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無能な指揮官列伝 - 無能さが起こした悲劇的な戦い(後編)

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 後の歴史に後遺症をもたらした「無能」とは

前編に引き続き、「無能な指揮官列伝」の後編です。前編では以下を紹介しました。
1. 大カエピオ(共和制ローマ)
2. ヨーク公フレデリック(イングランド)
3. ピエール・ヴィルヌーヴ (フランス)
4. ウィリアム・エルフィンストーン(イギリス)
5. サンタ・アナ(メキシコ)
6. ギデオン・J・ピロー(アメリカ)
7. カルロ・ペルサーノ(イタリア)

ご覧になりたい方はこちらからどうぞ

それでは後編をご覧ください。

 

8.フランソワ・アシル・バゼーヌ 1811-1888(フランス)

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17万の兵を率いて何もせずに降伏し戦犯となった将軍 

フランソワ・アシル・バゼーヌが無能かどうかは議論があると思います。彼はスペイン、北アフリカ、クリミア、イタリアなどを転戦した歴戦の軍人で、 怪我をしながら戦うなど勇敢な人物としてフランスでは大変人気がありました。

1870年に普仏戦争が始まると、パゼーヌはライン軍18万を率いますが、プロイセン軍の迅速な行動に他の部隊との連携を阻まれて孤立。さらに個別の戦いでもプロイセン軍に連戦連敗し、メス要塞に退却し、プロイセン軍に包囲をされてしまいます。

一方他のフランス軍もプロイセン軍に惨めな敗退を重ね、バゼーヌの軍を救おうとしたマクマホン将軍指揮下の軍はセダンの戦いで大モルトケの軍に敗れて17万の死傷者を出し降伏。この戦いで皇帝ナポレオン三世も捕虜になってしまいました。

フランス軍でまともに動けるのは約17万の軍勢で要塞にこもるライン軍のみ。フランス国民はバゼーヌ将軍が起死回生の一手でメス要塞を突破し、プロイセン軍に一矢浴びせることを期待していました。

ところが、バゼーヌが悩みに悩んで出した答えは「降伏」でした。これには相対するプロイセン軍も驚いたようです。

主力軍がほぼ温存されているとはいえ、食料はほぼ底を尽き、相次ぐ連敗で士気は最低。長引く要塞での籠城生活で病人が多数出現しまともに戦える状態にない、という判断だったのですが、ロクに戦うことなく敵に降伏したことで主力がごっそり消えたため、プロイセンはやすやすとパリに入城することができました。バゼーヌの降伏が決定的となり、フランスは敗れたのでした。

 戦後、フランス国民のパゼーヌへの憎悪は激しく、裁判にかけられ絞首刑の判決が下りますが、結局減刑され後には刑務所を出ることになりました。

 

9. 小モルトケ 1848-1916(ドイツ)

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西部戦線を膠着させた「叔父の七光り」

小モルトケの叔父はヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ、通称大モルトケ。ヴィルヘルム1世の下でドイツ帝国の統一に多大な貢献をした稀代の軍人です。

偉大すぎる叔父を持った小モルトケは、同じく偉大すぎる父を持った皇帝ヴィルヘルム2世に信用され1906年に参謀長に就任します。叔父の名声に拠ったところが大きい人事でした。

前の参謀長シュリーフェンはフランス・パリを電撃的に包囲・陥落させることを目指した有名な「シュリーフェン・プラン」を作り上げた人物です。大軍でベルギーに電撃的に攻め入り前進し、まっすぐドーバー海峡の手前まで進むと3時の方向に転換してパリを目指し、同時に別働隊をアルザス地方から西進させ2方向からパリを包囲するというもの。

この計画では、ロシアの到来前にいかに素早くベルギーを抜けてフランス領に到達しパリを落とすかが鍵となっていました。またフランス軍は包囲を防ぐためアルザス地方に攻め入ることが考えられますが、これは「織り込み済み」で、戦力の9割方はベルギー突破に割かれるべきというのがシュリーフェンが描いた計画でした。

