騎士道が息づいていた時代の古き良きイングランド
百年戦争時代のイングランドは、騎士道精神が息づいていた時代で「古き良きイングランド」で人気がある時代です。
騎士道精神と一口で言っても、サムライのように主君に忠誠を誓うような人ばかりではなく、信念に従ってイギリス国王に死ぬまで抵抗する「騎士道」の形もあったわけです。
1. 第2代ランカスター伯トマス 1278-1322(イングランド)
国王エドワード2世と対立し殺害された有力諸侯
第2代ランカスター伯トマスの祖父は英国王ヘンリー3世で、国王エドワード2世とは従兄弟にあたる関係です。国王に最も近い親類筋ということで資産や領地は莫大で国内有数の貴族でしたが、エドワード2世との関係は最悪でした。
というのも、エドワード2世は幼馴染のコーンウォール伯爵ピアーズ・ギャヴィストンのみ信頼して他の諸侯を信頼せず、国王とギャヴィストンのみの密室政治が展開されていたのです。諸侯は反発し、必然的に国王の従兄弟であるトマスは反国王のリーダー的存在になります。
反国王の諸侯たちは武力を背景に自分たちの利権と政治力の確保を図った王室改革案をエドワード2世に迫ります。その中にはギャヴィストンの追放も含まれており、エドワード2世は渋々ギャヴィストンを国外追放しました。しかしエドワード2世はこっそりギャヴィストンを国内に呼び戻します。これを知った諸侯たちは激怒。1312年6月、トマスをリーダーとした諸侯はエドワード2世とギャヴィストンを攻め、最終的にギャヴィストンを捕えて処刑してしまいます。
この事件はイングランド諸侯の間でセンセーショナルな議論を巻き起こし、エドワード2世とトマスを決定的に離反させることになりました。一説によると、エドワード2世とギャヴィストンは恋人であったそうです。
その後、イングランドを飢饉が襲った中、イングランド軍はスコットランド軍とバノックバーンで戦い大敗を喫します。エドワード2世の求心力は低下して反国王勢力が影響力を増し、この戦いに参加していなかったトマスは1316年の議会で議長になり、かねて主張していた改革を推進していくことになります。
しかし、トマスは生粋の武人で政治家ではなかったため、改革の進め方が分かっておらず政策は停滞し、すぐに諸侯の期待は失望へと変わってしまいました。
諸侯は次第にトマスから離れていき、その中でウィンチェスター伯が諸侯の代表として台頭。エドワード2世とも協調するようになっていきました。
危機感を強めたトマスはウィンチェスター伯追放を求めて寡兵で軍事蜂起しますが、1322年6月のバラブリッジの戦いで圧倒的な兵数の国王軍に敗れ、捕えられて処刑されました。
2. 初代カーライル伯アンドリュー・ハークレイ 1270-1323
ランカスター伯トマスを捕えた誇り高き騎士
アンドリュー・ハークレイはバラブリッジの戦いでランカスター伯トマスを捕えるなど、数多くの手柄を立てたことで有名な騎士です。
長年イングランドとスコットランドの国境地帯の警備を担い、その武威でスコットランドの独立を確かなものとした国王ロバート・ブルースと対峙しました。ロバート・ブルースはスコットランドを武力で統一し、イングランド国境地帯の小城を落としていき、国境を南下する構えを見せていました。
1313年にアンドリューは国境地帯の対スコットランド防衛を整えるも、1314年のバノックバーンの戦いでイングランド軍は大敗北。この時ロバート・ブルースはイングランドの騎士ヘンリー・ド・ブーンと一騎打ちをし、愛用のバトルアックス一太刀で騎士を討ち取りその武威を大いに高めました。
イングランド国王エドワード2世はアンドリューに多額の資金を渡し、スコットランドの南下を防がせようとしました。アンドリューは派閥としてはランカスター伯トマスの一派で、エドワード2世としては北方の守備の要であるアンドリューを味方につけておきたいところでした。トマスがエドワード2世に対し反乱を起こした時、トマスはアンドリューに味方になるように迫りますが、ここでアンドリューは国王派につくことを決心。バラブリッジの戦いでアンドリューの軍はトマスの軍を打ち破り、トマスの裁判、処刑が行われました。
大いに名声をあげたアンドリューは、今度はスコットランドとの戦いでの活躍を期待されるのですが、彼自身はロバート・ブルース率いるスコットランド軍にイングランドは敵わないと思っていました。そこでエドワード2世に内緒でロバート・ブルースと交渉し和平案をまとめあげてしまいます。
エドワード2世は激怒しアンドリューを裁判にかけました。アンドリューは「イングランドのために最善をつくしただけだ」と弁明しますが、エドワード2世は聞き入れずに彼を絞首刑にしてしまいました。
アンドリューの死後エドワード2世はスコットランドとの和平案を破棄しますが、わずか3ヶ月後に休戦協定に署名したのでした。
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3. 第3代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー 1321-1368
エドワード3世に忠誠を尽くした騎士
パーシー家は血の気が多く扱いづらい男たちを多く排出してきた家柄でした。
