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18〜19世紀のヨーロッパ高級娼婦のゴシップ伝説(前編)

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贅沢な暮らしと絶対的な権力を得た女たち

フランス語では「クルチザン(Courtesan)」と言うのですが、昔の宮廷や貴族の社会には上流階級の男性の「お遊び」の相手をする女性がいました。お酒や食事の相手をしたり、会話やデートをしたり、夜の相手をしたりします。日本語では「高級娼婦」などと呼びます。

必ずしも出自が高い人物とは限らず貧しい生まれの女性もいて、豪華で贅沢な生活や権力の座を夢見て美貌と才覚でのし上がり、王族や貴族の愛人の座を射止めるケースもありました。

また当時の高級娼婦は一流の文化人・芸能人でもありました。今でいうところの、歌手・ダンサー・モデル・女優・アイドル・文筆家・インフルエンサーのような存在であったわけです。現在でも単に美人なだけでは芸能界で生き残れませんが、当時はもっと熾烈な女同士の戦いがありました。

18世紀~19世紀の代表的な高級娼婦の逸話を紹介していきます。今回は18世紀編です。 

 

1. ルイズ・ジュリー・ド・マイイ=ネール 1710〜1751(フランス)

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 実の妹に国王の愛を奪われた欲なき女性

マイイ伯爵夫人の名前で知られるルイズ・ジュリー・ド・マイイ=ネールは、フランス国王ルイ15世の愛妾として有名な女性です。

実家はフランス宮廷に出入りするネール侯爵家で、彼女は従兄のマイイ伯爵と結婚しますが、国王ルイ15世とひかれあい、秘密の愛人となります。

当時の社交界でのルイズ・ジュリーの評価は、「若くて見栄えはいいが、大きな口と歯が醜く、会話をしてもつまらない、自分の意見というものがなく知性のかけらもない」などボロクソな評価でした。しかし彼女はウィットに富んだジョークでルイ15世を楽しませることができる数少ない人物でした。また、ファッションセンスのあった彼女は自分の身体上の欠点を衣服やジュエリーなどで着飾って補うこともできました。

数年間2人の関係は秘密にされてきましたが、1738年7月14日にルイ15世は宮廷の夕食を彼女と摂ることで公式の愛人として紹介され、宮廷に居室を得ました

ルイズ・ジュリーは政治には一切関心がなく、ただルイ15世の愛を欲し穏やかで楽しい時間を過ごすことを求めていたのですが、そこは名だたるプレイボーイのルイ15世、上流階級の女性の尻をおいかけまわしてはルイズ・ジュリーをイラつかせるわけです。

憔悴したルイズ・ジュリーは宮廷に妹であるポーリーヌ・フェリシテを呼び寄せたのですが、なんと彼女がルイ15世の寵愛を奪ってしまったのです。ポーリーヌ・フェリシテはルイ15世の息子を儲けますが出産後に死亡。その後やってきた妹のマリー・アンヌはこれまたルイ15世の寵愛を得て、ルイズ・ジュリーを宮廷から追放してしまいました。

ルイズ・ジュリーはその後、修道院に入り宮廷と比べると貧しく質素な祈りの生活を送り41歳で死亡しました。

 

2. マリー・アンヌ・ド・マイイ=ネール 1717〜1744(フランス)

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リシュリュー元帥と組みフランス宮廷の実権を握った女

シャートルー公爵夫人の名前で知られるマリー・アンヌ・ド・マイイ=ネールは、ネール姉妹の5番目の妹。ルイズ・ジュリーの実の妹です。

 17歳でトゥルネル侯爵と結婚するも田舎暮らしに耐えられず、半ば無理やりパリに引っ越して姉たちの住む宮廷に顔を出すようになりました。マリー・アンヌは器量で言えば長女ルイズ・ジュリーや次女ポーリーヌ・フェリシテよりも優れていて、「優美な髪、白くて輝くような肌、大きな青い目と赤い唇、子供のような笑顔」を持った大変な美人であったそうです。当然、ルイ15世は速攻でマリー・アンヌに目をつけました。 