しかし小モルトケはベルギーはもっと少ない戦力で突破できると考え、ベルギー侵攻部隊の数を減らし、「祖国の土地を敵に踏ませるべきでない」という考えから対フランス防衛に減った分を補充させました。

果たして、開戦してみるとドイツ軍は初戦のベルギー領突破に大変難儀し、ほとんど抵抗を受けずに突破するつもりが13週間もベルギーの抵抗は続き、鎮圧のために2個師団もベルギーに残さざるを得なかったのでした。

この遅れは致命的で、東部からロシア軍の足音が聞こえる中、何としてもパリを攻略する必要がありました。モルトケはマルヌ河畔でフランス軍の抵抗を破りパリへ入城しようとしますが、ここで手痛い敗北を喫します。

前進も後退もできなくなった両軍は、塹壕を掘って対峙するようになり、以降3年にもなる地獄の塹壕戦に突入していくことになります。

小モルトケはこの失敗の責任を取り、参謀長を辞任しました。

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10. アーサー・エイトケン 1861-1924(イギリス)

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過信と慢心により恥ずかしい敗北をしたイギリス軍少将

アーサー・エイトケンは、第一次世界大戦の局地戦である東アフリカ戦線で、ドイツ領東アフリカに上陸しようとして敗北したイギリスの指揮官です。

彼が率いたのはロクに訓練も受けず装備も貧弱なインド兵からなる「B遠征軍」約8,000。彼らはインド洋を渡る船旅ですっかりくたびれ果て、士気は最低でした。しかしエイトケンは自信満々で、1ヶ月近くでタンガ港を攻略できるだろうと考え、現地の黒人兵の追加も受けず、しかも実地調査や斥候なしに攻め入ろうとしました。

1914年11月2日、タンガの南約3キロの地点に上陸した英領インド軍は、これまた下調べを一切せずにタンガの町を目指そうとしました。しかし、ドイツ軍のレットウ=フォルベック率いるドイツ軍と現地の黒人兵が攻撃を開始すると、インド兵は恐れをなし海岸部まで逃げだしました。エイトケンは午後に体制を立て直し再び進撃を開始するも、今度は銃声や声に怒った野生のハチの大軍に襲われ、イギリス軍士官もインド兵もパニックになってまた海岸線に逃げ出してしまう。

英領インド軍は847名の犠牲者を出しました。インド兵はドイツ軍と黒人兵、そしてハチを恐れて動かなくなってしまい、エイトケンはとうとう11月5日に大量の軍需物資を海岸部に置き去りにし慌てふためいて撤退しました。

こんなかっこ悪い負け方あるでしょうか…。


11. ゲオルギオス・ハタジアネスチス 1863-1922(ギリシャ)

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精神的に問題があったギリシャ軍総司令官

 ゲオルギオス・ハタジアネスチスは第一次バルカン戦争や第二次バルカン戦争に従軍した後に大佐に昇進し、王党派だった彼はその後1917年に共和派の権力掌握に伴って海外流浪を余儀なくされました。

1919年、第一次世界大戦後オスマン帝国の領土切り取りをたくらむギリシャはトルコ南西部のイズミルに侵攻。希土戦争が勃発します。

イギリスとフランスの支援を受けたギリシャ軍はアナトリア半島奥深くまで侵攻しますが、ムスタファ・イフメト率いるトルコ国民軍にイノニュの戦いで敗れ、またトルコ人ゲリラにも悩まされ次第に後退を余儀なくされ、ギリシャ系住民が多いイズミルの町まで撤退し防衛線を構築しました。

ギリシャ国王コンスタンティノス1世は、王党派であることを理由にハタジアネスチスを買いアナトリア司令官に任命します。しかし以前からハタジアネスチスは重度の精神障害を持ち言動が不安定であることが有名で、この人事に軍上層部には動揺が広がりました。ハタジアネスチスは精神病を患っており、自分の足がガラスで出来ていて簡単に砕け散ってしまうという妄想にとらわれていたそうです。