パーシー家で最も有名なのが、初代ノーサンバランド伯の子ヘンリー"ホットスパー"パーシー。彼は英国王ヘンリ4世の不誠実に憤慨して父と共に反乱を起こし、シュルーズベリーの戦いで壮烈な戦死を遂げました。
苛烈な血の家系の中で異質だったのが第3代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー。彼はエドワード3世に絶対的な忠誠を尽くしました。百年戦争でクレシーの戦いに従事した後、スコットランド国境の防衛に当たりましたが、彼は他の諸侯がしたようにスコットランドに自分の所領を広げるといった野心を持っておらず、ただひたすら英国王の命令に忠実であり続け、第二次スコットランド独立戦争では和平案のベリック条約の締結に貢献し、長年に及ぶスコットランドとの戦争の終結に成功しました。
エドワード3世のパーシーへの信頼は非常に厚く、1362年にはパーシーの息子にスコットランド政府と交渉する外交権を与えたほどでした。
4. 第11代ウォリック伯トマス・ド・ビーチャム 1313-1369
「悪魔のウォリック」と恐れられた老騎士
第11代ウォリック伯トマス・ド・ビーチャムはガーター騎士団の最古参のメンバーで、エドワード3世やエドワード黒太子らと共に百年戦争を戦った、イングランド騎士が最も華やかだった時代に活躍した人物。ちなみにガーター騎士団は現在のイングランドの最高勲章であるガーター勲章にあたります。
トマス・ド・ビーチャムは百年戦争初期の頃のイングランド軍の中心人物です。1346年8月のクレシーの戦いではエドワード黒太子の個人的な傅役として戦略を描き、戦いを勝利に導きました。後にエドワード3世は1,000マルクを与え、その功績と勇敢さを讃えて国王への変わらぬ忠誠を求めたのでした。
トマス・ド・ビーチャムは40歳を超えても体力は衰えず非常にマッスルで、他の諸侯が老齢を理由に引退する中で戦場で活躍し続け、イングランド軍が大勝利を納めたポワティエの戦いでもエドワード黒太子の側近を務め勝利に貢献しました。
トマス・ド・ビーチャムと初代サリスベリー伯ウィリアム・モンタギューは、戦場で「どちらがいかに多くのフランス人の血を流させるか」を競い合っていたらしく、その蛮勇さはフランス軍の間でも有名で、フランスのブルゴーニュ伯は「悪魔のウォリックが来たぞ!」と聞き一目散に戦場から逃げ出してしまったそうです。
5. ジャン3世・ド・グライー 1330-1376
英国王に死ぬまで忠誠を誓った「フランス人」
ジャン3世・ド・グライーは、現在のフランス南部ガスコーニュ地方の侯爵でしたが、フランス王への忠誠を拒否してイングランド王に忠実に仕えた人物です。
ジャン3世の曽祖父であるジャン1世・ド・グライーは、イングランドに赴いてヘンリ3世とエドワード1世に忠誠を誓い、BenaugesとCastillonの地の子爵に任命されました。その後父であるジャン2世・ド・グライーがガスコーニュの中心地ラ・テスト=ド=ビュックの侯爵職"キャプタル・ド・ビュック"を買収しました。
1355年、ジャン3世はガスコーニュの使節と共にイングランドのエドワード3世を訪れ、イングランド王室によるガスコーニュの直接統治を要求し、百年戦争にイングランド側で参戦。翌年のポワティエの戦いではフランス軍を包囲し、フランス王ジャン2世を捕虜にするという大戦果を上げました。
1364年にフランス軍の捕虜になった際、フランス王シャルル5世から土地と称号と引き換えにフランス軍に寝返るよう求められますがこれを拒否。身代金を支払って保釈され、ナバラ王国の傭兵として働いた後、1366年に再びイングランド軍に加わります。
1372年にスービーズを攻撃していたフランス軍の小部隊に勝利するも、すぐに別の大軍に囲まれ再び捕虜に。この時もフランスへの寝返りを頑なに拒否し続けました。フランス軍の間でジャン3世の勇名は轟いていたため、フランス軍は彼をパリに送って拘留し続けました。拘留中もフランスへの寝返りを求められ続けますが、彼はずっと拒否を続け、1376年にエドワード黒太子が病死したことを知ると食物を食べることを拒否し、とうとう飢餓のため死亡しました。
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まとめ
この時代のイングランドの騎士は、スコットランドやフランスといった外敵とも戦い、利権を侵害してくる王権や諸侯とも戦い、戦国時代の日本の武士のように戦闘に鍛えられ、独自の行動規範や文脈があったように思えます。
この時代のイングランド騎士はタレント揃いで、1冊の本にできるくらい面白いので、また今度紹介したいと思います。
参考サイト
"A Royal Traitor: The Life & Execution of Thomas of Lancaster" fourtycenturyfined.com
" Henry of Grosmont, 1st Duke of Lancaster, (circa 1310 - 23 March 1361)" English Monarchs
"10 Awesome Medieval Knights You’ve Never Heard Of" Listverse