無能な指揮官が率いる絶望的な戦い
日本史の「無能な指揮官」 と言えば真っ先に名前が上がるのは牟田口廉也ではないでしょうか。インド攻略を目指した無謀なインパール作戦を主導し多くの将兵を死なせた人物として悪名高いです。
各国史にはそれぞれ「無能な指揮官」とされる人物がいて、何をもって「無能」とするかによっても異なるので万人が納得するのは不可能なのですが、
「注意深さ、プロ意識、軍事知識の決定的な欠如によって歴史的な大惨事・大敗北をもたらした」
という観点で、前後編で「世界史の無能な指揮官」をピックアップしてみます。
「この人がいない!やり直し!」事案が多数発生しそうな気がしますが、あらかじめご了承ください。
※2019/2/19 22:30 「7. カルロ・ペルサーノ」の項目の情報に大きな誤りがありましたので、修正しました。
1. 大カエピオ ?-?(共和制ローマ)
ハンニバル以来のローマの大敗北をもたらした将軍
大カエピオの名で知られるクィントゥス・セルウィウス・カエピオ(息子も同名で小カエピオと呼ばれる)は、ローマの名門セルウィウス一族の生まれ。
元老院議員として数々の役職をこなし紀元前106年に執政官に当選します。
当時の共和制ローマの脅威は、紀元前109年にガリア・ナルボネンシス属州に侵入したキンブリ族とテウトネス族。ガリアに安住の地を求める蛮族は、ローマの執政官が率いる軍勢を二度も打ち破り南下を続けていました。そこで蛮族を食い止めるため紀元前105年に平民出身の執政官マキシムスと、前執政官の大カエピオが軍を引き連れて南ガリアへと向かいました。
ところがこの時、大カエピオは上官であるマキシムスが軍事経験が少なくかつ平民であることを蔑視し、マキシムスの命令を無視して独立権を主張し単独で動いてしまいます。名門出身で経験豊かな自分が、平民出身の若造の命令なぞ聞けるか、というわけです。
さらには途中で原住民の村を略奪し多数の金と銀を奪うも、元老院に送ったのは銀のみで金は大カエピオが懐に収めてしまいました。救いようがありません。
結局マキシムスと大カエピオの軍総勢4万は連動できず、両軍はキンブリ族とテウトネス族総勢20万とローヌ川で相対します。
マキシムスは敵が大軍であることを知り、蛮族の王ボイオリクスと交渉し停戦の合意を取り付けようとしました。大カエピオはこれを知り、マキシムスが手柄を持っていくことを恐れてマキシムスに伝達せずにキンブリ族の砦に急襲をかけます。ところがキンブリ族の抵抗は粘り強く、逆に反撃・包囲され大カエピオの軍は壊滅。勢いに乗るキンブリ族の軍は、マキシムスとの交渉を全て破棄して戦闘に打って出、マキシムス軍もなすすべなく壊滅。
この敗北は共和制ローマがカンナエの戦いでハンニバルに敗れた時以来の大敗北で、この衝撃の大きさで後にマリウスの軍政改革が進むことになります。
ほうほうの体でローマに逃げ帰った大カエピオは裁判にかけられますが、死刑を恐れて小アジアに逃亡しました。
2. ヨーク公フレデリック 1763-1827(イギリス)
子どもにすら馬鹿にされた王家出身の司令官
フレデリックは英国王ジョージ3世の2番目の息子。ジョージ3世は長男ジョージに王位を継がせるとして、次男フレデリックを軍事の道に進ませました。
1780年に17歳で陸軍に大佐として入隊すると、戦場に出てないのにトントン拍子に出世。1793年には大将にまで出世し、ここで初めて初陣を飾ります。初陣のフランドル侵攻では勝利した戦いもあったものの敗北のほうが多く、要塞と防衛ラインを攻略され最終的に本国に召還されました。
フレデリックの軍事的才能の欠如は誰しもが認めるところでしたが、1798年には総司令官に任命され再度フランドルに侵攻することになりました。序盤戦ではイギリス軍前衛部隊であるラルフ・アバクロンビー卿とチャールズ・ミッチェル提督が、オランダ軍艦を捕獲するなど戦闘を優位に進めていました。しかし、フレデリックの本隊が到着した直後からトラブルが起こりまくり、段取りの悪さからの物資の欠如、場当たり的な指示による現場の混乱でフランス軍・オランダ軍の反撃を受け、イギリス・ロシア連合軍は撤退を余儀なくされました。
あまりの情けない敗北ぶりに国民はあきれ返り、フレデリックを小馬鹿にする童謡まで作られました。
元帥のヨーク大公
1万もの軍勢を率いたのさ
大公は兵に丘を登らせた
次に大公は下に降らせた
丘を登って登って
降って降って
最後に半分丘を登った時に
兵は登りも降りもできなくなっていたのさ
The grand old Duke of York,
He had ten thousand men.
