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西ゴート王国の歴史

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名前は知ってるけど比較的マイナーな西ゴート王国の歴史

世界史の序盤で必ず学ぶ、ゲルマン民族大移動。

アングロ族、サクソン族、ロンゴバルド族、ヴァンダル族、フランク族、西ゴート族、東ゴート族あたりは、その名前とどこに移動したかくらいは覚えると思います。

けどその先どうなったかまで学ぶことは少なく、特に今回の西ゴート王国のようにどういう歴史を経たかはマイナー分野になってしまうでしょう。

415年の西ゴート族のイベリア半島到来から、711年のアラブ帝国侵入と崩壊までをまとめます。

 

1. 西ゴート族の到来

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西ゴート王国の成立

375年のフン族ヨーロッパ到来から怒涛のようにゲルマン人が西へ移動していき、早くも409年にはイベリア半島にヴァンダル族とアラン族(アラン族はイラン系でゲルマン系ではない)が侵入しました。

しばらく混乱が続くもゲルマン人もローマ帝国内の秩序に組み込まれていき、ヴァンダル族、スエヴィ族、アラン族にイベリア半島の属州が割譲されました。これで平穏が訪れるかと思った矢先の415年に、アタウルフ王率いる西ゴート族がアフリカ渡航を目指してピレネー山脈を越えようとしました。この時の渡航は失敗しますが、次王のウァリアはローマ皇帝ホノリウスと密約を結び、ヴァンダル族打倒を約束。416年にローマ帝国・西ゴート連合軍はイベリア半島に入り、ヴァンダル族とアラニ族を撃破して南に追いやります。その後ヴァンダル族は429年にゲイセリック王の指導の下、海を渡ってアフリカに移動しイベリア半島から姿を消しました。

ヴァンダル族討伐に成功した西ゴート族は、ローマ帝国からアクィタニア地方(現在のフランス南西部)の一部を与えられて定住を許されました。

418年、ウァリア王はトロサ(トゥールーズ)を都とし西ゴート王国を建国しました。

 

アリウス派王国としての西ゴート

南仏の西ゴート王国は、テオドリック1世の時代に地中海沿岸の領土獲得を目指して遠征を繰り返し、ローマ帝国と組んでフン族と対決。次のトゥリスムンド王とテオドリック2世の時代には、ローマ帝国の内紛に際してアウィトスをローマ皇帝に推挙しました。次のエウリック王の時代に西ゴートはイベリア半島に進出しその大半を支配下におきます。

西ゴート王国は南仏からイベリア半島全域を支配する強大な国家へと成長しました。

 

▽テオドリック1世

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 西ゴート王国で大きな問題となったのが、支配者である西ゴート族と被支配者であるローマ系住民の「二重構造」です。

例えば宗教面では、支配層である西ゴート族は、325年にニケーア公会議で「異端」とされたアリウス派が根付いていましたが、一般のローマ系住民はカトリックを信仰していました。 

法の面では、西ゴート族は「エウリック法典」という法典が適用され、ローマ系住民はローマ帝国時代のローマ法がそのまま流用されました。西ゴート族は支配者として軍務を担い、ローマ系住民はローマ時代のままの行政システムで据え置かれ、一つの国であるのに宗教・法・行政機構が2つ存在する状態が続きました。

ローマ系住民の法はアラリック2世の時代に新たに「アラリック法典」という法典が編纂され、かつてのローマ帝国の流用ではなく西ゴート国王の名の下での方が適応されましたが、内容はローマ法と対して変わりはなく、人によって適応される法律が変わるという状態でした。想像するに、まあ混乱したと思われます。

ローマ系住民が花嫁強奪をやったら罰せられるけど、西ゴート族はそれが伝統だからOKみたいなことが平気でまかり通っていたわけです。

 

2. 西ゴートの危機の時代

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内乱の時代

西ゴート王国の最盛期は507年に一気に危機の時代を迎えます。

フランク国王クローヴィスの軍が南下して西ゴートの領土を圧迫。アラリック2世はヴイエでフランク軍を迎え撃つも大敗し王自身も戦死してしまいます。

南仏の西ゴート領は、地中海沿岸の一部を除いてすべてフランク王国に奪われ、以降西ゴート王国はイベリア半島の王国として続いていくことになります。

しかし西ゴート王国の王位はしばらく混乱が続きました。

アラリック2世の息子であるガイセリックが王位に就くも、イタリア半島に国を構える東ゴート王国テオドリック大王がこれに干渉。ガイセリックの弟アマラリックを擁立し、幼い彼の摂政として大王自らが西ゴート王国を統治しました。アマラリックが成長し王位に就く以前の15年間、東西ゴート王国は同君連合にあったことになります。

