歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

歴ログ-世界史専門ブログ-は「はてなブログ」での更新を停止しました。
引き続きnoteのほうで活動を続けて参ります。引き続きよろしくお願いします。
noteはこちら

トレビゾンド帝国の歴史 - 黒海にあったビザンツの亡命帝国

f:id:titioya:20181118093733j:plain

本家崩壊後も生き延びたビザンツ帝国の亡命政権

トレビゾンド帝国は現在のトルコ共和国の一都市トラブゾンに13世紀から15世紀にあった国。 

ビザンツ帝国を追われたコムノネス王家が流れ着き、同じキリスト教国のジョージア(グルジア)の支援を受けて成立し、イスラム教国を含む周辺国と協調しながら約250年間も生きながらえました。本家ビザンツ帝国はオスマントルコに1453年に滅ぼされますが、トレビゾンド帝国はその後も数年生きながらえました。

今回はかなりマイナーなビザンツ帝国の亡命政権トレビゾンド帝国の歴史のまとめです。

お話は同じキリスト教徒がビザンツ帝国を攻めた第4回十字軍から始まります。

 

1.  第4回十字軍によるビザンツ帝国の中断

f:id:titioya:20181117084126j:plain

 グダグダな第4回十字軍

1187年、エルサレム王国はアイユーブ朝のサラディンに敗れ、エルサレムの街は約200年ぶりにイスラム教徒の手に奪還されました。

これを取り戻さんと第3回十字軍が結成されますが、結局十字軍はエルサレムを取り戻すことはできず、イングランド王リチャード1世(獅子心王)とサラディンとの間で講和が結ばれ終結しました。

講和によりキリスト教徒は安全にエルサレムもベツレヘムにも巡礼に行けるようになっていましたが、イスラムによる支配の下での巡礼であったので、これを快く思わない教皇インノケンティウス3世は強く第4回十字軍の結成とエルサレム奪還を主張していました。

1198年、フランス・シャンパーニュで開かれた馬上槍試合の後、テンションの上がった諸侯たちにより十字軍結成が決定されます。主要参加メンバーは、シャンパーニュ伯ティボー、ブロア伯ルイ、フランドル伯ボードゥワン。

彼らは「4,500名の騎士と20,000名の歩兵、4,500頭の馬と9,000名の馬丁」をエルサレムまで海路輸送するため、ヴェネツィア元首エンリコ・ダンドロに協力依頼しました。

これを受けてヴェネツィアは急ピッチで船の建造が進み、フランスやドイツ、イタリアでは十字軍参加への呼びかけが積極的になされますが、参加者は全然集まらず、予定日にヴェネツィアに到着した兵士は予定の1/3にも満たなかったそうです。

加えて兵ばかりか、遠征にかかる資金も全然集まらなかったため、ヴェネツィア共和国への支払いの見通しが全く立たなくなってしまいました。

フランドル伯やブロア伯は金策に困り、エンリコ・ダンドロに相談。エンリコ・ダンドロはヴェネチアに反旗を翻したハンガリー・ザラの町の攻略の手伝いを打診し、ためらいつつも、十字軍は同じキリスト教徒が住む町を攻撃し5日後に落としてしまいました。

 

ビザンツ帝国の崩壊とラテン帝国の成立

そうして異教徒征伐の遠征が狂い始めた折、ビザンツ帝国前皇帝イサキオス2世を父に持つ皇子・アレクシオスが十字軍を訪ねてきました。彼は政争に敗れ、弟のアレクシオス3世に奪われた帝位を回復したいということで十字軍に協力を求めてきました。

その報酬はなんと20万マルク。優にヴェネツィアへの借金を返済できる報酬も魅力でしたが、さらに十字軍諸侯にとって魅力だったのが、アレクシオスが条件として提示した「東西ローマ教会の統合の約束」。

「簒奪者」アレクシオス3世を追放するだけでキリスト教世界の英雄になれるという甘言に魅せられた諸侯は、ビザンツ帝国攻撃を決意しました。

 

