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ビアフラ戦争史(前編)- 戦争前夜、ナイジェリア民族対立の激化

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 200万人の犠牲者を出した「兄弟たちの戦争」

ビアフラ戦争は1967年7月〜1971年1月にナイジェリア共和国で起こった戦争です。

イボ人が主体の東部州が中央政府からの独立とビアフラ共和国の独立を宣言し、それを阻止しようとするナイジェリア政府軍との間でとなりました。

3年半続いた戦争は結局、ビアフラ共和国の崩壊とナイジェリアの再統一で終わったのですが、この戦争の犠牲者は凄まじく、戦災や飢餓により約200万人の民間人が犠牲になったと言われています。

 なぜこの戦争が起こったのか。一言で言うと民族問題なのですが、事ここに至る過程はかなり複雑なものとなっています。今回はなぜビアフラ戦争が起こったのかをまとめていきます。

 

1. 英領ナイジェリアの成立

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ナイジェリアの3大民族

現在のナイジェリア共和国の国土の大元は、1914年に成立した「英領ナイジェリア」を引き継いでいます。

ヨーロッパの植民地になる前はこの地は統一されたことはなく、各民族の独自の王国が成立していました。ナイジェリアには大小250もの民族がいるのですが、支配的な民族はヨルバ人、イボ人、ハウサ人で、この3民族だけで人口の58%を占めます。

 

ヨルバ人

ヨルバ人は西部に住む民族で、建国の王の直系子孫を絶対的な権威として、組織的な国家を運営していました。大小様々なヨルバ系王国がありますが、中でも最大のものが13〜18世紀に栄えたオヨ帝国です。しかしオヨは19世紀に入ると北方のフラニ人や西方のダホメー王国との戦いの中で衰退し、1820年代に崩壊しました。ヨーロッパ人との接触の中でキリスト教を受容し、現在では35%程度がキリスト教徒となっていますが、イスラム教も普及しています。

 

イボ人

イボ人は東部に住む民族で、社会単位は氏族によって構成され、政治は各氏族の長老たちの合議により決済されるという伝統がありました。そのため長年統一された中央政府を持ちませんでしたが、一方で人々は進取的・民主主義的で、新しいものをどんどん取り込んでいく傾向があります。そのため、キリスト教の需要率も高く、能力も高いので事務職員や技師、教師など手に職をつけてナイジェリア各地に移住していきました。

 

ハウサ人

ハウサ人は北部に住む民族で、ナイジェリアだけでなく西アフリカ一帯に住んでいます。13世紀ごろから徐々にイスラム化していきました。

ハウサ人は別民族のフラニ人と長い時間をかけて混血し文化融合が進んでいき、都市を発達させていきました。19世紀後半にジハードが起こりハウサランドに数多くの首長国が成立した後、これらが統合してソコト王国が成立しました。イスラムの伝統が濃いハウサ=フラニ人は、他の民族に比べて保守的だそうです。

 

英領ナイジェリアの成立

ヨーロッパ人がナイジェリアに進出したのは16世紀に遡りますが、イギリスがナイジェリアの西部海岸都市ラゴスを獲得したのは1862年のこと。

ここを貿易拠点としてイギリスはナイジェリアでのビジネスを拡大していき、Gゴールディ卿率いる連合アフリカ会社(のちに国民アフリカ会社に改名)を筆頭にフランスやドイツなど、この地に進出しようとする列強と熾烈な競争を繰り広げた挙句、1885年・1893年の英独協定、1890年・1898年の英仏協定により、現在とほぼ同じナイジェリアの領域を植民地化することに成功しました。

しばらくはナイジェリアは、ラゴス植民地、南部ナイジェリア保護領、北部ナイジェリア保護領の3つに分割されていましたが、1906年にラゴスと南部が統合され、1914年に南部と北部が統合され、「英領ナイジェリア」が成立しました。

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イギリスの分割統治

イギリスは全く異なる文化の3地域を、それぞれ別のやり方で「分断統治」しました。

北部では土着のイスラムの権威が強かったため、ローカル権威を利用した間接統治を採り、ハウサ語を公用語としました。

一方で南部ではローカル権威を使うやり方は不可能でした。西部ヨルバ人地域ではオヨ帝国の崩壊から時間がたちローカル権威がさほど強くなく、東部イボ人地域ではそもそもローカル権威というものが存在しませんでした。そこでイギリスは独自に首長を作り出し、その首長を利用し間接統治をしようとしましたが反発が根強く、統治に大変苦労することになったのです。

