19世紀に入って変わるクルチザンの形
ヨーロッパの高級娼婦の後編です。
前半ではルイ15世の愛妾を中心に、フランス革命前の「古き良き」宮廷に侍ったクルチザン(高級娼婦)たちをリストアップしました。前編はこちらよりどうぞ。
フランス革命が勃発後、急速に現代的な価値観が世の中に浸透していく中で、どのようにクルチザンの形が変わっていったのかを見ていきたいと思います。
7. ドロシー・ジョーダン 1761–1816(イギリス)
国王ウィリアム4世即位前の愛妾
ドロシー・ジョーダンは愛称をドーラとも言い、アイルランド人の父とウェールズ人の母との間に生まれたごく普通の庶民の出です。
幼いころから機転が利いて愛想がよく、なにより大変美しかったドロシーは、1777年に16歳で舞台デビューを果たして主に喜劇の「おてんば娘」の役で活躍しました。当時の舞台女優は愛妾も兼ねていたこともあり、様々な男たちがドロシーに言い寄り、29歳ですでに複数の男との間に5人の子を儲けていました。
1790年にジョージ4世の弟であるクラレンス公爵が彼女を見初めて愛人にします。クラレンス公爵はよほどドロシーのことを気に入ったのか、自らの宮殿に住まわせて夫婦同然に暮らし、10人の子を儲けました。作りすぎ!!
子だくさんで養育費もかかるということで、クラレンス公爵はドロシーにロンドンにあるブッシー・ハウス(Bushy House)を与えて住まわせ、財政的なサポートもしました。ドロシー自身も生活費を稼ぐために相変わらず舞台に立ち続けており、また他の男たちともたびたび密会を続けていたそうです。
しかし1811年、英王室はクラレンス公爵に適当な結婚相手を見つけるように圧力をかけ、とうとうクラレンス公爵はドロシーと別れることに。ドロシーは「二度と舞台に立たない」という条件付きでクラレンス公爵から年金をもらうことになりました。
しかし1人の娘の結婚相手が膨大な借金を残し、ドロシーがその負債を相続することになったため、借金を返すためやむなくドロシーは再び舞台に立ってお金を稼ぎます。その代わり、クラレンス公爵からの年金はストップしてしまいました。ドロシーは首が回らなくなりフランスに逃げ、1816年にパリで貧困にあえぎながら死亡しました。
クラレンス公爵はその後、1831年に英国王ウィリアム4世として65歳で即位します。ドロシーが貧しく死んだことがずっと贖罪意識としてあったのか、王位についてからドロシーの像を作らせバッキンガム宮殿に飾らせたのでした。
8. ラ・パイヴァ 1819-1884(フランス)
贅沢な暮らしのためにのし上がった伝説的なクルチザン
ラ・パイヴァは19世紀前半のフランスを代表するクルチザンで、一介の売春婦から当代きってのセレブリティにまで上り詰めた女として有名です。
出身はロシアで、ユダヤ人とポーランド人の貧しい家庭に生まれました。フランスに移住してテレーザと名乗り、17歳の時に仕立て屋の男と結婚して子どもを儲けますが、1年後に出奔してパリに赴き売春宿で働き始めます。
彼女は白い肌の美しい女性ではありましたが「大きすぎる目」で「梨の花のようなつぶれた鼻」で、とびぬけた美人ではなかったようです。しかし自分よりはるかに美しいライバルの女たちとの競争に打ち勝って人気の嬢となりました。
1841年、22歳の時に自称ピアニストで資産家のヘンリ・ヘルツと出会い、自ら未婚と偽って結婚。まんまと玉の輿に乗ったテレーザは絵画、宝石、衣装など大量に買いあさり、サロンを主催して気前よくカネをばらまき、その浪費ぶりは資産家ヘルツ家の財政を傾かせるほどでした。我慢ができずヘルツの両親はヘルツがアメリカに出張に行った隙にテレーザを家から叩き出してしまい、テレーザはまた文無しになって売春宿に戻りました。
しかしラッキーなことに、ドレスの仕立て屋のアドバイスで赴いたロンドンでテレーザはポルトガルの伯爵アルビーノ・フランチェスコ・デ・パイヴァ=アラウージョと出会い取り入ることに成功。伯爵と結婚しラ・パイヴァという名前と多額の資産を手に入れました。