1203年6月に始まった攻撃でコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツの王家たちは近隣に逃れ、複数の亡命政権を築くことになります。

アレクシオス3世アンゲロスの娘婿であったテオドロス・ラスカリスは、アナトリア半島西部のニケーアを中心にしてニカイア帝国を結成。

イサキオス2世の従兄弟ミカエル1世はギリシャ西岸の街アルタを中心にエピロス専制侯国を結成。

そしてイサキオス2世の前皇帝で、コムネノス王朝最後の皇帝アンドロニコス1世の孫であるアレクシオス・コムネノスが、黒海沿岸に逃れてトレビゾンド帝国を結成しました。

f:id:titioya:20181115123025p:plain

Work by Jniemenmaa

ちなみに、コンスタンティノープルを落とした十字軍は、アレクシオスをアレクシオス4世として父イサキオス2世と共に共同皇帝に就けますが、実はビザンツ帝国の財政も火の車であったことが分かり、アレクシオス4世は十字軍への支払いを渋るようになります。両者の対立が深まる中でアレクシオス4世は前皇帝アレクシオス3世の婿のアレクシオス5世に殺害されてしまいます。十字軍への支払いなど無視する意向の新皇帝に対し、十字軍は再び攻撃を開始し、アレクシオス5世を追放し、フランドル伯を皇帝に据えて「ラテン帝国」の設立を宣言しました。

 

2. トレビゾンド帝国の建国

トレビゾンド帝国はコムノネス王家による亡命帝国ですが、実はそのタネは第4回十字軍以前にすでに撒かれていました。

ラテン帝国成立の19年前、1185年ビザンツ帝国の宮廷内でクーデターが発生しコムノネス王家は王座を追放され、皇帝の一族や関係者はその大部分が粛清されました。

 ところが皇帝の2人の幼い孫、アレクシオスとダヴィドはジョージア(グルジア)に逃げ、女王タマルの庇護を受けました。ジョージア王家バグラティオニ家はコムノネス家と親密な関係にあり、2人の祖母(つまりアンドロニコス1世の妻)は、タマルの祖父ゲオルギ3世の妹カタでした。

ジョージア王国はこの時代カフカス地域でもっとも有力な国家で、ダヴィド2世とタマルの時代に王国の版図を最大にして近隣の諸侯との同盟を強化し、黒海やカスピ海での貿易を抑え最盛期を迎えていました。

f:id:titioya:20181118083555j:plain

Work by Ercwlff

十字軍によってラテン帝国が成立した後、ジョージアに亡命していた当時20代の兄弟アレクシオスとダヴィドは、おそらくジョージア女王タマルの支援により黒海南岸地域へ軍事侵攻し 、トレビゾンドの領有を宣言しました。

十字軍の侵攻とラテン帝国成立前後の混乱は、トレビゾンドの港を奪うには絶好の機会でありました。

弟のダヴィドはトレビゾンド成立後も西に遠征を続け、ヘラクレイア・ポンティカの港まで奪取しニケーア帝国の領土を脅かしますが戦闘中に死亡してしまい、トレビゾンド帝国の領土拡張はここで終了しました。

兄のアレクシオスはアレクシオス1世メガス・コムネノスと称し、「全東方とイベリア(コーカサス南西部)、および海の向こうの地(クリミア)の皇帝にして専制君主」という称号を名乗りました。

 

3. 内紛と皇帝アレクシオス3世の登場

f:id:titioya:20181118101256j:plain

初代アレクシオス1世から1300年代前半までは、ルーム・セルジュク朝、イタリア、特にヴェネツィアとの領土的・経済的な戦いに明け暮れました。

ダヴィドが制圧した黒海沿岸の主要港スィノプはトルコマン人によって奪われ、もともとビザンツの影響下にあった黒海北方のクリミア半島はまもなくタタール人とイタリア人に占領されてしまいます。