ルイ15世がマリー・アンヌに惹かれていることを知ったリシュリュー元帥(ネール姉妹の叔父)は、マリー・アンヌをルイ15世の愛妾として送り込むことを目論み、したたかで野心的なマリー・アンヌは「姉ルイズ・ジュリーの追放」と「領地の譲与」を要求。ルイ15世はこれを受け入れ、マリー・アンヌはシャートール公爵夫人という名乗るようになりました。マリー・アンヌは姉ルイズ・ジュリーの凋落から学び、ルイ15世の夜の求めをたびたび断って「お預け」を食らわせることで自分への興味を維持させるという術を得ていました。あまりやりすぎると王の怒りを買う可能性もあり、高度なテクニックであります。

1743年に宮廷の実力者フルーリー枢機卿が死ぬと、マリー・アンヌは宮廷内で絶大な権力を行使し始めます。リシュリューとマリー・アンヌは頻繁に書簡をやりとりし、リシュリューが政策方針を作り、マリー・アンヌが「仕事嫌い」なルイ15世を焚き付けてその方針に同意させるというやり方で、当時の最大の外交問題だったオーストリア継承戦争に取り組みました。マリー・アンヌの実力は列強も感知しており、プロイセンのフリードリヒ大王とも直接コンタクトを取っていました。

権力の絶頂にあったマリー・アンヌですが、1744年12月に急に体調が悪くなり数日後に急死しました。

ルイ15世は嘆き悲しみますが、すぐにポンパドゥール夫人というもっと魅力的な愛妾を見つけ、マリー・アンヌ以上にのめり込むことになります。

 

3. ポンパドゥール夫人 1721〜1764(フランス)

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 ルイ15世時代のフランス政治を牛耳った才女

ポンパドゥール夫人、本名ジャンヌ=アントワネット・ポワソンはルイ15世が最も愛した愛妾であると同時に、長年フランス宮廷に隠然たる影響力を持った実力者でした。同時に当時のフランスを代表する文化人でもあり、彼女が着た服、食べたもの、見たものは必ずヨーロッパ中で大流行するという、現代のハリウッドセレブも顔負けのハイパーセレブリティでありました。

ポンパドゥール夫人はごく一般の庶民の家の出身ですが、母の恋人であった徴税請負人が彼女の才能を見込み、家庭教師をつけられ徹底的に語学・歴史・ダンス・音楽・詩・演劇など教養を叩き込まれました。そのおかげで彼女は美しく教養のある才女として貴族のサロンで名を馳せます。

1744年、彼女はマリー・アンヌを失って打ちひしがれていたルイ15世の寵愛を得ることに成功します。ルイ15世は飽きっぽい性格でしたが、ポンパドゥール夫人は王を楽しませるためにヴェルサイユに劇場を建て、王のためだけに劇を演じました。監督・主演はポンパドゥール夫人本人でした。またポンパドゥール夫人は湯水のように金を使ってあちこちに宮殿や離宮、別荘を建てまくり、建物の内装を飾るためにヨーロッパ中から一流の彫刻家・家具職人・画家が動員されました。

一流の文化人でもあった彼女は、モンテスキューと文学を、ヴォルテールと哲学を論じるほどの知識を持ち、啓蒙思想家たちのサロンを開き学術を保護しました。

ポンパドゥール夫人はかつてのマリー・アンヌのように、仕事が大嫌いなルイ15世に代わってフランスの政治を牛耳り、各大臣を自分の息のかかった人物をつけて長年支配しました。長年の敵オーストリアのマリア=テレジアと和解し、フランス、ロシア、オーストリアのプロイセン包囲網を形成したのはポンパドゥール夫人の意向が強く働いていたとも言います。

30歳を超えて以降は、王と夜を共にすることはなくなりますが、その後も彼女の上流階級での活躍は何者にも代え難く、41歳で死亡するまで活躍し続けました。

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4. キティ・フィッシャー 1741(?)〜1767(イギリス)