ラ・パイヴァがロンドンにいたころ1848年2月にパリで2月革命が起き、ルイ=ナポレオンが大統領に就任。その後1852年に皇帝ナポレオン三世として帝位に就き、第二帝政がスタートしました。
第二帝政下では贅沢が復活し、人々は享楽的な雰囲気の中消費を楽しみ、ラ・パイヴァはそんな社会で伯爵の資産を湯水のごとく使い、男性関係も放漫に楽しみつくす。伯爵はそんなラ・パイヴァに絶望したのか、リスボンに戻って自殺をしてしまいました。資産はすべてラ・パイヴァのものとなりました。
ラ・パイヴァはその後、プロイセンの資産家グイド・ヘンケル・フォン・ドナースマルクと結婚。ドナースマルクは多額の資金を与え、それを元手にラ・パイヴァはパリのシャンゼリゼ通り25番街に「ホテル・デ・ラ・パイヴァ」をオープン。
Photo by Tangopaso
現存するこのホテルは、階段は黄色のオニキスで作られ、バスタブの蛇口は宝石で飾られた大変豪華なあしらいで、ラ・パイヴァはここで夜な夜な上流階級の紳士を招いて大宴会を楽しんだそうです。
しかし1871年に普仏戦争が勃発すると、彼女はドイツのスパイと非難されてフランスを追放され、遺産を抱えてポーランドのシレジアの邸宅で晩年を過ごし、1884年に65歳で死亡しました。
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9. コーラ・パール 1835-1886(フランス)
フランス第二帝政の男たちを魅了した「ドSの女王様」
コーラ・パールはフランス第二帝政期を代表するクルチザンで、文化の中心地パリの中でさらに流行の先端を開拓し新たな時代の女性像を築いた、「時代の寵児」と言える女性です。
生まれは1835年頃、イギリスのポーツマス。本名はエマ・エリザベス・クラッチ。
父は売れない作曲家で、大成を夢見て家族を捨てアメリカに渡ってしまいます。母の新たな彼氏はエマとうまくいかず、母はエマをフランスにある寄宿制学校に入れてしまいます。ここでエマは、英語訛りはとれなかったものの、フランス語をマスターしました。
卒業後、エマはイギリスに戻り祖母の家に住みますが、ある時男から性的暴行を受けたことがきっかけで「まともな道には戻れない」と考えて家出をし、ロンドンで娼婦として働き始めます。クラブ経営者のロバート・ビッグネルの愛妾となったエマは、彼と一緒にパリに旅行し、その華やかな雰囲気に憧れを抱きパリに移住。エマの名前を捨てて、コーラ・パールと名乗り始めました。
コーラのステージはお色気とド派手な演出で有名で、観客の前でシャンパンの入った銀のバスタブに入浴してみせたり、絨毯の上で裸で踊って見せました。コーラは寄宿制学校で学んだこともあってマナーや教養は申し分なく、すぐにフランス第二帝政下の富裕層・権力者の評判を得て何人かと愛人関係を結びます。
彼女と愛人になった人物で有名なのが第3代リヴォリ公爵ヴィクトル・マセナで、彼はコーラに大金と高価な贈り物を送りまくり、馬までプレゼントしました。コーラはそのおかげか乗馬が好きになり、後には60頭もの馬を有する大馬主にすらなりました。
その他にも、ナポレオン三世の異父弟シャルル・ド・モルニー、その従兄弟のナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト、さらにはオレニア公ウィレムまでコーラに夢中になりました。王族や富裕層がコーラに大変な額のお金や贈り物をしたので大変富裕になり、パリに2つの家を持ち、シャトーに1つの城を保有していました。入ってくるカネは天文学的でしたが、コーラはギャンブルの味を覚え毎晩のようにでかい博打を打ち、出ていくカネも天文学的でした。
なぜここまで多くの男性が彼女に夢中になったのか。
理由の1つは彼女の飾り気のない「自然体」な態度。コーラは男に決して媚びず、嫌いな男には張り手を喰らわせたりしたし、高価な贈り物にも感謝どころか不遜な態度をとる有様で、まさに「ドSの女王様」といった感じでした。型にはまり切ったパリの女に飽きていた上流階級の男たちは、英語訛りのフランス語をでつっけんどんな態度をとるコーラに夢中になり、誰が彼女の愛を独占できるかと互いに競い合ったのでした。
