お金とは何なのか、を考えざるを得ないハイパーインフレの世界
2007年から2009年にかけてジンバブエ・ドルが狂ったようなインフレを起こし、最後は100兆ジンバブエ・ドルまで発行されたのは記憶に新しいと思います。
この件は結構ネタ的に語られることが多かったですが、実際銀行に預金をしていたであろう庶民はたまったもんじゃありません。預金にあった1000万円が、ある日1円まで値下がりしてたみたいな話ですからね。庶民もバカじゃないので、金やドルに変えて持っておくとかそれなりの自衛策はやるんでしょうが、経済や市場は大ダメージを受け庶民生活にも影響があるのは必然でしょう。
今回はかつてハイパーインフレを起こした6の通貨から、どのようなタイミングで起こるものかを学んでいきたいと思います。
1. ハンガリー・ペンゲー(1945-1946)
国民生活の保証のために大量に紙幣を刷ったことで発生
史上起こったハイパーインフレの中でダントツのインフレ率でギネスにも載っているのが、1946年のハンガリー・ペンゲー。
そのインフレ率は960,000 垓%。これを数字にすると、96,000,000,000,000,000,000,000,000%ということになります。もはやわけがわかりません。
1945 年5月1日には1ペンゲーだった郵便料金は、2ヶ月後に3ペンゲーになり、46 年1月には 600 ペンゲーに上昇。46 年3月に2万ペンゲー、5月に 200 万ペンゲー、7月には 40兆ペンゲーとなったそうです。
ハンガリーは第一次世界大戦後の敗北による多額の賠償により、通貨であるクローネが暴落しハイパーインフレが発生しました。そのため新通貨としてペンゲーが導入され、第二次世界大戦までは比較的安定した通貨として知られていました。
しかしハンガリーは第二次世界大戦で枢軸側として参戦しまたも敗北。ハンガリーはソ連軍に占領され、経済は壊滅状態になり、ペンゲーの価格は急落しました。
ハンガリー政府はこれに対し、大量に紙幣を刷って国民に広く紙幣を行き渡らせる政策を実施しました。例え通貨価格が下がっても、充分な紙幣があれば最低限の国民生活の保証になると考えたわけですが、結果これが大惨事を招きました。
物資が不足しているにも関わらず紙幣が世に溢れたことで猛烈な物価高が起き、1日で物価が2倍になるような加速度的な価格上昇に繋がり、紙幣の額面も信じられない上昇を見せ、流通はされなかったものの10垓ペンゲー紙幣すら印刷されました。
ハンガリー政府はペンゲーの他に新たなアドーペンゲーという新たな通貨を発行したり、75%の財産税を設けたりインフレ抑止策を実施しましたが効果が出ず、結局1946年8月にペンゲーは廃止され、現在でも使われているフォリントに切り替えたことでようやくハイパーインフレは終焉しました。
2. ジンバブエ・ドル(1990-2009)
ムガベ大統領による無茶な経済政策から発生
ジンバブエは旧名をローデシアと言い、1980年までイギリス系の白人による支配が長らく続いていました。そのため独立後も大土地所有者や知識人層は白人が占め、大多数の黒人はその支配に甘んじるという状態が続いていました。
1987年に首相から大統領に就任したロバート・ムガベは、2000年に白人の土地を強制的に黒人に分配する政策を実施。資本力と技術力、知識のある白人層は次々と海外へ逃亡し、残ったのはノウハウのない黒人たちだけだったため、農業を中心に生産力が急速に低下し物資不足に陥ります。
さらにムガベはジンバブエに進出してきている外資企業の株式の過半数を黒人に譲渡することも決定したため、外資企業の多数がこれまた逃亡。
決定的だったのが、「価格統制令」。すでにジンバブエ・ドルは急激なインフレが進行していましたが、ムガベは「全てのモノやサービスの価格を半額にする」政策を実施します。売れば売るだけ損をするので当然、商店主らは商品の販売を渋り倉庫に隠すようになります。ムガベはサービスを停止した企業の摘発を進めたため、倒産する企業が続出。
極度な物資不足にも関わらず、ムガベが黒人たちに金をバラまいたおかげでマネーサプライは過剰な状態になり、空前のハイパーインフレーションが発生しました。
1980年には1ドル=0.68ジンバブエ・ドルだったのが、2008年5月16日には1ドル=2億5600万ジンバブエ・ドルまで下落しました。
とうとう1兆ジンバブエ・ドルが発行されたのは、ニュースで広く報じられました。