 

2. 独立後の政治危機

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政治政党の成立

1922年に選挙制度が導入され、ラゴスを中心に政党が結成されていきます。

しばらく政党はラゴスを中心とした都市のものでしたが、1940〜50年代に地方でも政党が結成されるようになり、各地域に民族の利害を代表する政治政党が出来上がっていきました。

独立前の1959年の選挙では、各地域を代表する7つの政党が戦い、北部人民会議(NPC)と東部イボ人主体のナイジェリア・カメルーン国民会議(NCNC)が連立内閣を結成しました。1960年の独立時には、初代総督(後に大統領)にNCNCのアジキィウェ、首相にNPCのバレワが就きました。

▽ンナムディ・アジキィウェ

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当初は指導層は欧米で教育を受けたヨルバ人やイボ人のキリスト教徒で、彼らは「ナイジェリア国民」を統合すべく理想を掲げていましたが、次第に政党政治は地域主義・民族主義化していき、国民主義の理想は死んでいくことになります。

 

政治危機の頻発

独立後、すぐに政治危機が表面化します。

まず1963年に西部に地盤がある行動党(AG)党首オウォロと同じAG所属の西部州知事のアキントラの対立が西部州を二分する政治対立に発展し、中央政府は資金流用の疑いでオウォロを逮捕。ヨルバ人勢力が衰退したことで、西部州の非ヨルバ人であるエド人やイジョ人などがヨルバからの離脱を求めて「中西部州」を設立。政府はこれを認めました。

1963年に実施された人口調査の結果を巡っても争いが起きました。政府の議席の割り当ては州の人口数に応じて均等に割り当てる仕組みになっていたのですが、各州が自分の所の議席を増やそうと、大幅な水増し操作をしたのです。各州はお互いに非難合戦を繰り広げ、相互不信が高まることになりました。

1964年12月に実施された独立後初の選挙では、北部の保守的ハウサ・フラニ人が主体のNPCが、中西部と東部の少数民族の党と提携し「ナイジェリア国民同盟(NNA)」を結成する一方、東部イボ人が主体のNCNCは、西部ヨルバ人と北部の急進派ハウサ・フラニ人と提携し「統一進歩大同盟(UPGA)」を結成しました。

選挙では互いの民族を罵り合い、暴力や放火事件が相次ぐ選挙戦が繰り広げられ、結局北部の保守派ハウサ・フラニ人主体のNNAが勝利し、バレワが再び首相に就任しました。

UPGAは選挙の無効を主張しますが訴えは実らず、北部ハウサ・フラニ人の「支配」に東部イボ人の不満は高まっていき、とうとうクーデターが発生するに至ります。

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3. 内戦への道

 

イボ人将校のクーデター

1966年1月14日深夜、首都ラゴスで、第二歩兵旅団副官イフェアジュナ少佐、チュクゥカ陸軍少将、アデモヤゲ陸軍少佐らイボ人将校は、自宅にいたバレワ首相を拉致し、北部カヌリ人のマラリ陸軍准将、ウネグベ陸軍中佐、パム陸軍中佐、オコティエ=エボ大佐らを殺害。電話局、放送局、警察本部らを制圧しました。

北部では、ンゼオグゥ陸軍少佐が北部州知事を射殺し、オンワツェグゥ少佐がアデムレグン陸軍准将を射殺、ウデ陸軍大尉がショディンゲ陸軍大尉を射殺しました。

西部では、ンウェボシ陸軍大佐が西部州知事を射殺。東部ではオグチ陸軍中尉が東部州知事を拉致しました。

しかし、首都ラゴスにいたイボ人の全軍最高司令官イロンシ陸軍少将は辛くも逃げて、すぐにクーデターの鎮圧に動きます。全軍最高司令官の名で各部隊にクーデターに対抗するよう呼びかけたため、ラゴスではイフェアジュナ少佐と仲間のグループはすぐに追い詰められ、命からがらガーナに亡命しました。

▽イロンシ陸軍少将

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しかし北部ではンゼオグゥ少佐がクーデターに成功し、「革命評議会」の設置を宣言。

これに対しイロンシ少将は、「憲法の停止と軍の全権掌握」を宣言し北部を制圧する構えを見せたため、ンゼオグゥ少佐もクーデターから5日後の1月19日に投降しました。

 