またコーラのファッションやメイクは第二帝政下の女性たちに大きな影響を与えました。型にはまらないコーラのメイクは、例えばアイシャドーや日焼け、メッシュカラーなど現在では普通ですが当時のパリジャンからすると「常識はずれ」なものばかり。「自分がやりたいようにやる」というコーラのスタイルは男たちの賞賛を得て、女たちの憧れになったのです。
しかし37歳の時、アレクサンドル・デュヴァルという若い富裕層が彼女を我が物にしようとしきりに言い寄り、彼女の家におしかけてきました。コーラが拒否したところ、アレクサンドルは持っていたピストルで頭を撃って自殺を図りました。ピストルが暴発して死には至らなかったものの、コーラは重症の彼を玄関先に放置して扉をしめてしまったと言われています。別の説ではコーラはちゃんとアレクサンドルを家にあげて手当をしたという話もありますが、このゴシップがパリ中に流れるとコーラの評判は地に落ち、これまでコーラにラブコールを送っていた男たちは潮が引くようにコーラを見放してしまいます。
コーラはロンドンに戻って再起を図ろうとするも、ロンドンでも上流階級の男たちはこのゴシップを聞いてコーラを相手にしようとせず、失意の中でパリに戻り、これまで蓄えた資産を売却しながら、それでもギャンブル漬けの派手な生活を送ります。お金も底をつき始めた1886年7月8日、51歳で腸癌で死亡しました。
10. ブランシュ・ダンティニー 1840-1874 (フランス)
小説「ナナ」のモデルになったと言われる高級娼婦
エミール・ゾラが書いた小説「ナナ」は自然主義小説の代表格で、日本でも多くの愛読者がいます。貧しい家庭に生まれ育った少女ナナが14歳で娼婦になり、その後舞台女優としてデビューしてたちまち名声を得、上流階級の男たちの愛妾になって豪勢な暮らしをするも、病気にかかって醜い姿になり、全員から見捨てられて貧困の中で死ぬというお話です。
▽エドゥアール・マネ「ナナ」1877年
この小説のモデルとなっていると言われるのが、ブランシュ・ダンティニーという女性です。
彼女はフランスのマルティゼという場所で生まれますが7歳の時に父親が蒸発。3年後母はMarquise de Gallifetという士官の家の使用人となり、ブランシュは修道院に送られて教育を受けました。しかしMarquise de Gallifetが死んだため母はクビになってブランシュも修道院を出るハメになり、母を養うためブランシュはわずか12歳で衣服の販売員をとして働き始めました。14歳の頃に初めて店員仲間に連れられてパーティーに参加し、酒を初めて飲んで泥酔し、夜の華やかできらびやかな世界に憧れを持つようになりました。
若いルーマニア人と駆け落ちしてブカレストに行きジプシーバンドのダンスをしたり、ルーマニア大司教の愛人になったりして食いつなぐも、ホームシックにかかってフランスに戻ってパリに落ち着き、演劇を仕事を見つけて舞台に立つようになりました。
その彼女の初舞台で観客は度肝を抜かれました。
彼女の役は「トロイのヘレンの彫像」役で、一切声を発することも動くこともなかったのですが、肌も露わな衣装を身にまとった可憐な少女のセクシーぶりがスゴイとパリ中で話題に。 一気にスターダムにのし上がったブランシュは、宝石をこれでもかとあしらえたセクシーで華やかで豪華な衣装を次々に変えていくというパフォーマンスで絶大な人気を獲得します。
人気が出るとブランシュは上流階級の男たちとベッドを共ににするようになるのですが、終わった後で金を払わずコッソリ部屋を出て行く男に悩まされることになります。しょうがないので、終わった後男のシャツと自分のガウンを縫い付けることで、出て行こうとする男を引き止めるというソリューションを見つけたのでした。
しばらく後にブランシェはどういうわけか、「球技ボールに似ている小さくて丸い」ルーチェという男に恋をして、裕福な男たちとの関係を一切打ち切って結婚してしまいました。ルーチェとは2年間ともに暮らしますが、ブランシェが高価な貴金属や贅沢品を買いあさったためルーチェは破産し自殺。
