歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

「ホッジャ主義」とは何だったのか

f:id:titioya:20181113234558j:plain

 時代の流れに逆らい続けたアルバニア

ホッジャ主義とは、アルバニア労働党の指導者エンヴェル・ホッジャ(1908-1945)が掲げたイデオロギー。

ホッジャはソ連のスターリン主義や毛沢東の文化大革命を賞賛しこれらに倣いますが、1956年のフルシチョフによるスターリン批判でソ連と断交し、次いで文革終結期の中国の対外方針転換で中国と断交。

個人崇拝、帝国主義との軍事対決、国家による厳格な国民統制、外国人の入国を厳しく制限する鎖国政策など独自のイデオロギー政策を実施しました。

アルバニア国民にとってはたまったものじゃないですが、 ソ連や中国の「修正主義」を批判しマルクス・レーニン主義の維持を望む世界中の社会主義政党にとって、アルバニアとホッジャ主義は「最後の希望」となったのでした。

 

1. エンヴェル・ホッジャの登場

f:id:titioya:20160419184734j:plain

 Photo by Forrásjelölés Hasonló

パルチザンによるアルバニア解放

アルバニアは15世紀以降オスマン帝国の支配下に置かれ、トルコ化・イスラム化が進みますが、19世紀後半から民族主義が高まり、第一次バルカン戦争の後の1912年11月に独立を宣言しました。

新生アルバニアは共和国としてスタートしますが、大統領だったアハメド・ゾグーが1928年にゾグー1世と名乗り国王に就任し君主制に移行。ゾグー1世はファシスト・イタリアとの経済的・政治的関係を深めますが、そのイタリアに対し依存する構造が生まれ、とうとう1939年4月にイタリア軍はアルバニアに侵攻し軍事併合をしてしまいます。

第二次世界大戦ではアルバニアは枢軸国の一員として連合国に宣戦布告し、イタリア軍と一緒にギリシャに攻め込みますが、アルバニア兵はやる気がなく勝手に退却したりしてイタリア軍の足を引っ張り、逆にギリシャ軍に攻め込まれる有様でした。

一方で国内では反ファシスト抵抗運動が組織され、自由主義系の「国民戦線」、王党派の「合法運動」、共産党を中心とした「反ファシズム民族解放軍」の三大勢力が蜂起します。隣国ユーゴスラヴィアでは、ティトー率いるパルチザンが独自に全土を解放し、そのユーゴから支援を受けた共産党系の反ファシズム民族解放軍が抵抗運動を主導権を握ることになりました。

1944年11月にアルバニア・パルチザンとソ連軍により全土の解放が行われ、アルバニア共産党を中心とした臨時政府が発足しました。

 

▽首都ティアナに入るアルバニア・パルチザン

f:id:titioya:20181124141213j:plain

臨時政府の首相には、パルチザンの指導者であったエンヴェル・ホッジャが就きました。

 

ユーゴスラヴィアへの経済的従属

臨時政府下の1945年12月に議会の選挙が行われ、共産党が主体の「民主戦線」が93%の得票率で政権を獲得しました。

そして1946年1月に議会が召集され、アルバニア人民共和国が成立し、エンヴェル・ホッジャは首相、外相、国防相、軍のトップに就任。その後ソ連とユーゴスラヴィアの憲法を模した憲法が採択されました。

初期のアルバニア人民共和国は、ユーゴスラヴィアのまごうことなき兄弟国でした。

技術的・経済的合意に基づき、両国は経済計画や通貨システム、価格制度を共通のものを採用。ユーゴスラヴィアからの投資で食品工場や印刷工場などが設立され、戦後すぐの食糧難の年もユーゴスラヴィアの食料の援助で危機を脱するなど、アルバニアはユーゴスラヴィアに大きく依存していました。

その深い関係から、当時のアルバニア政府はアルバニア人が多く住むコソボのユーゴスラヴィア併合を認めてすらいました。

しかしユーゴスラヴィア経済依存が強まるにつれて、重要な事項は全てユーゴスラヴィアに決められ、アルバニアはただ命令を実行するという関係になっていきました。

アルバニアは軽工業や石油プラントの建設を望んでいましたが、ユーゴスラヴィアはアルバニアに「農産品」と「鉱産物」の提供だけを望んでいました。

ユーゴスラヴィアは合同会社を通じてアルバニア人を安い賃金で働かせ、利益の大部分は自分たちの国に持ち帰ったため、アルバニア人は次第に「ユーゴスラヴィアに搾取されている」と反感を高めることになります。

これは戦前にイタリアに経済依存した挙げ句併合された苦い記憶を思い起こさせるものでした。

 

