に住んだスラブ人は、初めは目立った権力も出てこず、軍事的にも脆弱で、地域大国のビザンツ帝国とブルガリアの宗主権下にありました。現在のセルビニアに当たる地域には、ラシュカ、ボスニア、ゼタ、ザフムリェ、トレビニェ、パガニアの6つの共同体(ジューバ)があり、これらはまとまった勢力とはならず、ジュバンと呼ばれる族長をリーダーとして暮らしていました。

中世セルビアの歴史は、ビザンツ帝国とブルガリアの影響を大きく受けながらも、いかにして両国の支配から逃れてスラブ人が住む地域を統合し王権を築いていくかの模索の歩みです。

f:id:titioya:20160108100342j:plain

9世紀の中頃にゼタのヴラスティミル公の下にスラブ人がまとまり始め、839〜842年にブルガリアの侵攻軍を大いに破り権勢を高め、最初のセルビア国家「ヴラスティミロヴィチ朝」を成立させました。しかしヴラスティミル公の息子ムチミル公の死後、9世紀の終わりごろから後継者争いによる内紛が相次ぐようになります。ビザンツ帝国やブルガリアは争いに敗れた王の息子たちを受け入れ、軍を持たせて侵攻させセルビアへの影響力を高めようと画策しました。924年、ビザンツ帝国の支援を受けて前王パブレを倒したザハリアに対し、ブルガリア王シメオンの支援を受けたザハリアのはとこチャスラフ・クロニミロビッチは大軍を送りザハリアを殺害。チャスラフは王位に就きますがブルガリア王シメオンはチャスラフを捕らえてブルガリアに送り、セルビアを支配してしまいます。
シメオンが死んでブルガリア国王にペタル1世が就くと、ビザンツの後押しを受けたチャスラフはブルガリアに対する抵抗運動を起こしセルビアは独立しますが、960年ごろにチャスラフはハンガリーとの戦いに敗れ、再びセルビアは分裂してしまいました。チャスラフの息子ティホミルはラシュカ地方のジュバンに収まり、ここから100年ほどセルビアは再びジューバによる地方統治の時代を迎えることになります。

 

関連記事

reki.hatenablog.com

 

セルビア人のキリスト教受容

セルビア人がいつキリスト教を受け入れたかはあまり定かではありません。ビザンツ帝国の影響下に長く置かれたため、少しずつキリスト教自体は入っていたと思われますが、セルビア国家形成の父ヴラスティミル公は一度入れたキリスト教を、ビザンツの介入を嫌って破棄したそうなので、伝統的なスラブ宗教の放棄と一神教への転換は相当な勇気が必要な決断だったと思われます。しかし、東にローマ帝国の後裔たるビザンツ、西にはカトリック諸国が林立する中で、自らの信仰を守り抜くことは難しかったのでしょう。皇帝バシレイオス1世の時代にセルビアはコンスタンティノープルに使者を送り、宣教師の派遣を求めてキリスト教徒を受けいれたと同時に、ビザンツ帝国への忠誠を誓いました。

 

ゼタの勃興

f:id:titioya:20190615023143j:plain

11世紀半ばごろになると、ゼタ(現在のモンテネグロ)の公ステファン・ヴォイスラフが強大化し、ビザンツ軍を破って領土を拡大。アドリア海まで支配を広げ、ビザンツ支配からの脱却を図ってカトリックに接近し、教皇グレゴリウス7世に冠を受けました。ヴォイスラフの息子コンスタンチン・ボディンも父の政策を踏襲し、カトリックとの関係を強化してビザンツ帝国を攻撃しました。

しかし、軍人出身のビザンツ皇帝アレクシオス1世コムネノスによる攻撃を受けて崩壊。ゼタ地方は弱体化し、セルビア王権はラシュカ地方に移っていきます。

 

2. ネマニャ朝セルビアの成立

f:id:titioya:20060110082801j:plain

ネマニャ朝の成立

1000年に聖イシュトヴァーンの下でカトリックを受け入れたハンガリー王国は、11〜12世紀にスロバキア、クロアチア、トランシルヴァニアを影響下に入れ国力を大いに高めました。カトリック陣営のハンガリーは正教のお膝元ビザンツ帝国に対抗する形で南下。当時のビザンツ皇帝は征服王マヌエル1世コムネノスで、ビザンツ帝国はハンガリーの南下に対抗してつばぜり合いを繰り広げ、ラシュカ地方はハンガリーとビザンツ帝国の領土争いの渦中にあったため、混乱に便乗する形でラシュカのジュバン、ステファン・ネマニャがスラブ人を糾合して勢力を広げていきました。

