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【フィリピンvsマレーシア】北ボルネオ紛争の発生原因

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Image from "Indonesian Confrontation" NATIONAL ARMY MUSUEM

 イスラム武装勢力が領有を主張するマレーシア北部地域

 一般的にはマレーシア・サバ州と言われる、ボルネオ島(インドネシアではカリマンタン島と呼ぶ)の北部は、マレーシアが実効支配しフィリピンがその領有を主張する係争地です。

現在はフィリピン政府は表立って主張していませんが、スールー諸島のイスラム武装勢力が自らの北ボルネオの領有を主張しています。2013年に「スールー王国軍」を名乗る武装勢力数百人がフィリピンから北ボルネオに上陸し、海沿いの村を占拠する事件が発生しました。

今後 フィリピン南部のイスラム武装勢力が巨大化した場合、北ボルネオ問題は再燃する可能性があります。というのも、現在この地がマレーシアの領土になった経緯はかなりややこしく、問題が多いプロセスを経ていたからです。

 

1. マレーシア、フィリピンの主張

詳しい歴史を見て行く前に、マレーシア、フィリピン、スールーそれぞれの主張を見ていきたいと思います。

 

フィリピン

現在フィリピン政府は表立って北ボルネオの領有権を主張してません。しかし、かつては両国間の長年の懸案事項で、マレーシアが発足した1963年には両国は北ボルネオ問題をめぐり国交断絶状態に陥り、あわや戦争という一触即発状態に陥りました。1969年になって両国は国交を回復しますが、両国の間でこの問題は棚上げ状態になっていて完全解決はしていません。

さて、フィリピン側の主張ですがフィリピン人学者のパシフィコ・オルティスという人が「北ボルネオ=フィリピン領説」をまとめています。要約すると以下の通りです。

 

・イギリスのオーバーベックとスールー・スルタン間で結ばれた1878年条約は、イギリスへの北ボルネオの「賃貸契約」であって「割譲」ではない

・スペインがスールー王国を陥落させた1878年の降伏条約も、スールーの北ボルネオ領有を否定できない

・1962年のスールー・スルタンとフィリピンとの間の北ボルネオ割譲条約によって、主権はスールーからフィリピンに移動した 

・よって、北ボルネオはフィリピン領と言える

  

マレーシア

ご存知の通りマレーシアは英領マラヤがその前身にあたり、基本的に当時のイギリスの主張を支持する立場です。北ボルネオの主権はマレーシア側にあるとの主張で代表的な論説はリー.R.ライトのものです。まとめると以下の通り。

 

・そもそも、北ボルネオがスールーに割譲された歴史的証拠はない

・仮に北ボルネオの主権がスールーに移っていたとしても、1878年条約はイギリスへの北ボルネオの割譲であったことは明白

・それ以前にも、北ボルネオはスールーからイギリス東インド会社に1764年に割譲されていた

・いずれにせよ、北ボルネオの主権はイギリスの領土を受け継ぐマレーシアにある

 

スールー王国

北ボルネオは、かつて北ボルネオとスールー諸島をその支配下に置いていた、スールー王国のスルタンとその末裔も領有権を主張しています。冒頭で述べた武装勢力も、スールー王国の現スルタンを名乗っていたジャマルル・キラム3世が率いた集団でした。

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Photo from "Jamalul Kiram III, Philippine sultan who led revolt in Malaysia, dies at 75" Washington Post

キラム3世はマレーシアに対しスールーの北ボルネオの領有を認め、さらに過去からの賃貸料100億ドルを支払うよう要求していました。さらに、もしマレーシアが北ボルネオをサバ州として連邦に留め置くのであれば、自らを州のスルタンにし、他のマレーシアのスルタンと同様の権利を認めるべきとしました。

キラム3世の主張は以下の通り。

 

・北ボルネオはスールー王国が歴史的に主権を持つ

・1878年条約ではスールー王国はイギリスに北ボルネオの「賃貸契約」をしたわけであって「割譲」したことは一度もない

・1962年の北ボルネオ割譲条約は無効であり、フィリピン政府は北ボルネオ問題について交渉する法的権利は全くない

 

たぶん、これだけ読んでもどちらが正しいか、何がどうなっているかサッパリだと思います。時代を遡って流れを追っていきたいと思います。

 

2. スールー、スペイン、イギリス、ブルネイの利害の対立

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スペインのスールー王国制圧

スールー王国は16世紀に現在のスールー諸島に成立したイスラム王国で、首都ホロを中心に中継交易で栄えました。スールー王国は配下に海洋民族イラヌン人やバジャオ人を従え、行き交う船に海賊行為を働いてカネを得ていました。