テオドリック大王の死後、アマラリックが王位に就くも何者かに殺害され、王位は東ゴート将軍テウディスが就きます。テウディスの支配は18年間続きますが、またもや暗殺され、テウディクルス、アギラ、アタナギルドと王が変わり、数ヶ月の空位期間の後に有力者の中からリウヴァとレオヴィギルドが共同王として即位。このレオヴィギルド王の下で西ゴート王国は安定を取り戻すことになります。

 

ゴート族伝統の「王位実力奪取」

なぜここまで王位を巡る混乱が続いたのでしょうか。

その原因はゴート族伝統の「選挙王制」にあると考えられます。ゴート族では血筋は王位に重要でなく、実力のある者がリーダーとして望まれ、もし王が気に入らない場合は王を倒して実力のある者を就けるべし、と考えていました。

故郷を出て大移動を繰り返す冒険の時代は、混乱と分裂を避けるために王への権力集中と同族王を認めていましたが、アラリック2世の戦死とテオドリック大王の統治の後に再び「強い者が王となる」という伝統文脈が復活。強い者が弱い王を倒すことは悪ではなく、これが短命の王が続いた理由と考えられます。

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3. レオヴィギルド王の時代

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レオヴィギルドの中央集権化策

王位に築いたレオヴィギルドは、前王アタナギルドの未亡人と再婚し、都を内陸のトレドに置きました。そして2人の息子ヘルメネギルドとレカレドを共同王に立てました。

レオヴィギルドはイベリア半島の領土の安定化のために軍事行動を積極的に行います。北部のバスク人とカンタブリア人、フランクと繋がり始めていたスエヴィ王ミロ、南部沿岸を占領していた東ローマ帝国を攻撃して、少数勢力の従属と領土の奪還に成功します。

レオヴィギルドは「西ゴート式ローマ帝国」の構築を目指し、国内有力者の弾圧と財産没収を進めて王権の強化を図ると同時に、ローマ皇帝のように玉座に座って紫衣をまとい、自らの姿を彫った独自貨幣を流通させました。

レオヴィギルドは西ゴート族とローマ系住民の「二重構造」の解消にも取り組んでおり、例えば西ゴート族とローマ系住民の結婚が初めて許可されました。

しかしアリウス派とカトリックの融和は非常に難しく、それが表面化したのが息子ヘルメネギルドの反乱でした。

 

ヘルメネギルドの反乱

ヘルメネギルドは妻にフランク国王ブリュンヒルデの娘イングンデを迎えました。西ゴート王女となるにはアリウス派を受け入れなければなりませんが、カトリックのイングンデはこれを拒否。それどころか夫ヘルメネギルドを説得してカトリックへ改宗させてしまいます。レオヴィギルドは驚いてヘルメネギルドを説得しようとしますが聞く耳を持たず、とうとう反乱を起こしてしまいます。

ヘルメネギルドは東ローマ軍に援軍を求めてセビーリャに立てこもり、分離独立の構えを見せました。レオヴィギルドはスエヴィ王ミロの援軍を得た上でセビーリャを包囲し、東ローマ総督に賄賂を贈って軍を撤退させて包囲を狭めました。ヘルメネギルドはコルドバに逃れますが捕らえられて死亡し、反乱は終結しました。

ヘルメネギルドの反乱はレオヴィギルドにアリウス派信仰維持がこれ以上不可能であることを悟らせました。レオヴィギルドは586年に死去しますが、臨終の床でカトリックに改宗したと言われています。

 

4. カトリック改宗と内乱

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レオヴィギルドの死後に即位したレカレド王は、アリウス派とカトリックの司教を呼んで論戦をさせ、カトリックの方に軍配をあげました。そうして自らカトリックに改宗。その後、トレドで第三回トレド公会議を招集し、西ゴート王国のアリウス派放棄とカトリック改宗を宣言しました。こうして宗教面での二重構造は解消されました。

しかし、西ゴート族伝統の「強い者が王となる」伝統は息づいていました。

レカレド王の死後、王位に就いた息子のリウヴァ2世は有力者ウィテリックの挑戦を受けて敗北。これ以降新たな「挑戦者」が続々と現れ、グンデマル、シセブート、スインティラと短命な王が続くことになります。

630年にスインティラと息子リキメルを破って王位に就いたのはシセナンドという男。彼は安定しない西ゴート王位に秩序をもたらそうと第4回トレド公会議を招集し、西ゴート王国の王位継承ルールを明文化させました。

このルールは100%守られることはなかったようですが、シセナンド王の次王のキンティラ王はこのルールに則って即位したようです。

 

5. 統一法典の完成

しかしこの時点でもまだ二重構造となっていたのが法律です。

西ゴート族とローマ系と2つ存在していた法律体系を統一したのが、642年に即位したキンダスィント王と息子のレケスウィント王。

 

