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新たな秩序を求めて抗争が続いた16世紀のラテンアメリカ
16世紀前半にラテンアメリカに侵入したスペイン人征服者(コンキスタドール)は、火砲や馬といった優勢な武器、原住民同士の反目を利用して征服を実行し、1522年にはコルテスがアステカ帝国を、1533年にはピサロがインカ帝国を滅ぼしました。またスペイン人が持ち込んだ病原菌は免疫のない原住民の命を容易に奪い、原住民人口の大幅な減少をもたらしました。
ただし、原住民もただスペイン人にやられっぱなしだったわけではなく、帝国の王族の末裔を担いだり、宗教指導者の下に集まったりしてスペイン人支配に抵抗しました。
また征服した側のスペイン人も、スペイン本国に富を収奪されることを嫌い、独自の支配を求めてたびたび本国に歯向かっています。
16世紀のラテンアメリカは、スペインの植民地としての体制がまだ整わず半ば混乱状態にあり、その中で様々なグループが新たな秩序の構築を目指してうごめいていた時代でした。
今回はそんな中で起こった暴動・反乱事件をピックアップしていきます。
1. ゴンサロ・ピサロの反乱(1544年)
ラテンアメリカのスペイン王室に対する最大の反乱
ゴンサロ・ピサロはインカ帝国を滅ぼしたフランシスコ・ピサロの異母弟。若くして兄の遠征隊に付き従い、インカ制圧後、恩賞としてペルー南部やボリビアにいくつかのエンコミエンダ(スペイン人入植者に属する信託統治領)を得ました。
1541年、兄フランシスコがリマで暗殺されると、彼は当然兄のペルー総督の地位を自分が受け継ぐものと思っていたのですが、スペイン国王はフランシスコ死後の混乱を収めるためにバカ・デ・カストロという男をペルー総督に任命しました。ゴンサロは渋々これを認めますが諦めたわけではなく、自領のエンコミエンダの経営を通じて富を蓄えタイミングを待ち続けました。
1542年7月、カルロス1世は新大陸のエンコミエンダ制を廃止し、スペイン王室直轄のメキシコとペルーの副王が植民地を一括で管轄する「インディアス新法」を発布しました。この新法では原住民の奴隷解放も義務付けており画期的な法律ではありましたが、利権を手放したくないスペイン人征服者から大きな反発を買います。新法に反対するエンコミエンダ保有者は英雄ピサロの弟ゴンサロの元に続々と集まりました。
1544年10月、スペイン兵1,200名、原住民の兵数千人を率いたゴンサロはリマに入城。国王配下の司法機関アウディエンシアの議員たちは直ちにゴンサロをペルー総督に任命。前総督のヌニュス・ベラは、スペイン国王の錦の御旗の元、ペルー各地から兵をかき集めゴンサロの軍と戦いますが、兵力が倍以上もあるゴンサロ軍に敗れました。
国王カルロス1世はゴンサロの反乱に対し、ペドロ・デ・ラ・ガスカという聖職者に国王の書簡を持たせてラテンアメリカに派遣しました。ガスカはパナマに到着すると、ゴンサロの部下たちに対し国王の書簡を見せた上で
「王室に忠誠を誓う者は特赦を与える」
と説き、反乱から足を洗うように説得しました。
「国王からの絶対命令」という言葉を聞いてゴンサロの部下たちは青ざめ、次々にガスカの配下に加わります。大量出血のようにゴンサロ軍からは兵が離脱していき、ゴンサロは戦意の低いわずかの兵を率いて1548年4月にガスコ軍と対決して大敗北を喫して捕まり、直ちに処刑されました。
2. ロペ・デ・アギーレの反乱(1561年)
ペルー独立運動の「元祖」
ロペ・デ・アギーレという男は初めてラテンアメリカをスペインから「独立」させようと画策した男。アギーレは国王フェリペ2世を名指しで批判し、スペインの支配により新大陸には不幸がもたらされたとし、暴政からの解放のために独立をすると宣言しました。後のラテンアメリカ独立の英雄シモン・ボリバルはアギーレを「中南米独立のパイオニア」として評価しています。
アギーレはゴンサロの反乱では王党派に属してゴンサロ軍と対決しましたが、その後ペドロ・デ・ウルスアという男がリーダーの探検隊に加わりアマゾンの黄金郷探索に加わりました。しかし探検隊はゴロツキどもの集まりで結束とは程遠く、アギーレは野郎どもを糾合してリーダーのウルスアに反抗。ついに殺害してしまいます。
アギーレは探検隊の一味だった貴族出身のフェルナンド・デ・グスマンを新たにリーダーに選出して黄金郷探索を続けますがまったく見つからない。黄金郷に人生一発逆転を賭けていて後に引けないアギーレは、探検隊を母体にしてスペイン兵を糾合してリマに攻め入り、グスマンをペルー王に就けてスペインから独立し自分たちの天下を築こうと考え始めます。