北ボルネオの一部もそのような海賊たちの拠点でしたが、大部分の地域にはダトと呼ばれる首長を小部族が割拠しており、そのようなダトたちの精神的指導者がブルネイのスルタンでした。しかしこの地域の支配を目指すスペインは、ブルネイに対したびたび攻撃をしかけ、1654年にブルネイはスペイン軍に大敗し以降衰退していきます。

ブルネイの衰退に乗じてのし上がったのがスールー王国。1780年頃からイギリス人が対中国貿易の拠点をミンダナオ島からスールー諸島に移したことで、スールー王国は強力な武器・弾薬を入手。ミンダナオ島西部、北ボルネオ、パラワン島南部を勢力圏に納め、スールー海域を中心に交易で強大化し、首都ホロは対ヨーロッパ・対中国の海上貿易周辺の物産が集積する一大貿易センターに成長しました。

一方、フィリピン諸島全体の支配を狙うスペインは、スールー王国に対し時には武力で、時には話し合いで勢力の排除を進めていき、1878年にスールー王国を支配するようになります。

 

東インド会社の北ボルネオ進出 

一方で、18世紀半ばごろからこの地域にはイギリス東インド会社が進出してきており、北ボルネオの権益確保を目指していました。

 イギリス東インド会社のダーリンプルという男は、スールー王国との交易関係を結ぶために1760年に来訪し、翌年に友好通商条規を締結しました。その後親善を深めたスールー王国スルタンのアリムディン2世とダーリンプルは、1764年に「北ボルネオをイギリス東インド会社に譲渡する」旨の条約を締結したのでした。しかし、イギリス政府はスペインの反発を恐れてこの条約を承認せず、スールーと会社間での契約にすぎないものでした。

その後スールーとイギリスの関係はこじれ、スールーの海賊によって北ボルネオは再占領されてしまいます。イギリス政府はこれにより、北ボルネオの領土を失ったと考えました。

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3. 1878年条約の締結へ

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スペイン・イギリス・ドイツ間の緊張

イギリスはスールー王国の属国化を進めようとし、1849年に通商条約を結びますが、スペインはこの条約の第7条「イギリスの同意なしにスールーのいかなる領土も割譲しない」という規定に反発。

懲罰のためと称してスペイン軍をスールーの首都ホロに送り込んで町を焼き払い、1851年にスルタン・プルランとの間に「スールー併合条約」を結びました。スペインはこの条約により、スールーとイギリス東インド会社が結んだ全ての条約と、イギリスと通商規定の第7条は無効になったと主張しました。

 

しかし、スールー海賊のレジスタンスが活発になったことで、イギリスは「スペインはスールーを支配できていない」として併合条約を無効と主張し、スールー王国の北ボルネオ領有を支持しました。

これに対しスペインは実力行使に打って出ます。スールー海域で交易をする船はスペインに税金を支払わなければならないと布告した上で、それに違反したという名目でドイツ船を拿捕。さらにスールーを海上封鎖し、イギリスとドイツの貿易に多大な損害を与えました。

一触即発ムードが高まる中、スペイン・イギリス・ドイツはスールー海域における貿易の交渉をはじめ、1877年に「1877年議定書」を締結。これにより、スールー海域における自由貿易が確立され、スペインのスールー王国に対する影響を認めながらも主権は持たないということが確認されたのでした。

 

大問題の1878年条約

少し時代をさかのぼって1865年、アメリカ人のモースという人がブルネイのスルタンから北ボルネオのキマニス湾からパイタン川までの土地使用権を譲り受けました。この権利は1874年にイギリス北ボルネオ暫定協会のオーバーベッグという人物に売られ、オーバーベッグは正式に1877年にブルネイのスルタンと北ボルネオの割譲契約を結びました。

しかし、ブルネイのスルタンは彼の先祖が北ボルネオのかなりの部分をスールーのスルタンに割譲していたと話し、この契約だけでは北ボルネオ全てを領有できないことが分かりました。そこでオーバーベッグはスールーのスルタンに会い、領土権の取得の交渉をしようとします。

 当時のスールー王国はスペインからの攻撃に悩まされており、イギリスからの助力は願ってもないもの。オーバーベックはスルタンと交渉し武器弾薬を購入する資金の代わりに、北ボルネオの領有に関する1878年条約を締結しました。

北ボルネオ紛争の最大の論争は、この1878年条約が「譲渡契約」か「賃貸契約」だったかという点です

この契約書はアラビア文字表記のマレー語で書かれた後に英語に訳され、マレー語版は北ボルネオの現地語トスン語に訳され、トスン語からさらにスペイン語版に訳されました。

この契約書はマレー語では「padjak」と書かれました。この単語はオランダ語からマレー語に転化した単語で、英語では「lease」つまり貸与という意味です。トスン語からスペイン語に訳された後も「arendo(貸与)」と書かれました。