イロンシ少将の「統一政府構想」

クーデターは国軍の上層部を支配する北部出身者に対するイボ人の不満から生じたもので、事件によって北部出身の軍の上層部が大量に死亡しました。

イロンシ少将は空白のポストにイボ人を優先的に任命したため、北部と東部との間で緊張感が高まることになってしまいます。

さらにイロンシ少将は突然「ナイジェリアの連邦制の廃止と統一政体への移行」を発表。諸問題の根本原因である民族主義・地方主義をなくし、ごっそり上層部がいなくなり弛緩する国軍の一本化を狙ったものでしたが、イボ人に対する反発が強まっていた時で、発表のタイミングとしては最悪でした。

 

北部出身者のクーデター

連邦制廃止のニュースが届くや、北部では大規模な暴動が相次ぎます。北部の中心都市カノでは5万人の反対運動が起き、騒乱の中でイボ人など3,300人が殺害され、混乱が拡大していきます。

そんな中、1966年7月28日深夜、西部州アベオクタの陸軍駐屯地で北部出身の下士官と兵士たちが決起。イボ人の将校と兵士が多数殺害されました。

このニュースを聞いたイロンシ少将は鎮圧に乗り出しますが、ハウサ人やチャムバ人ら側近の北部出身者によって拉致され殺害されてしまいます。

ラゴスでは北部出身の下士官によってイケジャ陸軍兵舎や空港が制圧される中、殺害されたイロンシ少将に代わってヨルバ人の最古参の軍人で全軍参謀長オグンディペ陸軍准将が指揮権を掌握。北部出身で陸軍参謀長のゴウォン中佐をイケジャ陸軍兵舎に送りました。

▽ゴウォン中佐

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ゴウォン中佐はイケジャに留まりながら北部出身者と調整を重ねますが、その間も北部出身者の兵士らによるイボ人に対する報復は過激化し、多数のイボ人兵士が虐殺され、北部、西部の軍事施設は北部出身者によって制圧されていきました。

事態の収拾がつかないことを悟ったオグンディペ准将はイギリスに亡命してしまいます。イケジャのゴウォン中佐は、北部の少数民族アンガス人ということもあり、北部出身の反乱軍とも話が出来る唯一の人間でした。ゴウォン中佐は「北部の独立」を訴える下士官らをなだめ、連邦制への復帰と北部出身政治犯の釈放を約束し、説得させたのでした。

 

4. イボ人大虐殺の発生

 ところが、混乱は収まるどころか最悪の方向に向かっていきます。

北部でハウサ・フラニ人によるイボ人の大虐殺が発生したのです。

虐殺は北部出身の兵士によって行われ、一般人も含む全てのイボ人が狙われました。カノから始まり、カドゥナ、ザリア、ジョスなど北部州各地に波及していき、3,300〜10,000人のイボ人が虐殺されました。

 

これには民族的対立だけでなく、経済的・宗教的な対立があります。

進取の気質があり商売上手なイボ人は、カノなど北部州の都市に進出し事務職員や商店主、技術者としてビジネスを展開して豊かになり、のんびりした気質のハウサ・フラニ人を経済的に支配するようになりました。イボ人は「のろま」なハウサ・フラニ人を馬鹿にし、ハウサ・フラニ人は「狡猾でずるい」イボ人を軽蔑していました。

さらに、北部はイスラム教地域で、イボ人はキリスト教徒という違いもありました。しかも、イボのキリスト教行事には仮装行列や歌やダンス、神への捧酒など、土着の宗教が混合しており、そこも「正統なイスラム教徒」を自称するハウサ・フラニ人からすると唾棄すべきものに映ったのです。

北部州には130万人のイボ人が住んでいましたが、大虐殺の発生によってほぼ全員が北部を逃げ出し故郷の東部に向けて脱出を図りました。

 

アブリ会議

国家元首に就いたゴウォン中佐は、約束通り統一政体の廃止と連邦制の復活を宣言し、新憲法制定に向けた特別諮問委員会の設立と、全ての国軍兵士を出身地に帰還させることを発表しました。