トルコ国民軍は10万以上の軍勢でイズミルの町を包囲しギリシャ軍は甚大な被害を出しますが、ハタジアネスチスは情報を断片的にしか把握せず、また報告された情報も信用せずにトルコ軍の戦力を過小評価し、ギリシャ軍の防衛線は頑強で充分防衛できるし後に反撃できると信じていました。

しかしギリシャ軍は各地でトルコ軍に打ち破られ前線が崩壊しているにも関わらず、ハタジアネスチスは前進と攻勢の命令を出し続けました。結局このドゥムルプナルの大攻勢でギリシャ軍は総崩れになり、ハタジアネスチスは司令官を解任されました。

希土戦争の屈辱的な敗戦後、ギリシャでは戦争推進派のコンスタンティノス1世が廃位させられ、新国王ゲオルギオス2世の元で「戦犯」が裁かれ、ハタジアネスチスも死刑となりました。


12. ダグラス・ヘイグ 1861-1928(イギリス)

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ソンムの戦いで多数を犠牲を出し物議となった人物

ダグラス・ヘイグはその功績と実績に評価が分かれる人物で、日本でいうと乃木希典に近い存在かもしれません。

乃木将軍は日露戦争中に二〇三高地占領に歩兵の突撃を繰り返して無駄な犠牲を出した愚将として後世批判されることになりますが、ダグラス・ヘイグも第一次世界大戦のソンムの戦いでイギリス軍約50万人、フランス軍約20万人の将兵を犠牲にしてほとんど引き分けにしかできなかったとして批判されました。

後の首相チャーチルは「破壊的であると同時に希望なし」とヘイグのやり方を批判し、ロイドジョージも「彼の役割は彼の能力に見合ったものではなかった」「知的というよりは機械的」「イエスマンに囲まれることを好んだ」と批判しました。

一方で、ソンムの戦いがあったからこそドイツ軍も弱体化し、後の連合軍の攻勢に繋がったのだという擁護論もあります。実際、多大な犠牲は出しながらもヘイグは1921年の引退までイギリス軍の最高司令官を務め、第一次世界大戦の連合軍の勝利に貢献しました。バーヴェンブルック卿は「私は彼のようにうまくできたはずがなく、当時誰もヘイグの代わりを担えた人物はいなかった」と擁護しました。


13. ウバルド・ソッドゥ 1883-1949(イタリア)

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ギリシャ攻略に失敗し逆に敵に攻め込まれてしまった将

イタリアの独裁者ムッソリーニは、連合国軍がギリシャ方面からバルカンを北上することを恐れギリシャを占領することを思いつき、軍の反対に関わらず作戦を強行します。

ムッソリーニはギリシャを侮り攻略はすぐに終わると思っていましたが、ギリシャ派遣軍の練兵度は低く、武器・弾薬・装備も不十分で、友軍のアルバニア軍は士気が低くあまり頼りにならない存在でした。

実際、セバスティアーノ・ヴィスコンティ・プラスカ将軍率いる7個師団約10万は当初は勢いよく攻め入ったものの、冬のギリシャの厳しい寒さと補給の不十分さ、さらにはギリシャ軍のゲリラ的抵抗に苦しんで国境まで押し戻され、ギリシャ=アルバニア国境地帯のElaia–Kalamasの戦いでギリシャ軍に敗れてしまいます。

事態を重く見たムッソリーニは、1941年11月13日にプラスカ将軍を罷免し代わりにウバルド・ソッドゥ将軍を司令官に任命。部隊も新たに本国から6個師団を投入しました。