He marched them up to the top of the hill
And he marched them down again.
And when they were up, they were up.
And when they were down, they were down.
And when they were only halfway up,
They were neither up nor down
この敗北によりネーデルラントはフランスの影響下に完全に組み込まれ、バタヴィア共和国は後にホラント王国となってナポレオンの弟ルイ・ナポレオンを国王にしフランスの衛星国となっていきます。
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3. ピエール・ヴィルヌーヴ 1763-1806(フランス)
トラファルガー海戦に敗れナポレオンの野望を失わせた男
ピエール・ヴィルヌーヴは貴族出身にも関わらず革命に賛同した奇特な男。
革命前は海軍は貴族の特権だったため、革命フランス軍は平民主体で海軍運用のスキルがなく、貴族出身のヴィルヌーヴは数少ない海軍の指導者の一人となりました。
ですが彼は指導者として特に優秀というわけではなかったようです。ナポレオンのエジプト遠征ではナイル海戦でネルソン率いるイギリス海軍に艦隊を壊滅させられてしまい、補給路を断たれたフランス軍はエジプト確保を断念します。その時ヴィルヌーヴは戦列艦ギヨーム・テルを率いていましたが、ロクに戦うことなく戦場から離脱し批判されました。
そのためナポレオンを含む本国政府の人間から評価されていませんでしたが、主要な提督が次々と戦死してしまったため、ナポレオンのイギリス上陸作戦として重要な一戦だったトラファルガー海戦では提督に任命されました。他に艦隊を率いることができる人間がいなかったのです。
作戦ではトゥーロン港を出航したフランスのブレスト艦隊とトゥーロン艦隊は大西洋を超えてカリブ海でスペイン艦隊と合流し、一路大西洋を横断してイギリス艦隊を急襲。その隙にナポレオンが率いる陸軍がドーバー海峡を渡るというものです。
しかしヴィルヌーヴはスペイン艦隊と合流できずに時間を浪費。焦るナポレオンの命令に応じて大西洋を横断しイギリス艦隊に攻撃するも完全に読まれておりコテンパンにやられてしまいます。ヴィルヌーヴはスペインのカディス港に逃げて引きこもってしまい、この時ナポレオンは「時を失した」としてイギリス上陸を断念しました。
次いでナポレオンはヴィルヌーブにフランス艦隊をイタリア方面に回すように命令しますが、ヴィルヌーヴはジブラルタル海峡を超える自信がなくカディス港を出るのを渋っており、1ヶ月近く時間を浪費しました。ようやく出発するも2日後、やっぱり怖くなったヴィルヌーヴはカディス港へ戻ろうとします。そこに現れたイギリス艦隊と戦闘が勃発。これが名高いトラファルガー海戦です。この海戦でネルソン率いるイギリス艦隊の前にフランス艦隊は壊滅させられました。
イギリスの捕虜となったヴィルヌーブは後に解放されますが、ナポレオンに釈明する前に自殺しました。
4. ウィリアム・エルフィンストーン 1782-1842(イギリス)
16,000人以上が死傷した大英帝国の最悪の悲劇
イギリス東インド会社は、ロシアがアフガニスタンのバーラクザイ朝の指導者ドースト・ムハンマド・ハーンと結んで南下することを恐れ、1839年1月に軍事侵攻を開始しました。
すぐに首都カブールを始めアフガニスタンの各都市を制圧し、ドースト・ムハンマドは亡命しイギリスは親英派の君主を擁立しました。
イギリスやインドから官吏やその家族がアフガニスタンに呼び寄せられるのですが、イギリス風の瀟洒な邸宅で繰り広げられるパーティーや肌もあらわな女性が外を駆け回る姿にイスラムの教えに忠実なアフガニスタンの人は衝撃を受け、反感を高めていことになります。中でもアフガニスタン人の怒りを買ったのが、駐在するイギリス兵がアフガニスタンの女を買って愛人にしてしまったこと。外国人の手によって自分たちの子どもたちが堕落してしまったと怒るアフガニスタン人は、イギリスに対し軍事蜂起を決行します。