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 イギリスの超セレブグラビアアイドル

キティ・フィッシャーは18世紀イギリスで最も著名な高級娼婦です。

その半生は生年も含めてあまりよく分かっていません。もともとは帽子屋の売り子だったようですが、どこかのタイミングで高級娼婦となりました。

彼女の魅力を、ジェノヴァ出身の術策家で当代きってのプレイボーイだったジャコモ・カサノヴァはこのように言っています。

ようやくおしゃれになり始めた輝かしきフィッシャー。彼女の着こなしは驚くべきもので、50万フランの値がつくダイヤモンドを身につけても何らかおかしくない。…彼女は英語しか話せないので、聴覚を含むあらゆる五感で彼女を楽しむのが私は好きだ。…フィッシャーが帰宅した後、ウェルズ夫人はフィッシャーがバターを塗ったパンの上に1,000ギニー紙幣を乗せて食べてしまったと語った。その紙幣はピット夫人の兄弟のアキンス氏からのプレゼントだったのだが、彼女の行為を銀行が感謝してるか私は知らない。

 フィッシャーがお札を食べてしまった逸話は、ジャコモ・カサノヴァが関係を持った女性についても同じような逸話を書き残しているようです。お金を食べてしまったかどうかは分かりませんが、フィッシャーの浪費は大変なものだったようで、年間12,000ポンドも使ったそうです。こちらのサイトによると「1840~1910年代の期間でだいたい1ポンド6.5~8万円」とのことなので、1年間で7億3,000万円〜9億6,000万円を使っていたことになります。そんな金額何に使えるのでしょうか…。

 フィッシャーが有名なのは、名だたる画家が彼女をモデルに絵を描いているため。いわばグラビアアイドルです。最も有名な絵がイギリスのロココ調の画家ジョシュア・レイノルズが描いた肖像画。

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ジョシュア・レイノルズはフィッシャーが殊の外お気に入りで、実際に彼もフィッシャーと関係を持っていたようです。

アイルランド出身の画家ナサニエル・ホーンもフィッシャーの肖像画を描いた画家の一人です。この絵の金魚鉢にはフィッシャーを一目見ようと群衆が窓に詰めかけている様子が、鉢のガラスの反射越しに描かれています。

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その他、フィリップ・メルシエ、ジェームズ・ノースコート、リチャード・パーセルといった画家もフィッシャーを描きました。

フィッシャーは25歳の時に高級娼婦をやめて警察官のジョン・ノリスという男と結婚しますが、わずか4ヶ月後に死亡しました。

 

5. マリー=ルイーズ・オミュルフィ 1737〜1814年(フランス)

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 公式の愛人になろうとしてポンパドゥール夫人に潰された女性 

マリー=ルイーズ・オミュルフィはルイ15世の愛妾だった女性で、画家のフランソワ・ブーシェが描いた裸体の絵によって非常に有名な人物です。

父親はアイルランドにルーツを持つ兵士、母親は娼婦だったようで、あまり良い出自ではありません。幼い頃に父親が死亡したため一家はルーアンからパリに引っ越し、母親は子ども達に女優や娼婦をさせて生計を立てていました。

オミュルフィは幼い頃からヌード画のモデルとして働いており、13歳の彼女の様子を先述のジャコモ・カサノヴァは以下のように表現しています。

可愛くて、ボロボロで、汚くて、小さな生物

多くの画家がオミュルフィを描きますが、フランソワ・ブーシェが描いたオミュルフィのヌード画がルイ15世の目に留まることになります。彼女をルイ15世に紹介したのはポンパドゥール夫人の兄弟であるアベル=フランソワ・ポワソン・ド・ヴァンディエールであるとも、ポンパドゥール夫人本人であるとも言われています。

ルイ15世のお気に召したオミュルフィはポンパドゥール夫人の指示のもと、「鹿の園(Parc Aux Cerfs )」と呼ばれる館に住まうことを許可され、そこでルイ15世の夜の相手を務めました。鹿の園に住まう女性たちは公式の愛妾ではなく、「小さな愛人(Petite maîtresse)」と呼ばれ、ヴェルサイユ宮殿に住まうことは決して許されませんでした。