しかし、英語版についてだけは、イギリス人のマックスウェルとギブソンが契約書を翻訳する時に「cede」つまり譲渡と訳しました

この契約書の翻訳の問題で、イギリス人は北ボルネオを「自分の領土にした」と思い、スールーのスルタンは「一時的に貸与した」と思うというとんでもない認識違いが生まれたのです。 

 

4. スペインのスールー併合、イギリスの北ボルネオ併合

このイギリスの動きを知ったフィリピン・スペイン総督は、1878年2月にスールー王国に降伏条約を締結するように通告します。スールーのスルタンはイギリスとドイツに調停を打診しますが、両国とも「スペインとの条約に従うべし」という冷たい反応でした。

なすすべなく、1878年7月にスルタンはスペイン・スールー総督マルチネとの間で降伏条約が調印しました。

この条約では「スールー王国の領土はスペインの支配権が及ぶ」「ただし、スペインが占領していない領域ではスールーが徴税権を有し、内政の主権を有する」とされました。対外主権は放棄させられたわけですが、イギリス、ドイツ、オランダはこのスペインのスールーに対する主権を認めていませんでした。

スペインはスルタンに対し、オーバーベックとの契約を破棄するように強制しますが、スルタンはこれを認めず、降伏条約は北ボルネオには適用されないとイギリス側に伝達しました。

 

オーバーベックはスペイン・スールー総督マルチネに対し北ボルネオの主権を主張したため、スペインは武力で制圧する行動に打って出、この問題はイギリスとスペインの外交問題に発展しました。

イギリスはそもそもスペインのスールー諸島の主権を認めないという立場を取り、一方スペインは北ボルネオを含むスールーの領土の主権はスペインにあると主張します。

交渉は平行線を辿りましたが、とうとうイギリス側から妥協の提案がなされました。イギリスはスペインのスールー諸島に対する主権を認める代わりに、スペインは北ボルネオのイギリスの主権を認めるよう打診したもので、スペインはこれを受け入れ、1885年に1885年議定書が取り交わされました。

3年後、イギリス政府はオーバーベックの北ボルネオ会社と取り決めを交わし、北ボルネオを保護領とし北ボルネオ州を設定しました。

イギリスは「1878年条約により北ボルネオは北ボルネオ会社の所有となった」という前提ですが、スールーのスルタンからすると貸与してた土地がいつのまにか乗っ取られていたという形になりました。この協定ではスールー王国の北ボルネオに対する主権がどうなっているか、明確には書かれていません。

 

5. フィリピンのスールー王国併合

その後イギリスは北ボルネオの支配の確立を19世紀末までに完了しますが、一方のスペインは 1898年に米西戦争で敗北しフィリピンの主権をアメリカに奪われてしまいます。

スールーは新たな支配者アメリカにも抵抗をみせ、1904年3月から1905年10月まで抵抗運動が活発化しました。アメリカは1915年にスールーのスルタンにアメリカに対する宗主権を再度確認し、宗教的権威以外の全ての権限を放棄することを定めたカーペンター・キラム協定を締結。これによって、スールー王国は内政権や徴税権を失い、正式に消滅しました。しかしこの協定はスールー・スルタンの北ボルネオの主権を否定するものではありませんでした。 

そのためアメリカから領土を受け継いだフィリピン政府は、1962年にスールー・スルタンと北ボルネオ割譲文書を交換し、スールー諸島及び北ボルネオの権限を獲得したとしました。

この割譲文書を元にフィリピン政府は、北ボルネオの領土交渉権は自分たちにあるとしていますが、スールー・スルタンのキラム3世はこれを認めず、まだ北ボルネオの領有権は自分たちにあるとしています。

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まとめ

北ボルネオの件を見ると、国際社会の秩序って結局「言ったもん勝ち」「やったもん勝ち」 なんだなと思います。

イギリスもスペインもやってることはめちゃくちゃだけど、それが既成事実化してしまうと、歴史的には一番正当性がありそうなスールー・スルタンの行動や言説が「めちゃくちゃ」なものになってしまいます。

しかしやはりこういう強気なアクションが可能なのは、経済力や軍事力といった「力」があるからです。国家に道徳心や清潔さを求めるのもいいですが、あくまでそれは相対的な評価軸の一面であって、国際社会の中でうまくやるための力を維持しないといいカモになるというのが分かる事例と思います。

 

参考文献・サイト

"フィリピン・マレーシア間の北ボルネオ・サバ領をめぐる領有権紛争の淵源(一)" 飯田 順三

"フィリピン・マレーシア間の北ボルネオ・サバ領をめぐる領有権紛争の淵源(二)" 飯田 順三

"The right to North Borneo" THE ASEAN POST

"The claim to Sabah: A historical perspective" ABS CBN NEWS

"The North Borneo Dispute – A History of Tension" Phil life