1180年にマヌエル1世コムネノスが死亡すると、彼の征服戦争によってビザンツ帝国に屈していた地域が次々と離反を図ります。ハンガリーはビザンツの宗主権を放棄して再び南下。ノルマン人も帝国領を侵し始めます。ステファン・ネマニャもこれに便乗してゼタ地方とダルマチア地方を併合。独立王朝であるネマニャ朝を成立させました。

 

正教とカトリックの境界線

当時のセルビアはカトリックと正教の境界線にある地域で、南のゼタやラシュカは正教の影響が強くありましたが、西部のダルマチアはカトリックの影響が強く、歴代のセルビアの王も情勢によって正教に傾いたり、親カトリックとなったりしていました。ステファン・ネマニャも正教とカトリックの洗礼を両方受けていたし、ネマニャ朝の君主の中にはカトリックに改宗した者もいました。

ステファン・ネマニャの子ラストコは聖地アトス山で修道士として生きセルビア正教会を創立し、聖サヴァという名前でセルビアの守護聖人となりました。セルビア正教会はその後もセルビアの国家宗教として維持されます。

 

セルビア王国の拡大

f:id:titioya:20190615110351j:plain

ステファン・ネマニャの次男ステファン・ネマニッチは、ビザンツ皇帝イサキオス2世の姪エウドキア・アンジェリナと婚姻。ビザンツ帝国よりセヴァストクラトル(専制公)の称号を得ました。ネマニャは次の王位はビザンツのお墨付きがあるネマニッチがふさわしいと考え、ゼタを領土とする長男ヴカンではなく、次男ネマニッチを王位に据えました。反発するヴカンはハンガリーと結び、セルビアのカトリック化を約束して反乱を起こしネマニッチを追い出しますが、その後体制を立て直してセルビアに戻りヴカンと戦い王位に返り咲きました。ヴカンの領土ゼタはヴェネツィアの影響が強い地域でしたがネマニッチはこれを武力で統合し、セルビア王国の安定化に務めました。

f:id:titioya:20190615114525j:plain

ネマニッチにはヴェネツィア出身の妻アンナ(ドージェ、エンリコ・ダンドロの孫)がおり、彼女との間に生まれたのがステファン・ウロシュ1世です。

ウロシュ1世の時代、第二次ブルガリア帝国を大いに拡大させたイヴァン・アセン2世が死亡してブルガリアでは内乱が始まったため、セルビアはこれに便乗してブルガリア領に侵攻し領土を拡大させました。ウロシュ1世はさらにセルビアの鉱山の開発や商業の活性化を促し、王国は経済的にも成長していくことになります。

このウロシュ1世による基盤を生かしてさらに成長させたのが、ウロシュ1世とフランス・アンジュー家出身の妃ヘレナの間に生まれたステファン・ミルティンです。

f:id:titioya:20190615105226j:plain

即位したミルティンはビザンツ領北マケドニアを攻撃して併合。王国の首都をスコピエに移動させました。これに対しビザンツ帝国も抵抗しますが奪還できず、アンドロニコス2世の娘がミルティンに嫁ぐことで和平が成立。北マケドニアはセルビア王国領となり、セルビア王国はビザンツ帝国の中心部に接するようなりました。

ミルティンはユーラシアを席巻するモンゴル帝国のジュチ・ウルスの軍も撃退し、ビザンツ帝国に協力してオスマン帝国にも攻撃を加え勝利を収めています。

ミルティンによって拡大したセルビアをさらに強大化させるのが、14世紀の王ステファン・ドゥシャン(在位1331〜1355)です。

PR

 

 

3. 最盛期の王ステファン・ドゥシャン

f:id:titioya:20190615010325j:plain

スタファン・ドゥシャンの即位前の1322年、内戦が続いたブルガリアで地方領主のミハイル・シシュマンが力をつけてブルガリア皇帝となり、積極的な対外遠征で領土を拡大していました。しかし、1330年にヴェルブジュドの戦いでセルビア軍に敗れ、シシュマンも戦死してしまいます。ブルガリアの混乱に乗じて、翌年即位したステファン・ドゥシャンは軍事侵攻を行い、テッサロニケを除くマケドニア全域を制圧。さらにはアルバニア、エピロス、テッサリアにも領土を拡大しました。