しかしオミュルフィは非公式の座では飽き足らず、公式の愛妾となってヴェルサイユ宮殿に部屋を持とうと画策したため、ポンパドゥール夫人によって鹿の園を追放されてしまいました

追放の日、突然ルイ15世からJacques Pelet de Beaufranchetという男との「結婚の命令」が下り、朝4時にすぐにパリから出ていくようにと厳命されました。すぐに結婚式が執り行われたのですが、その結婚を取り仕切ったのはポンパドゥール夫人でした。

追放されたオミュルフィは二度と宮廷に戻ることはできず、その後3度の結婚をしましたがいずれもうまくいかず、77歳で娘と同居していた自宅で死亡しました。

 

6. デュ・バリー夫人 1743–1793 (フランス)

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 断頭台の露と消えた成り上がり女性

デュ・バリー夫人の本名はマリー=ジャンヌ・ベキューと言い、托鉢修道士の父と仕立て屋の母という「違法」な関係の娘として生まれました。

母が結婚したためジャンヌはしばらく修道院にいましたが、母が夫に捨てられた後修道院を出て、パリの仕立て屋で働いていました。

ジャンヌは金髪の巻き毛でクリっとした青い目が印象的な美人で、仕立て屋時代から巷ではその美貌が有名だったようです。彼女はジャン=バプティスト・デュ・バリーという貴族の愛人になり、パリの上流階級にデビューし、大臣から貴族まで数多くの男たちと関係を持ちました。

そして1768年、5年前にポンパドゥール夫人を失っていたルイ15世に見初められ公式の愛妾となります。王の公式の愛妾となるには、貴族と結婚していないといけないという通例があったため、ジャンヌは経歴を詐称した上でギヨーム・デュ・バリー伯爵と名目上の結婚をしてデュ・バリー夫人という名前で1769年4月に宮廷入りしました。

デュ・バリー夫人はリシュリュー元帥の甥で法務大臣のエマニュエル・アルマン・ド・リシュリューと結んで影響力を強めました。外務大臣のエティエンヌ・フランソワ・ド・ショワズールは危機感を強め、七年戦争終了後にスペインの側に立って再びイギリスと戦うことで宮廷内の影響力を強めようと画策します。デュ・バリー夫人はこれを暴露してショワズールを追放し、宮廷を牛耳ることに成功します。

デュ・バリー夫人は大変な浪費家で、高価なガウンや宝石を買いまくり、母や兄弟たちにも一等地に住居を与えて贅沢な暮らしをさせ、国庫の疲弊を招くことになります。

 

▽デュ・バリー夫人のダイヤのネックレス

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しかし1774年にルイ15世が危篤状態に陥り、ルイ16世と妻のマリー・アントワネットが台頭すると、後ろ盾を失ったデュ・バリー夫人は宮廷から修道院に追放されてしまいます。修道院を出たデュ・バリー夫人はブリサック公爵と結婚し暮らしますが、1793年12月にパリの革命法廷により反革命家として摘発され、ギロチンにかけられて死亡しました。

 

▽連行されるデュ・バリー夫人

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つなぎ

 だいたいルイ15世なのでビビります。

 政治よりも遊びや女を好んだルイ15世のせいで、宮廷では今回挙げたような高級娼婦が力を得て贅沢三昧の暮らしをして国庫を疲弊させ、革命へとつながる原因の一つを作ることになります。

 後編ではフランス革命以降の19世紀の伝説的な高級娼婦を挙げます。

reki.hatenablog.com

 

 

参考文献・サイト

 "Madame de Pompadour: Mistress of France" Christine Pevitt Algrant

"Tart of the Week: Kitty Fisher" The Duchess of Devonshire's Gossip Guide to the 18th Century - Atom

 "Madame de Pompadour" 

"Marie Louise O'Murphy (Morphise)"Sally Christie

"SEX, POWER & THE FRENCH REVOLUTION: THE SCANDALOUS LIFE OF MADAME DU BARRY" F YEAH HISTORY

"Jeanne Bécu, countess du Barry" Encyclopedia Britanica