スィノプはトレビゾンドとトルクマン人によって何度も争われ、4代皇帝マヌエル1世の時代に取り戻しますが、5代皇帝アンドロニコス2世の時代に再度奪われてしまいます。

このように不安定な帝国の安全保障を確立し維持したのは7代皇帝アレクオス2世(1297〜1330)で、彼は1254年には再々度スィノプを奪還。さらに彼は独自の銀貨も発行し、積極的に対外貿易に乗り出し帝国の経済基盤を安定化させました。

 

しかしアレクシオス2世の死後に帝国は内紛状態に突入します。

宮廷は親ビザンツ派のグループ"Scholaroi"と、独自路線を主張するグループ"Amytzantarantes"に2分され、それぞれ皇帝を擁立しては暗殺を繰り返すなどして、1330年から1349年の19年間で7人の皇帝が入れ替わりました。

皇帝ミカエルの治世の1347年には黒死病が流行したことで帝国は無政府状態に陥り、その隙を突いてトルクマン人により西部の港町ユンエが占領され都トラブゾンすら包囲され、ギレスン港はジェノヴァに占領されてしまいます。

1349年、帝国の安定化を図るためにミカエルは甥のアレクシオスに皇帝位を譲って退位しました。アレクシオスは対立する両派閥を懐柔して支配下に納め始めており、彼がアレクシオス3世として帝位につくことでようやく内紛は終了したのでした。

アレクシオス3世は40年もの間皇帝位に就き、彼の元でトレビゾンド帝国は政治的に安定し周辺国との関係も改善し、また経済的にも繁栄したことでヨーロッパ人が驚嘆する東方キリスト教文化が花開くことになります。

PR

 

 

4. 辺境の「おとぎ話のような国」

トレビゾンド帝国は自ら「ローマ帝国の後継国家」を自称していましたが、言語や文化はビザンツ帝国のギリシア的伝統を、それもピュアな形で引き継いでいました。

トラブゾンの港町には、コンスタンティノープルよりも小さい規模ながら聖ソフィア教会(ハギア・ソフィア)が建設されました。独立した鐘楼と見事なフレスコ画を持ち、トレビゾンドの信仰の中心でした。

f:id:titioya:20181118090937j:plain

Photo by Herbert Frank

山岳地帯にはコムネノス家による領土の寄進と税制上の優遇により数多くの修道院が作られ、巡礼者が数多く訪れました。中でも最も神秘的で訪れる者を魅了したのがスメラ修道院。岩肌を削った中に作られており、麓から山道を登ってきた巡礼者に強烈なインパクトを与えたことでしょう。 

f:id:titioya:20181118091702j:plain

Photo by Bjørn Christian Tørrissen

コムネノス家の宮殿は巨大な金色のドームと白い大理石の壁と床と柱が立ち並ぶ見事なものだったそうで、ヨーロッパから訪れた使節や商人たちは、キリスト教世界の辺境に存在する壮麗で敬虔でかつ贅沢な、まるでおとぎ話のような街に感嘆しいたく好奇心をそそられたのでした。

▽これは19世紀に描かれた絵ですが、当時はこの岬から西は建物はなく、船で岬を超えた後に街が姿を表したそうです。海岸から山の間の平野部分と崖の部分に建物が密集していました

f:id:titioya:20181118093733j:plain

 

5. トレビゾンド帝国の経済基盤

トレビゾンド帝国はヨーロッパ諸国の大部分と外交関係を持ち、キリスト教及びローマ帝国というアイデンティティを有していましたが、その経済基盤はアナトリア半島の内陸部にありました。

トレビゾンド港の背にある山の中には小さな集落や農村が無数にあり、農民たちは小麦や家畜を育てて沿岸部に輸出していました。スメラ修道院など大小の修道院は領主でもあり、農民たちの帰属意識を高めコミュニティ維持に貢献していました。

またこれらの農村地帯はトレビゾンド港からフレグ・ウルス(イルハン朝)の都タブリーズに行く陸路の交易路でもあり、トレビゾンド帝国は海上交易はもちろん、対ペルシア交易でも莫大な富を得ていました。