イギリス人の居住地、商店、武器庫の襲撃や略奪が相次ぎ、護衛なしでは外を歩けないほど危険な状態となります。事態を打開にするために1841年カブールの駐屯軍にウィリアム・エルフィンストーン少将が派遣されました。
しかしエルフィンストーンは決断力に乏しく優柔不断な男でした。近くでアフガン人の襲撃が起こっているにも関わらず判断に迷って軍を出動させなかったり、適切な指示を下せず意味のない場所に治安部隊を展開させて無駄な犠牲を出したりなど、軍の指揮官としては全くの無能で、治安回復どころか無駄な犠牲を増やす有様でした。
1842年1月、アフガン兵の勢いはさらに増し、カブールの町も危険になってきたため、イギリス兵とその家族、インド人とイギリス人に付き従うアフガニスタン人の一行約16,000人は、インド方面への脱出を図ります。しかし執拗なアフガン兵の襲撃にあい、脱出しようとした16,000人のほぼすべてが全滅するという悲惨な結果となりました。エルフィンストーンもアフガン兵の捕虜になり殺害されました。
作家のジョージ・マクドナルド・フレイザーはエルフィンストーンを「イギリスの軍事史上最大の馬鹿者」と評しています。
5. サンタ・アナ 1794-1876(メキシコ)
米墨戦争でメキシコの領土の1/3を喪失させた独裁者
サンタ・アナが無能かどうかは議論があると思います。
彼は独立戦争の英雄で新国家メキシコの若獅子として国民に人気があり、権力を獲得してから40年に渡り大統領や将軍など国家のトップを務めて独立直後のメキシコを率いた人物であるからです。
一方で、独裁色を強めてメキシコの抱える構造的な問題を放置し、メキシコ革命から現在まで繋がる貧富の格差や産業の未発達などメキシコの諸問題が作られたのがサンタ・アナ時代でもあります。
軍人としてのサンタ・アナは、独立戦争や内戦で活躍はしているので軍事や統率能力が全くないというわけではなかったのですが、一番人々の記憶に残っているのが、1836年のテキサス独立戦争と続く1846年の米墨戦争の相次ぐ敗北です。
メキシコ軍は上層部から末端の兵まで腐敗しきって機能しておらず、軍需物資の横流しや着服が相次いで必要な物資が現場に回らず、指揮官もろくに軍事知識がなく、末端の兵はゴロツキばかりでまるでやる気がない。
アメリカ官民の露骨な拡張政策や国際的な政治状況があったにせよ、このような腐った軍隊しか作れなかった責任はトップであるサンタ・アナにあってしかるべきです。
相次ぐ戦争でメキシコが失ったのは、現在のアメリカ合衆国のカリフォルニア州、テキサス州、アリゾナ州、ユタ州、ニューメキシコ州、ワイオミング州、コロラド州、ネバダ州と広大すぎる領土です。
もしメキシコが失った領土がこの半分で済んだなら、いまの歴史はまた変わったものになっていたかもしれません。やはりサンタ・アナの功罪は大きいと言って間違いないでしょう。
6. ギデオン・J・ピロー 1806-1878(アメリカ)
南北戦争の西部戦線で決定的な敗北をした南軍の将
ギデオン・ジョンソン・ピローはやや性格に難があった男のようです。
米墨戦争で活躍し少将に昇進するのですが、後にアメリカ軍の名老将として名をはせるウィンフィールド・スコットと衝突します。ピローは匿名で新聞社に手紙を出し、「コントレラスの戦いとチュルブスコの戦いの勝利はスコット将軍が勝ち取ったとされているが、実はピロー少将のおかげなのだ」と訴えたのです。
▽名前に引っ掛けて枕(pillow)が描かれている
すぐにこの手紙はピロー本人が書いたものだとバレ、軍法会議にかけれてしまいました。めちゃかっこ悪いですね。
南北戦争ではピローは南軍に所属します。1862年のドネルソン砦の戦いで、砦を包囲する北軍のグラント准将相手に塹壕から打って出て渾身一擲の奇襲を成功させ脱出路を確保したのですが、ピローはせっかく勝ち取った地点を放棄して補給のために砦に撤退してしまい、おかげで北軍はやすやすと元の有利な陣形に戻り、南軍は多大な犠牲者を出しただけで全くの徒労に終わってしまいました。