ホッジャ独裁体制のスタート

1948年、ティトーとスターリンの対立が深まりユーゴスラヴィアがコミンフォルムから追放されると、ホッジャはユーゴスラヴィア従属脱却を求めてソ連側に付き、ユーゴスラヴィアと国交断交。国防大臣コチ・ヅォヅェをはじめ国内の親ユーゴ派を粛清・追放。最高指導者の地位に就きました。

ソ連決別後、ユーゴスラヴィアはソ連に頼らない独自の共産主義国建設を進め、アメリカを始め西側諸国との関係改善にも務め、また一定の自由主義経済の導入すら認めたため、スターリンやスターリン体制を支持するアルバニアはユーゴスラヴィアの「反動」「修正主義」「帝国主義との結託」を強く批判することになります。

 

2. 「スターリン批判」批判

f:id:titioya:20181124155219p:plain

スターリン主義の採用

ユーゴスラヴィアと断交したアルバニアはソ連との関係を強化します。

ホッジャは、ソ連とは国境を接していないこともあり、イタリアやユーゴスラヴィアのように経済を乗っ取られる可能性はないと考えました。1949年にアルバニアはコメコン(comecom)に加入し、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニアなどとの貿易を強化しました。しかし、貿易の大半はソ連だったし、ソ連はアルバニアが抱える借金の返済にも応じました。

ホッジャはスターリン主義経済計画を採用し、5カ年計画による農業と電力生産の強化や農地の強制集団化、工業化を推進しました。

なお、1954年にホッジャは首相に腹心のメフメト・シェフーを据えますが、引き続き第一書記の座にあって権力を維持し続けました。

f:id:titioya:20080130003435j:plain

 

ソ連との決別

国内では個人崇拝・集団主義を進め、対外的には「国際共産主義」により高圧的な干渉を進めたスターリンが1953年3月に死亡。

これを受け親ソ派のホッジャやシェフーらは、親ユーゴ派の巻き返しを警戒し、引き続きスターリンの後継者であるフルシチョフとの連携を強化しようとしていました。

ところが1956年2月の第20回ソ連共産党大会で、歴史的な「スターリン批判」が展開されます。このニュースは電撃的に世界中を駆け巡り、ハンガリーでは民衆が民主的改革を求めて街頭に出てスターリンの肖像を焼くなどして抗議が広がったためワルシャワ条約機構軍が出動するなど、東側諸国に一様に動揺が広がりました。 

このフルシチョフの対応を巡って世界中の共産主義運動は割れ、例えば中国は「スターリンこそ真のマルクス・レーニン主義者である」としてフルシチョフを批判し、これを機に中ソ関係は決裂していくことになります。

フルシチョフはユーゴスラヴィアとの関係を見直し、ティトーに接近する姿勢を見せたため、ホッジャはフルシチョフを批判し1961年にソ連との国交を断絶。

労働党内の親ソ派は一層され、アルバニア在住のロシア人は追放されました。

その後1968年にワルシャワ条約機構軍が、いわゆる「プラハの春」でチェコスロヴァキアに侵攻した際、アルバニアはこれを非難しワルシャワ条約機構から脱退。

ヨーロッパでの孤立を深めたアルバニアは、毛沢東の中国に接近することになります。

PR

 

 

3. 「修正主義」中国批判

f:id:titioya:20181124162000j:plain

中国との関係強化

中ソ関係は1958年のフルシチョフ・毛沢東会談で、フルシチョフが中国の社会主義建設路線を批判したことで険悪化。翌年ソ連が中国への原爆供与協定を破棄し、それに対し中国がフルシチョフの「西側諸国との和平路線」を批判しあくまで帝国主義との闘争路線維持を打ち出すと、 ホッジャは思想的共鳴から中国との連携を強化することになります。

中国は、ソ連断交によりアルバニアが失った工業品や食品、その他品目の約90%を補償し、積極的な経済支援を行いました。党の幹部の相互訪問の他、中国人労働者をアルバニアに行かせて働かせました。現地アルバニア人と同水準の賃金で労働をしたため、アルバニア人にとっては好評だったようです。

しかし国内経済もソ連や東欧諸国に依存していたのを突然関係が絶たれたため、これまでの工業や設備はほぼ使えなくなり経済は低迷しました。

さらに1966年から中国で文化大革命が始まるとホッジャはこれに共鳴。アルバニアでも1967年に独自に「文化革命」を開始。青年組織を動員して全てのモスク、教会、修道院、宗教施設を閉鎖して倉庫や体育館などに改修させ、宗教活動を全面禁止して「無神国家」を宣言しました

 