そのため歴代のトレビゾンドの皇帝たちは、アナトリアのムスリムのエミール(領主)たちとの関係を重視していました。

先述のアレクシオス3世はムスリム領主との政略結婚に熱心だった1人で、妹の1人はトルコ系の白羊朝のクトル・ベグと結婚し、別の妹はトルクマン人のエミール、ハジ・オマルと結婚しました。また2人の娘はそれぞれエルズルムとリムーニアのエミールと結婚し、他の娘はクトル・ベグの息子カラ・ユルクと結婚しました。

キリスト教の国とも交流を深めており、リムニアのエミールと結婚した娘は後に夫が他界した後ビザンツ皇帝ヨハネス5世と結婚。別の娘はジョージア国王バグラト4世と結婚しました。

このような政略結婚政策を進めることで、アレクシオス3世はトルクマン人の義理の父・兄弟となり、ビザンツ皇帝とジョージア国王の義理の父ともなっていました。このような結婚戦略は小国トレビゾンドが生きながらえるための重要な手法の一つだったわけです。

 

6. オスマン帝国による征服

14世紀後半、オスマン・トルコはアナトリア半島の大半を制圧し、マルマラ海を越えてバルカン半島南部へ遠征に乗り出していました。1402年にアンカラの戦いでティムールに敗れ、一時的に崩壊状態になったものの、名君メフメト1世の尽力で分裂した帝国を再統合。首都をバルカン半島のアドリアノープルに移し制度を整え、遊牧民を筆頭とする連合王国から、近代的な帝国に脱皮を遂げました。

征服王メフメト2世はエーゲ海から黒海に至る島々に要塞を築いてビザンツの船のアクセスを制限して経済的に追い詰めた上で、1453年に首都コンスタンティノープルを包囲し陥落させます。こうしてローマ帝国の伝統を引き継ぐビザンツ帝国は崩壊し、残るのは亡命政権トレビゾンドだけとなりました。

メフメト2世はコンスタンティノープルの攻略によって得た船や、新たにギリシア人に建設させた船を含む約300隻で艦隊を結成し、1461年に黒海沿岸の征服を開始。

陸上を進む本隊と連携し、まずはトルクマン人のエミールが支配するスィノプを制圧し、さらに内陸を東に進ませた後、トラブゾンの南方で北に向きを変え、背後の山から進撃させました。艦隊も海を封鎖してネズミ1匹逃さない布陣を敷き、8月15日、オスマン・トルコの陸上部隊によりトラブゾンの街は制圧されました。

この瞬間、最後のローマ後継国家が消滅することになったのでした。

▽トレビゾンドの陥落

f:id:titioya:20181115123649p:plain

 

PR

 

 

まとめ

現在のトラブゾンはトルコ共和国の地方の港町に過ぎませんが、ローマ帝国の伝統を受け継ぐ亡命政権が生きながらえて経済的にも繁栄し豊かな文化を花開かせたのは非常に興味深いです。

 ただし経済的な協力関係を築けるのであれば異教徒だろうが婚姻関係を結ぶことをためらわないという現実主義的な発想があったのだろうと思います。そこはまさに、かつて一大帝国を築いたローマ帝国が持っていた精神だったのではないでしょうか。

 

参考文献

黒海の歴史――ユーラシア地政学の要諦における文明世界 チャールズ・キング,前田弘毅,居阪僚子,浜田華練,仲田公輔,岩永尚子,保苅俊行,三上陽 明石書店

黒海の歴史――ユーラシア地政学の要諦における文明世界 (世界歴史叢書)

黒海の歴史――ユーラシア地政学の要諦における文明世界 (世界歴史叢書)

  • 作者: チャールズ・キング,前田弘毅,居阪僚子,浜田華練,仲田公輔,岩永尚子,保苅俊行,三上陽一
  • 出版社/メーカー: 明石書店
  • 発売日: 2017/04/20
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログ (1件) を見る