特別諮問委員会は1966年9月に発足しましたが、憲法の制定はままならず、東部州の代表オジュクゥ中佐が要求する「政治問題の解決」が焦点になりました。

▽オジュクゥ中佐

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オジュクゥ中佐が主張するには、

「ゴウォンよりも上級の軍人は国軍には複数いるにも関わらず、なぜゴウォンが国家元首なのか。私も貴様より位級が上である。少なくとも、私を全軍最高司令官に任命すべきだ」

というもの。多数の同胞が殺されているのに下らない階級争いが焦点になるのは絶望しかないのですが、この問題を解決しない限り、全国から東部に帰還したイボ人兵がクーデターを起こし国が分裂するのは目に見えている。

そこでガーナの国家元首アンクラー中将による仲介で、ガーナの首都アクラ近郊のアブリで会談が開かれました。

出席者は国家元首ゴウォン中佐、東部州知事オジュクゥ中佐、西部州知事アバデヨ大佐、中西部州知事エジョール中佐、北部州知事カッチナ中佐、海軍司令官ウェイ准将、ラゴス長官ジョンソン陸軍少将、警察庁長官サレム、警察庁副長官オモ=バレの9人でした。

この会議では、以下の内容が合意されました。

  • すべての軍事及び国家的問題は、最高軍事評議会が決定権を持つ
  • 評議会が開催されない場合は、各州の軍政知事に意見と同意を求める
  • 国軍は解体され、州知事の統制化におかれる州軍に集約される

パッと見は結構な内容に思えますが、この内容に国家元首のゴウォン中佐が反発をします。これが履行されれば、国軍と政府のトップとして我が世の春を謳歌できている彼は、東部州のイチ州知事に降格してしまうのです。

アブリ会議の履行に反対したゴウォン中佐に対し、東部州のオジュクゥ中佐は強く反発し、急速に独自の道を進んでいくことになります。

 

5. 東部州の独立宣言

オジュクゥ中佐は1967年3月27日に「公社布告」を出し、東部州の政府系企業を接収し東部州公社として再編。さらに独自の最高裁判所を設置した他、税金はすべて東部州の歳入に加えられることが決定されました。

このような動きに対し、ゴウォン中佐は「東部州の封鎖」を敢行。東部州の国境を封鎖すると同時に、東部州出身者のパスポートを無効化しました。さらには経済封鎖にも乗り出し、航空機・鉄道の乗り入れの遮断や、銀行預金や有価証券の無効化を通告しました。

このようなゴウォン中佐の乱暴な制裁に対し西部州や南部州の指導者・長老たちから非難が相次ぎ、民間でも議員や大学教授らからなる調停委員会がゴウォン中佐に対し、東部州への経済封鎖の解除や布告の撤廃を勧告しました。

5月20日、ゴウォン中佐は勧告の受け入れを表明しますが、時すでに遅し。

5月27日に、東部州知事のオジュクゥ中佐は連邦からの離脱と「ビアフラ共和国」の建国を宣言しました。

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Work by Eric Gaba

ビアフラ共和国の人口は1400万人と、当時のアフリカでも4番目に多い人口を誇り、国民総生産も5億5200万ポンドと高く、豊富な資源、盛んな製造業、教育水準の高い国民を持つ「完全に一人でやっていける」ポテンシャルを秘めた国でした。

 行政上は20の省に別れ、人口の多数派は65%を占めるイボ人。その他にはイビビオ人、イジョ人、エフィク人、イゴジャ人など少数派を35%抱えていました。

 

 

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つなぎ

 民族問題や宗教問題もありますが、汚職や腐敗、軍人たちの階級争い、相互不信などが積み重なって、なんかもう力が抜けてきます。

しかし、この内戦の原因をナイジェリアの人たちのガバナンスやモラルの問題にばかりしてはならないと思います。

共通項が「英領ナイジェリア」という政治的枠組みのみで、全然違う民族が「さあ、今日から仲良くやりましょう」と言ってもできっこないですよね。

欧米列強が自分たちの都合だけで引いた国境線を、自分たちの都合だけで現地住民に引き継いで「うまくやりなさい」と言ったところにそもそも無理があると思います。

後編では1967年7月にナイジェリア軍がビアフラに侵攻し、ビアフラ共和国が崩壊する1970年1月までの経過を見ていきたいと思います。

reki.hatenablog.com

 

参考文献

ビアフラ戦争―叢林に消えた共和国 山川出版社 室井義雄

ビアフラ戦争―叢林に消えた共和国 (ヒストリア)

ビアフラ戦争―叢林に消えた共和国 (ヒストリア)