結局2009年にジンバブエ・ドルは流通しなくなり、米ドルや南アフリカ・ランドが使われるようになったことでインフレは抑制されました。
3. ユーゴスラヴィア・ディナール(1989-1994)
賃金・物価スパイラルにより発生
ユーゴスラヴィア連邦は1988年秋からハイパーインフレを起こし、政府によるインフレ対策やデノミ(通貨切り下げ)が何回も行われましたが対応できず、ユーゴスラビア・ディナールは1993年10月から1995年1月の間に5兆5000億%のインフレを経験しました。
実際に当時のインフレ上昇率はすさまじく、人々は給料をもらったら真っ先に両替屋に走ってドイツ・マルクに変えて資金を守ったそうです。
なぜユーゴスラヴィアのハイパーインフレは起こったか。原因は複合的ですが、主要因は以下の通り。
1.投資の加熱。赤字企業も国によって救済されるため、無茶な借金をして投資を行う自主管理企業が続出し、また政治家も消費的に投資に介入した。
2.競争のない体制。ユーゴスラヴィアは寡占的な経済社会であったため、競争がなく、需要の拡大に対して価格の値上げで対応しようとした。
3.所得インフレーション。労働組合は経営者に対し賃上げを要請するが、労働生産性以上の賃金を要求するのが常だった。全体最適を考慮しない経営者はそれを受け入れ、価格の値上げで増加分を吸収しようとした。
4.過小生産インフレーション。労働組合も生産増大による所得の上昇よりも、生産縮小と価格の上昇による所得の上昇を目指し、生産性が著しく低下した。
これらの要因により、賃金と物価の両方が爆上げしていくという「賃金・物価スパイラル」に突入しました。
政府は完全な競争的労働市場や市場経済の創設を図って生産性を拡大しようとし、インフレに対しては1990年に通貨の1万分の1のデノミを実施しました。この頃、構成国であるクロアチア、マケドニア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが連邦から離脱し独自の通貨を発行し始めます。
インフレは止まらず、1992年、93年、94年と3回のデノミを敢行。93年には100万分の1、94年には10億分の1の切り下げが行われました。これでもインフレは止まらず、とうとう1994年1月24日にノビ・ディナールという新通貨が発行され、ドイツ・マルクが等価で固定され、その後マルクが公式通貨の扱いになり、ユーゴスラヴィア・ディナールはほとんど使われない通貨となっていきました。
しかしユーゴスラビア連邦が2003年にセルビア・モンテネグロに改称するまで使われ続けたのでした。
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4ドイツ・マルク(1914-1924)
第一次世界大戦の賠償支払いによる混乱から発生
「札束で遊ぶ子供たち」の写真は有名で、世界史の教科書で見たことのある方も多いのではないでしょうか。歴史的なハイパーインフレの代表格は、第一次世界大戦後のドイツ・マルクのそれです。
有名なジョークにこんなものがあります。
ある男がパブで一度に2杯のビールを注文した。店員は言った。「1杯目を飲みきるまでにビールがぬるくなってしまうよ。後から注文したらどうだい」すると男はこう返した。「1杯目のビールを飲みきるまでに通貨の価格が下がってビールが高くなってしまうかもしれんからね」
大戦で敗北したドイツは戦勝国に1320億金マルクという多額の賠償金を課せられますが、長らくの戦時体制下でドイツ経済は疲弊しており、支払いは遅々として進みませんでした。そんな中、フランスとベルギーがルール地方の工業地帯を武力で占領し、物流を抑えて賠償を無理やり分捕ろうとすると同時にドイツ政府に早期の支払いを促す事件が勃発。
ドイツ政府はこれに反発して労働者にストライキを呼びかけ、賃金を政府が保証する形を採りました。ドイツ経済の中心からの供給が途絶え歳入が激減したにも関わらず、歳出はどんどん増えたため、マネーサプライは大戦前の2,000倍に膨れ上がり、空前のハイパーインフレが発生しました。
1922年前半には、1ドル=約320マルクでしたが、1923年1月のルール占領からマルクは下落を続け、1923年11月までに1ドル=4兆2105億マルクまで下落しました。