反中国路線へ

ところが、1970年に入りベトナム問題で中国とアメリカが接近。

1971年には国連の「中国代表」を中華民国から中華人民共和国に移すいわゆる「アルバニア決議」が採択されるなど、アルバニアは友好国として中国の国際的地位向上に協力しますが、文革終了後に主導権を握った鄧小平は「3つの世界論」を唱え、チリのピノチェトやスペインのフランコ、コンゴ民主共和国のモブツなど反共右派独裁政権とも国交を樹立したため、アルバニアはこれを「修正主義」と批判。

これに対し中国は在アルバニアの中国人を一気に引き上げ、援助もストップしたためはアルバニアは極度の物資不足と経済不振に喘ぐようになります。

1976年に毛沢東が死亡した後、1978年にアルバニアと中国は国交を断絶しました。

ホッジャは1976年にスターリン主義に基づく新憲法を採択し、国名を「アルバニア社会主義人民共和国」に変更。マルクス・レーニン主義に基づく国作りを明確に打ち出し、ホッジャの個人崇拝、厳格なイデオロギー統制、当局による国民監視、国民総武装体制、国内のいたるところにトーチカを建設するなど、外界と閉じた鎖国状態に突入しました。

独裁者ホッジャは首相のシェーフと対外路線について確執がありましたが、1981年にシェーフが突然「自殺」。後に殺害されたことが明らかになるのですが、ホッジャはシェーフが実は「アメリカ、イギリス、ソ連、ユーゴスラヴィアのスパイだった」と発表しました。シェーフは「犬のように埋葬された」そうです。

 

4. ホッジャ主義を標榜した世界の政党

 このようにホッジャは政敵を屠って権力を保持しつづけるため、ユーゴスラヴィア、ソ連、中国と協力国と次々に断交してアルバニア経済を破綻させ、しまいには自身を崇拝させる硬直した独裁国家を作り上げてしまいました。

つまるところ「ホッジャ主義」とはホッジャが権力者であり続ける闘争に勝ち抜くための手段でしかなかったのですが、世界にはソ連や中国の「修正主義」を正面から批判し、昔ながらのマルクス・レーニン主義を維持し続けるアルバニアを賞賛し、「ホッジャ主義」を掲げる共産主義政党が数多くありました。

 

ブラジル共産党(PCdoB)

f:id:titioya:20181124174314p:plain

1922年に結成されたブラジル共産党(PCB)は、スターリン批判の後に賛否を巡って分裂し、スターリン主義を維持するグループが共産党から脱退し「ブラジル共産党(PCdoB)」を設立。コスタ・エ・シルヴァ将軍による軍事政権への抵抗運動を続けつつ、中ソ対立では中国を支持し、中ア対立ではアルバニアを支持。「アルバニア派」「ホッジャ主義」を自称しました。

その後PCdoBは合法化され、自主路線・現実路線を取り、2002年に発足した労働党のルラ政権では与党に入り閣僚を輩出しています。

 

日本共産党(左派)

1966年に中国で文化大革命が起きると、日本共産党は中国共産党から「修正主義」であると批判を受け、これを機に党内で文化大革命支持派と反対派に分裂し、日本共産党は親ソでも親中でもない「自主独立」路線を確立。親中派が離党し「日本労働党」「日本共産党(マルクス・レーニン主義)」など数多くの親中政党ができるのですが、「日本共産党(左派)」もこの流れの一部で、1966年に山口県委員会革命的左派が中心となって結成されました。この党は親中であると同時に、親アルバニアでもありました。アルバニアが民主化して以降は毛沢東主義に戻り、現在も活動しているようです。

オフィシャルサイトはこちら

 

その他にも、アメリカ・マルクス・レーニン主義組織や、インド共産主義ガダル党、イタリアのコミュニストプラットフォーム、コロンビア人民解放軍などなど数多くの急進的共産主義政党・組織が、毛沢東主義・ホッジャ主義に共鳴しその理想を掲げ続けています。

PR

 

 

 まとめ

こうやって振り返ってみると、「ホッジャ主義」は駄々っ子の主張のようだし、権力闘争が服を着たようなもので、一般国民からしてみたらいい迷惑だと思います。

「マルクス・レーニン主義」というイデオロギーを「信仰する」ことができるのであれば話は違ってくるのかもしれませんが、特定のイデオロギーに思考や行動が縛られるのは、今や時代遅れになっているとも思います。

 

参考文献

アルバニアインターナショナル―鎖国・無神論・ネズミ講だけじゃなかった国を知るための45カ国 (共産趣味インターナショナル VOL 1) 井浦 伊知郎 社会評論社

 

参考サイト

"What is Hoxhaism?" IDEAS OF A PROLETARIAN Thought Provocation for the Youth

People's Socialist Republic of Albania - Wikipedia