これまでは山岳地帯でのゲリラ的戦いが主だったギリシャ軍は、大軍が来る前に何らかの行動に迫られます。そこでギリシャ軍司令官のアレクサンドロス・パパゴロスは、思い切ってギリシャの山岳地帯を降りて攻勢に打ってでます。驚いたイタリア軍は雪崩をうって撤退。追いかけるギリシャ軍はアルバニア南部の町コルチャを占領。さらにコルチャ平原を含め周辺を制圧し、11月24日にヴォスコパヤ、11月30日にポグラデツ、12月初旬にフラシャーと、南部アルバニアが次々とギリシャ軍に落とされていき、司令官ソッドゥ率いるイタリア軍はただ北へと逃げるだけで全く止めることができなくなりました。

ソッドゥはムッソリーニに対しギリシャと停戦することを求めるも、ムッソリーニはそれを許さず、現場指揮官のソッドゥと総責任者のピエトリ・パドリオを解任。
 ウーゴ・カヴァッレーロ将軍が任に就き、後にドイツ軍の参戦でようやく勝利するに至りました。

この時の時間の浪費がドイツのソ連侵攻を遅らせ、連合軍の勝利に貢献することになります。


14. モーリス・ガムラン 1872-1958(フランス)

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古い戦術に固執してドイツの電撃戦を阻止できなった将軍

モーリス・ガムランは第一次世界大戦中、マルヌの戦いに繋がるフランス軍の反撃作戦を指揮した英雄で、大戦の終結まで大佐として第11歩兵隊を率い各地で活躍しました。

戦後はブラジルや仏領シリアに駐屯し、1921年のポーランド・ソビエト戦争ではポーランド軍の顧問を務め、1938年にマキシム・ウェイガンが退任してから陸軍総司令官に就任しました。

ガムランはドイツの再軍備化と領土拡張に対して無策で、ドイツ軍が非武装中立地帯のラインラントに陸軍を進駐させた時も対応を拒否し、ドイツがポーランドに電撃的に侵攻した後も相互安全協定があるにも関わらずドイツへの軍事対応をしませんでした。

またガムランの軍事戦略は第一次世界大戦の成功体験に留まり、戦車はあくまで歩兵を補助する役割であると認識し、航空機の活用についても重視せずにもっとも大事なのは地上戦であると信じていました。

ガムランの対ドイツ防衛戦略は、「砦の防御を固めてマジノ線を維持する」という時代錯誤なもの。そのため、ドイツ軍が戦車を主体にし砦を無視してアルデンヌの森を突破した時、砦にこもったフランス軍はそのスピードに全く対応できませんでした。

ポール・レイノー首相はガムランを更迭し、マキシム・ウェイガンを再度総司令官に任命しました。

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まとめ

こうやって「無能な指揮官」とか書くと「お前は無能じゃないんだな、できんのかよ、やってみろよ」ってなりますが、当然ながらできるわけがありません。今日挙げた人以上に大失敗するに違いありません。

 責任ある仕事の決断の重さ、判断するための材料の多さ、慎重さとスピーディーさ、そして何よりも運。成功する人はどういうわけか、この神の判断としか言いようのない選択を成功させてきました。

 一方で、大多数の人は時勢や判断を誤り失敗するものです。これまでずっと成功してきた人も、一歩踏み違えれば無能の烙印を押されてしまうのです。

「無能」とは何なのか。

それはもしかしたら「普通」であることの証左であるような気がしてきました。

無能と言われるのは「軍神」やら「常勝将軍」やら、常に結果を出すことを人々から期待される精神的なプレッシャーから解放される側面もあるんじゃないでしょうか。

失敗したことで絶望した人もたくさんいますが、逆に救われることも多かったんじゃないか。大失態をした人を呪うんでなく、救いの目を向けるのも歴史を見る一つの視点と思います。

 

 参考サイト

"HELMUTH VON MOLTKE THE YOUNGER" BLAVATNIK ARCHIVE

 "Battles - The Battle of Tanga, 1914" First World War.com

Battle of Dumlupınar - Wikipedia

"General Douglas Haig (1861 - 1928)" BBC - History Figure

"Maurice Gamelin" World War Ⅱ Datebase

Ubaldo Soddu - Wikipedia