ステファン・ドゥシャンは1345年に自らを「セルビア人とローマ人の皇帝にして専制君主」を名乗り、セルビア大司教座を「セルビア人とギリシャ人の総主教座」に格上げしました。さらに翌年には総主教によって「皇帝」を戴冠されています。

ものすごい鼻高々ですが、実際に当時のセルビア帝国はビザンツ帝国やブルガリアよりも領土も経済力も大きく、自他共に認める大国にのし上がっていました。

f:id:titioya:20190615130014p:plain

ステファン・ドゥシャンは、オスマン帝国との闘争で疲弊するビザンツ帝国を攻めてコンスタンティノープルを落とし、永遠の都の皇帝の玉座に座り東方キリスト教世界の指導者になることを目指すようになります。

そのために必要な海軍を求めてヴェネツィアに協力を申し入れますが、セルビアが強大化することを恐れたヴェネツィアはこの申し出を拒否しました。

1355年、軍備を整えたステファン・ドゥシャンはコンスタンティノープル攻略に出発しますが、その遠征途上で死亡。偉大なる王の死後、セルビア帝国は分裂に急速に弱体化していくことになります。

 

4. オスマン帝国のセルビア征服

ステファン・ドゥシャンの死後に帝位についたステファン・ウロシュ5世は「弱王(The Weak)」とあだ名がついている通り、偉大な父が築いた帝国を統治する能力に全く欠けていました。帝国の諸公は税金を収めない、勝手に他国に攻め入ったり軍事同盟を結んだりするなど好き勝手に振る舞うようになり、ウロシュ5世はそれを止めることができませんでした。

1371年、セルビア諸公連合軍はオスマン帝国軍にマリツァの戦いで敗れ、有力諸公を死なせてしまうと、ウロシュ5世の権威は地に落ちました。間も無くウロシュ5世が後継を残すことなく死亡すると、帝国の領土は諸公に分割されました。

セルビア人の有力者となったラザル・フレベリャノヴィチは、公を名乗り皇帝、王の称号を用いなかったため、この時からセルビアは国とは名ばかりで中央権力のない諸公国群の地となったのです。

f:id:titioya:20190615133823p:plain

ラザル・フレベリャノヴィチは隣国のボスニア王国に助けを求め、ボスニア王スチェパン・トヴルトコがハンガリーの干渉を配してダルマチアに勢力を拡大し、1377年には「セルビアとボスニアの王」を名乗り戴冠しますが、多くのセルビア貴族はこれを認めませんでした。

そうして1389年、トヴトルコのボスニア王国とラザルのセルビア公国は、コソボ平原でオスマン帝国と戦い完膚なきまでに敗北します。世に名高いコソボの戦いです。

f:id:titioya:20120126170850j:plain

これによりセルビア公国はオスマン帝国の臣下となり、ラザルの一族がセルビアを統治しますが、2度と主導権を取り返すことはなく、1459年のスメデレヴォの陥落で国としてのセルビアは滅びました。

セルビアが独立国として再び登場するのは、19世紀。

カラジョルジェ・ペトロヴィチによる第一次セルビア蜂起、そしてミロシェ・オブレノヴィッチによる第二次セルビア蜂起が起こってオスマン帝国への抵抗運動が高まり、露土戦争にロシア側で参戦し勝利を納めた1878年のことです。

PR

 

 

まとめ

ビザンツ帝国、ブルガリア、ハンガリー、ヴェネツィアといった大国に挟まれた中で、敵国と時には結び、時には手のひらを返して攻め込んで大いに領土を切り取ったりと、エゲツないサバイバルを繰り返してきた歩みです。一筋縄ではいかないしぶとさです。

セルビア、ブルガリア、クロアチア、ボスニアなど、バルカン諸国の歴史ってあまり人気がありませんが、大国の歴史とはまったく違う、生き残りをかけた人々の必死の歩みに心を打たれますのでぜひおすすめです。

 

参考文献

世界の歴史11 ビザンツとスラブ 中公文庫 井上浩一, 栗井沢猛夫 

世界の歴史〈11〉ビザンツとスラヴ (中公文庫)

世界の歴史〈11〉ビザンツとスラヴ (中公文庫)