このハイパーインフレは、ドイツ帝国銀行総裁ヒャルマル・シャハトが主導した臨時通貨レンテンマルクの導入により収束しました。人々は刻一刻と暴落するマルクを手放し、供給量と価格が安定したレンテンマルクをこぞって交換したことで、市場から高額紙幣が駆逐され安定に向かっていったのでした。
5. ギリシャ・ドラクマ(1941-1944)
Photo by Tilemahos Efthimiadis from Athens, Greece
占領軍の無茶な物資調達から発生
ギリシャの通貨ドラクマのハイパーインフレは、第二次世界大戦中のドイツ占領下にあった1941年から1944年にかけて発生しました。
ドイツ軍による占領の直前、ギリシャ市民は戦争による物資不足に備えて手持ちのドラクマを放出して食料や燃料などの確保に走ったため、市場は物資供給不足に陥り、価格の高騰とドラクマ価格の下落が起こり始めました。市民は下落するドラクマを金に変えて資産を守ろうとしたため、さらにドラクマの価値は下がっていきました。
ドイツ軍とイタリア軍がギリシャを占領した後、両軍は食料・鉱物・材木などの物資をギリシャから徴収しようとします。当初はドイツ・マルクとイタリア・リラで商人に支払われていましたが、後に直接ドラクマで買い付けを行うようになりました。
しかし極度の物資不足から価格は高騰しており、ドイツ軍はギリシャ銀行に命じてドラクマ紙幣を大量に刷らせ、その金で物資調達を行うようになったのでした。
当然インフレ率は加速度的に増加していき、それに対応するために新たに桁数の大きい紙幣を擦りまくるという状態になり、最高で1,000億ドラクマ札まで刷られました。
ギリシャ銀行が刷れなくなると、民間の印刷会社まで動員したというので、とんでもない数のお札が市場に溢れたのでしょう。
結局1944年11月にドイツから解放された後にデノミが行われますが、この時のハイパーインフレの後遺症でドラクマはしばらく安定せず、1954年のブレトン・ウッズ体制への参加と再デノミでようやく安定するに至りました。
6. 中華民国・圓(1937-1949)
国民党政府の無茶な紙幣印刷により発生
中華民国が初めて中央銀行を設置したのは1928年のことで、それまでは銅貨や銀が使われていましたが交換率も地域によってバラバラで、蒋介石は統一通貨により政治的・経済的な中国の統合と安定的な政府収入の確保を目指しました。
しかし1937年7月から日中戦争が始まり、次いで国共内戦が始まると、国民党政府は戦費を賄うために大量に紙幣を刷り、過剰なマネーサプライに陥っていきました。
日中戦争勃発時に流通していたお金の総量は36億圓でしたが、太平洋戦争勃発時の1941年12月には228億圓に。終戦時の1945年に1兆5,066億圓に増加。次いで起こった国共内戦はもっと悪いインフレをもたらし、 1946年末まで9兆1,816億圓、1947年12月までに60兆9,655億圓、7ヶ月後の1948年7月には399兆916億圓に拡大しました。
過剰なマネーサプライは外貨市場における中国の紙幣の暴落に繋がり、 1937年6月には1ドル=3.41圓でしたが、 1941年12月には闇市場で1ドル=18.93圓。 1945年の終わりには1ドル=1,222。1949年5月には1ドル=2,3280,000圓と大暴落を続けました。
内戦に勝利した共産党政府は、中国人民銀行を設立してハイパーインフレの抑制に当たり、国家財政収支・重要物資需給・国家機関現金収支の3つの平衡を目指す「三平政策」が開始され、許可なく一定額以上の現金を保有することを禁じる現金管理制度などの導入によって徐々に収束に向かいました。
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まとめ
そうせざるを得なかったのかもしれない、という事例もあれば、何でそうなった、という事例まであります。
ハイパーインフレが起こることで経済や国民生活はズタズタになりますが、インフレの発生により相対的に国の借金は減るわけで、1100兆円以上にも膨れた日本の借金返済のためにハイパーインフレに誘導しようというような、よからぬことを企む連中が出てこないことを願います。
参考文献・サイト
ユーゴスラヴィアの経済危機 小川洋司 高知大学学術情報リポジトリ
ハイパーインフレへの警戒 跡見学園女子大学教授 山澤 成康 第一生命経済研レポート
"Hungary’s Hyperinflation: The Worst Case of Inflation in History" AMUSING PLANET