ブランシェはその後舞台に復帰するも、病気にかかって部屋に引きこもるようになり、皆から忘れ去られ孤独の中で34歳で死亡しました。
11. ラ・カスティリオーヌ 1837-1899(フランス)
ナポレオン三世の愛妾で元祖コスプレイヤー
ラ・カスティリオーヌまたはカスティリオーヌ伯爵夫人は、本名をヴィルジニア・オルドイーニといい、その名前から分かる通りイタリア人です。
父はトスカーナ大公国のオルドイーニ侯爵で、17歳の時にカスティリオーネ伯フランチェスコ・ヴェサリオと結婚し、息子ジョルジオを儲けました。
ヴィルジニアの従兄弟に、後に統一イタリア最初の首相となるカミッロ・ベンゾ・カヴール公爵がいて、彼の指示の下でヴィルジニアは「特別なミッション」を持ってフランスに赴きした。そのミッションとは、時の皇帝ナポレオン三世の愛妾となり、イタリア統一運動を国際的に後押しすること。1856年にヴィルジニアはナポレオン3世の愛妾となり、フランスとサルディーニャの同盟成立を裏で操ったと言われています。
同時にヨーロッパ王族の社交界にデビューを果たし、その美貌から社交界のスターとなります。ヴィルジニアのファッションセンスは並外れていて、彼女が身にまとうドレスは常に社交界の話題となっていました。
しかしすでに結婚して子どもがいる女性があろうことか皇帝の愛妾になるなんて、という批判が強くあり、世間体を気にする性格のナポレオン三世はヴィルジニアを遠ざけるようになっていきました。
ヴィルジニアは写真モデルとしても有名です。
写真家ルイス・ピアソンは特に彼女に魅了され、40年間で700枚にも及ぶ写真を撮りました。ヴィルジニアは大金を投じて聖書や文学に登場するキャラクターをはじめ様々なシチュエーションの写真を撮影しました。
シェークスピアの戯曲「マクベス」に出てくるレディー・マクベス、エリザベス1世の生母アン・ブーリン、トランプのハートのクイーン、ギリシア神話のメーディア、修道女、売春婦、棺の中の死体など、様々なコスプレをしました。元祖コスプレ女王はヴィルジニアと言っていいかもしれません。
彼女のコスプレ写真集はこちらからご覧になれます。
▽創作物の登場人物(?)
▽修道女
▽生足
当時、このように生足をさらすことは局部を露出するようなもので、前時代では想像ができないことでした。ヴィルジニアは新たな時代の表現を開拓していったわけです。
ヴィルジニアは年をとると、パリのヴァンドーム広場にあるアパルトメントに引きこもりがちになり、部屋は真っ黒に塗りつぶし、鏡は全て撤去し、外出は夜だけにして、老いゆく姿を人にも見せず、自分でも見ないようにしていました。
1899年11月28日に62歳で亡くなりました。
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まとめ
19世紀のクルチザンはまた、18世紀のそれと違って興味深いです。
フランス第二帝政期は、パリが世界の文化の中心で、派手で豪華で爛熟した消費文化が花開き、その中でとにかく派手に遊びまくる女性がメインで、宮廷内で政治に関わろうとする人物は見当たりません。
それには人々の価値観の変化もあるようで、かつては皇帝や国王が正妃以外に愛妾をいくつ持ってもよかったし、妾の出自やステータスについても緩やかだったのが、「人妻が国王の妾になるなんて」という価値観が生まれていました。
また女性自身も自分で事業を起こしたり投資をしたりセルフブランディングをしたりと、1人のパトロンに頼らず自分の才覚で人生を切り開いていこうとする傾向があるように見受けられます。
クルチザンを見ていくと時代ごとの女性像の進化が垣間見えて大変興味深いです。
参考サイト
" Dorothea Jordan, Actress and royal mistress ,1761- 1816 "The Twickenham Museum"
" La Païva: 19th Century Paris’ celebrity prostitute" BBC - Culture
"Virginia Oldoini, The Star of Early Photography" HISTORY DAILY