当然反対する者が多数出ますがアギーレは反対者を殺害。王に推薦されたグスマンも尻込みしたので殺してしまって、今度は自分でペルー王と名乗るようになりました。
アギーレはアマゾンのど真ん中でスペインからの独立を宣言。アマゾン川を降って大西洋に出ると、現地のスペイン兵を糾合し、武器弾薬を手に入れ、船でベネズエラに行き、そこからペルーを目指そうとしました。
しかし途中で植民地政府が派遣した討伐軍に遭遇しコテンパンに叩きのめされ軍は壊滅。その後元部下に撃ち殺されました。
3. マルティン・コルテスの反乱(1563〜1566年)
征服者コルテスの息子が起こした反王室反乱
アステカ帝国を征服したエルナン・コルテスの息子はマルティンという名で、1563年に本国スペインから第二代オアハカ公爵としてメキシコに派遣されてきました。
伝説的な征服者コルテスの息子ということで彼の元にはたちまち人が集まり、一大勢力を形成してしまいました。メキシコ副王ルイス・デ・ベラスコはこの勢力が反体制勢力とならないように注意深く対応していましたが、タイミング悪くベラスコが死んでしまいます。
副王の死により植民地政府の統治力が緩み、常日頃スペイン国王により自分たちの利権が侵害されないか心配していたエンコミエンダ所有者たちは、この機に乗じて国王の支配から逃れて自分たちの天下を作ってしまおうと考え、その首領にマルティン・コルテスを担ぎました。司法機関アウディエンシアと武器庫を制圧して、議員たちを全員殺害して行政機関を乗っ取ってしまう計画をたて、秘密裏に準備を進めました。
しかしマルティンは父エルナンと違って決断力に欠け、悪い意味で「いい人」だったようで、反乱軍にも議員たちにもいい顔をしてなかなか腹をくくらない。しびれを切らしたエンコミエンダ保有者アロンソ・ゴンサレスを筆頭に反乱の中心人物たちはマルティンを見限ろうとしますが、タイミング悪くアロンソが死亡して組織がゴタゴタし始めます。計画がズルズル後ろ倒しになって、アウディエンシアの議員に計画が漏れてしまいます。マルティンをはじめ主だった連中は全員に逮捕されてしまい、マルティンは釈放されましたが主要な首謀者たちは処刑されました。
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4. ビルカバンバのインカ帝国の抵抗(1537〜1572年)
35年間の間抵抗を続けたインカ帝国の亡命政権
インカ帝国は1532年にフランシスコ・ピサロによって滅ぼされますが、その残党がビルカバンバという土地に逃れ35年もの間武装抵抗を行い、また独自に統治も行いました。
ピサロはインカの残党や地方勢力を糾合するため、マンコ・インカ・ユパンキを傀儡の皇帝に就けますが、彼は1563年にクスコを脱出してインカ帝国の残党10万を糾合し、クスコのスペイン兵と対決しました。
しかしインカ軍はクスコを落とすことができず、残党はクスコ北西の山深いビルカバンバに逃れました。マンコ・インカとその息子たちは1571年までこの地を独自に統治しクスコ周辺でゲリラ活動を展開しますが、第5代副王フランシスコ・デ・トレドの派遣した軍によりビルカバンバが陥落。最後の皇帝トゥパク・アマルーは処刑されました。
5. チチメカ戦争(1550〜1590年)
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メキシコ最大の先住民反乱
メキシコ北部のヌエバ・ガリシアでは、1541年〜42年にかけてチチメカ人の大反乱が発生しました。チチメカ人は単一の民族ではなく、メキシコ北部に住むナワトル語系諸部族を総称した呼び名で、具体的にはグアチチル、サカテコ、グアマレなどの部族です。
当時の先住民はスペイン人に土地を奪われ富を収奪され、文化もアイデンティティも否定され、社会の雰囲気は逼塞感に満ちていました。
そんな中で先住民の間に「千年王国運動」が燃え広がることになります。
千年王国運動はキリスト教的な概念ですが、もともと先住民の間には「ある日救世主がやってきて昔のユートピアが蘇る」といった伝承があったため、そこにキリスト教の文脈の自然に受け入れられました。チチメカの千年王国運動の根底にあったのがチチメカの呪術師の予言で、曰く「神トラトルが死んだ祖先と共に蘇り、キリスト教の一夫多妻制が放逐され昔の婚姻形態が復活し、蘇った先祖は大量の財宝をもたらし人々は豊かになり、畑は豊かに実り老人は若返る」というもの。
1541年からチチメカ人はスペイン人の町や輸送隊の襲撃を開始し、4,000人以上のスペイン人と同盟国人が殺害され、大量の物資や財が奪われます。