このピローのとんでもない判断に現場の司令部は非難轟々でしたが、すでに敗北は明らかで、北軍の報復や敗北の責任問題を恐れた司令官たちは次々に部下を引き連れて逃亡。この戦いで北軍は南部へ侵入する流入路を確保して後の北軍勝利に繋がっていくことになります。また勝利したグラント准将は無名の指揮官から国の英雄となり、その後将軍そして大統領へと出世していきました。
7. カルロ・ペルサーノ 1806-1883(イタリア)
準備不足と優柔不断からオーストリア=ハンガリー海軍に大敗
カルロ・ペルサーノは普墺戦争中、イタリア海軍がオーストリア=ハンガリー海軍に大敗したリッサ海戦の指揮官だったことで有名な人物です。
イタリア軍はオーストリア=ハンガリー帝国相手に戦いますが各地で苦戦を強いられ、戦局打破のために海軍に出動命令がかけられました。目的は、アドリア海に浮かぶ砦リッサ島の占領です。
装甲艦12隻とその他支援艦で構成された部隊は、1866年7月18日からリッサ島の砦に向けて艦砲射撃を開始。続いて島への上陸の準備に入ります。
ペルサーノはオーストリア=ハンガリー海軍の接近の報を聞いていながらもすぐに迎撃準備をせずに上陸準備を進めており、しばらくした後に上陸準備をやめて迎撃準備の命令を下しますが、艦列の並び順について何度も異なる指示を出したことで現場が混乱。さらに追い討ちをかけるように、戦闘の直前にペルサーノは旗艦を「戦艦レ・ディタリア」から「戦艦アフォンダトーレ」に変えてしまい、しかもその指示が末端までちゃんと伝わりきれていませんでした。各艦に艦隊行動の指示系統が伝わらず、艦隊距離が詰まりすぎて味方同士で衝突寸前になるなどめちゃくちゃに。
そんな中、オーストリア=ハンガリー艦隊はV字の縦陣のまま突っ込んできて、横陣を敷くイタリア艦隊に衝角攻撃を敢行。これが功を奏し、「レ・ディタリア」「パレストロ」が沈没し、死者620人を出しイタリアは大敗しました。オーストリア=ハンガリー側は1隻が大破したのみで、死者はわずかでした。
帰国したペルサーノは「我が方の大勝利!」と嘘をつき、大規模な祝賀会を開いて国民の目を欺こうとしますが、本当の戦果の情報が伝わると国民に糾弾され、軍をクビになりました。騙し通せると思ったのがすごいですね。
なお、リッサ海戦は日露戦争において日本海軍が対バルチック艦隊戦略を立案するにあたっての参考となっています。
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つなぎ
「無能」とは何か、というのを考えさせられます。なぜなら人間の大部分は無能だからです。
不幸なのは、僕たちみたいな無能な人間が、運命の巡り合わせで非常に重大な責任を負う立場にたち、本人なりに努力はしたかもしれませんがやっぱり失敗して、本人が死んだ後もこうして多くの人に恨まれ叩かれ続けていることにあります。
個人の責任問題は当然あり、無能な個人の行動をカバーできなかった組織の問題もありますが、適当な人間が適当な職務にあたれないのは本当に不幸だと思い知らされます。
「無能な指揮官列伝」、後編に続きます。
参考サイト
"Quintus Servilius Caepio: A Terrible General, but an Amazing Thief" Classical Wisdom Weekly
"Prince Frederick, Duke of York" Unofficial Royalty
"9 Worst Generals in Histor" Encyclopedia Britanica
"Elphinstone’s 1842 Kabul Retreat During the First Anglo-Afghan War" Warfare History Network