▽キンダスゥイント王

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キンダスウィント王はサラゴサ司教ブラウリオに統一法典「西ゴート法典」の制作を命令し、レケスウィント王の治世の653年、第8回トレド公会議で提案されました。

 キンダスウィント王は即位した時点で72歳の老人でしたが、その統治の11年で数多くの法体系の整備が行われ、西ゴート法典はキンダスウィント王の時代に整備された法律を体系的にまとめなおしたにすぎないという説もあります。しかし父がやった法律改革を体系化して定着させたのが息子レケスウィントの仕事だったのでした。

この「西ゴート法典」の完成により、西ゴートでは王権と教会の提携が完成し、王が立法した世俗の法が教会によってお墨付きを得た上で公会議で承認されるというスタイルが定着しました。

 

▽レスケウィント王

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6. アラブの侵入、西ゴート王国の消滅

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エギカ王の「ユダヤ人奴隷宣言」

レスケウィント王は約20年間王座にありましたが、死後再び「挑戦者」たちが混乱をもたらすようになります。

次王ワムバ即位後にナルボンヌで反乱が起き、鎮圧に向かった将軍パウルスが裏切ってフランク王国軍と結んで王位を要求。ワムバはこれを鎮圧しますが、680年に意識を失い昏睡状態に陥りました。ワムバは剃髪され僧籍に入りますが、その後意識を取り戻し驚異的に回復してしまいます。しかし西ゴートの伝統では一旦僧籍に入った人間は王位に就くことはできなかったため、ワムバはエルウィックを王に指名しました。しかしその後ワムバは王位の返還と還俗を要求。これをどうするかを協議したのが第12回トレド公会議で、結局ワムバの要求は退けられ、失意のうちに死亡しました。

エルウィック王は娘キクシロの夫エギカを王に指名して死亡しますが、エギカは王位に就くなりエルウィックの親族への弾圧を開始。エギカ派とエルウィック派の対立が深まります。

693年にはトレド司教シスベルトが反エギカの陰謀に加わっていたことが判明し、シスベルトの破門とエルウィック派の貴族の追放と財産没収が決議されました。第16回トレド公会議では「キリスト教に改宗しないユダヤ人の財産没収」も決議され、以前はユダヤ人に対して寛容だった西ゴート内で宗教による不寛容の流れが起きていました。

とうとう第17回トレド公会議でエギカ王は「ユダヤ人は王国を転覆しようとしている」として「ユダヤ人を永久に奴隷にする」ことを宣言しました。

これが全面的に履行されたかは不明ですが、ユダヤ人が西ゴート支配層への反発を高め離反したのは間違いありません。

 

イスラム帝国の侵入、西ゴート王国の崩壊

エギカ王の死後、息子ウィティザが即位します。ウィティザの統治下の国際情勢は緊迫しており、北アフリカでは東ローマ帝国の領土が怒涛の勢いで新興のアラブ帝国に飲み込まれていました。698年にはカルタゴが陥落し、同年バレアレス諸島、サルディーニャ島、マヨルカ島、イビサ島、メノルカ島など西地中海の島々も占領されていました。

イベリア半島への到来も間近だったにも関わらず、西ゴートの王位を巡る争いは相変わらず混乱を続けました。

710年にウィティザが死に、息子のアキラが即位するも有力者のロドリーゴが反乱し王位を奪ってしまいます。アキラは父王ウィティザ派を糾合しロドリーゴと戦うも、戦力は拮抗し決着がつきませんでした。

そこでアキラが頼ったのがアラブ帝国でした。

711年、アラブ帝国ウマイヤ朝のイフリーキヤ総督ムーサは将軍ターリク率いるベルベル人部隊約7,000をイベリア半島に送り込みます。ロドリーゴはグアダレーテ河でイスラム軍を迎え撃ちますが、アラブ騎兵の突進の前に総崩れとなり、ロドリーゴも混乱の中で馬から落ちて溺死。西ゴート軍は大敗を喫します。

その後ターリクは首都トレドに無血入城し、ここで西ゴート王国は崩壊したのでした。

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 まとめ

最後まで西ゴート族の伝統である「強い者が王となる」という伝統を捨て切れなかったというか。それを克服するために法的にも整備はしているはずなのですが、伝統の力というのはかくも根強いものかと思ってしまいます。

イベリア半島に侵入したアラブ帝国ウマイヤ朝は、やすやすと旧西ゴート王国領を占領していくのですが、その原因はユダヤ人をはじめ住民が完全に西ゴートの支配層に愛想をつかしており、皆イスラム軍を「解放軍」として迎い入れたことがあります。

西ゴート族もローマ帝国の知恵に学び努力はしたとは思うのですが、やはり200年ちょっとでは難しかったのでしょうか。

 

 参考文献

世界歴史体系 スペイン史1-古代〜近世- 関哲行・立石博高・中塚次郎 山川出版 2008年7月15日1版第1刷