メキシコ副王アントニオ・デ・メンドーサは軍を組織してチチメカ人が篭る山岳地帯の要塞を攻撃しますが頑強な抵抗にあい失敗し、それどころか平地の町の守備隊も襲撃を受けて壊滅し略奪にあい、銀鉱山も襲撃され操業ができなくなり、とうとう大都市グアダラハラまで攻撃を受けました。
グアダラハラの司教は1584年、武力で鎮圧しようとしてもさらなる反発を招くだけであるとして「キリスト教の啓蒙による和平」を呼びかけ、「優しい征服」に乗り出しました。チチカカの指導者と交渉しつつ、好戦的なスペイン兵を前線から追いやって友好的なスペイン人、司祭、キリスト教徒の原住民の町を作り、食料、道具、医薬品、衣料などの流通を通じて、徐々にチチメカ人のスペイン人に対する警戒感を和らげていき、同時に「正しい」キリスト教の布教活動も行うことによって、6年後にようやく和平を成し遂げることができたのでした。
6. アラウコ戦争(1536年~19世紀前半)
最も長期間続いた南部チリの先住民反乱
チリ中南部からアルゼンチン南部には先住民族のマプチェ族が住んでいました。マプチェもチチメカと同じように南部の諸部族を総称した呼び名ですが、スペイン人到来以前はインカ帝国の武力侵攻にも屈せずに独立を守った誇り高き民族です。
スペイン人がチリに到達したのは1531年、コンキスタドールのディエゴ・デ・アルマグロ。マプチェは馬というのを生まれて初めて見たため、乗馬姿のスペイン人を見て「半獣・半人」だと信じて驚き逃げてしまい、最初の軍事衝突ではほとんど犠牲者を出さずにスペインの勝利に終わりました。
次に来たスペイン人はペドロ・デ・バルディビア。彼はペルーの南の土地を制圧し自分の土地を作ろうとチリにやってきて、現在のチリの首都サンティアゴを建設しました。その後も南へ征服を続け、ビオビオ川の先にまで到達しました。
その後ゴンサロの反乱の鎮圧に貢献した後、バルディビアはチリの総督に任命され、1541年に再度サンディエゴに舞い戻り、再度の征服の準備に取り掛かっていたところ、ミチマロンコ率いる8,000~2万のマプチェ軍による攻撃を受け、サンディエゴの町の大部分が破壊されました。この成功を受けてマプチェの部族が続々とスペイン人に対して反旗を翻します。
バルディビアは敵対的な部族の鎮圧のためにスペイン兵60名とインカ兵数千名を引き連れてビオビオ川を渡りました。ここでマロケテ率いるマプチェ軍の攻撃を受け撤退。バルディビアは各地に要塞を築いて面で支配を広げていく作戦を採りました。
しかしマプチェ側にカリスマ的な軍事の天才ラウタロが登場します。
ラウタロはわざとスペインの人質になってヨーロッパ流の戦いを学び、脱出して故郷に戻ってきたという若者。マプチェの軍事力を組織化させたラウタロは、バルディビアがサンディエゴ不在中にスペイン人が作った砦を完全に破壊してスペイン兵やインカ兵を殲滅。バルディビアは挽回しようとしますが、1554年2月の戦闘でマプチェ軍に捕まって処刑されました。
ラウタロはその後サンティアゴへの攻撃の最中にスペイン兵の急襲にあって殺害されてしまいます。
しかしラウタロの死後もカウポリカンやガウヴァリノなど、優秀な指導者が現れてスペイン人との戦争を指揮しました。戦争状態と和平の状態が交互に続きましたが、マプチェは長い間征服されず、1810年にチリがスペインから独立する際も交戦状態は続いていました。
1861年からチリ政府は「未開拓」のマプチェの土地を開拓するために武装開拓団を南部へ次々送り込みます。それに対しマプチェも抵抗しますが、近代的な武器で武装したチリ軍の敵ではなく、マプチェは次々と玉砕していき、1883年までに抵抗はほぼ鎮圧されました。
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まとめ
スペインはコンキスタドールを先兵にしつつ、御しがたい野郎どもを時には脅し時には誉めそやして、うまく富を吸い上げようとしました。スペイン王室も強欲だったのですが、相次ぐ戦役で財政は常に火の車で大量の借金を抱え、とにかくカネが必要だったのです。しかし植民地のスペイン人たちは「俺たちの血と汗を流して勝ち取った土地だ、なぜ本国の連中に奪われねばならん」と思うわけです。
そういった本国と植民地の対立もあるし、植民地のスペイン人たちも決して一枚岩ではなく、そこに先住民の反乱も加わって、まさにカオスといった具合です。
南米ではその後クリオーリョ階級が台頭し、彼らを中心にスペインからの独立を成し遂げますが、その後も独立した国同士でまた血で血を洗う戦争が続きます。
17~18世紀のラテンアメリカの戦争についてはまた今度まとめたいと思います。
参考文献・サイト