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【中国史】なぜ明朝は「海禁政策」を始めたのか

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明朝によるグローバルシステム構築の試み

経済発展と科学技術の発展が著しい中国。

中国の政治・経済・科学についてのニュースを聞かない日はないくらい、国際舞台での中国の存在感は増しています。以前は国際秩序の構築には関心を示さなかった中国も、AIIBの創立などで中国発の政治経済交易圏を作ろうとしています。

 これは歴史的に見ると目新しいことではなく、自国と体制の安全保障を確立しながらも、あふれんばかりの旺盛な人々の欲を御しながら、国家の元で適切に対外交易と経済発展を成し遂げようとする試みは、歴代の中国の王朝が常に頭を悩ませていた問題でした。

 その一つの大きな試みが、明朝時代の「海禁政策」でありました。

 

1. 明初の対外課題とその対策

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明王朝は元王朝末期の混乱状態の中で成立した王朝。創設者の朱元璋は最貧の乞食僧から身を起こし皇帝にまでのし上がったどえらい男です。明朝成立後も中国の混乱はすぐには収まらず、洪武帝は国家を安定させるための大きな課題に取り組まなければなりませんでした。

まず一つ目の課題は、中国沿岸に出没する海賊被害の問題

日本から船に乗って中国沿岸部にやってきて乱暴狼藉を働く倭寇の被害が深刻化していたことに加え、朱元璋と天下を争った大盗賊団の頭目、方国珍や張士誠らが倭寇と手を組み沿岸部を荒らし回っていました。

海賊問題は、出来たばかりの明王朝をひっくり返しかねない重大かつ危険な問題でした。

二つ目の課題は、内乱で停滞した海外貿易の復興

宋王朝以来、中国の海外貿易は発展を続けており、これを維持発展させることは中国の為政者の重要な責務でした。特に元王朝の治世下で中国はヨーロッパとの結びつきを強め、中国製品のニーズは高まる一方。長い間続いた内乱によって停滞した海外貿易をいち早く回復させる必要がありました。

三つ目の課題は、破綻した朝貢体制の確立

これまで中華の覇者であった元王朝を武力で追いやった明王朝にとって、周辺各国から「中華の覇者」であると承認を受けることは何よりも大事なことでした。元朝が朝貢国を従えて侵攻してくる危険性もあり、元に代わって今は明が中華の中心であると認めさせる必要がありました。

 

洪武帝はまず、許可のない民間人の出海を禁止し、海岸線に衛所を設置して監視に当たらせ、船による監視を強化しました。これは国内で食えなくなった連中が倭寇や盗賊団に合流することを防ぐと同時に、密貿易者の横行や人材の海外流出を防ごうとする意図がありました。

また、洪武元年から積極的に周辺国へ使者を送り、明朝を新たな主人として認め冊封関係を結ぶように促しました。

洪武帝は民間人が許可なく海に出ることはおろか、民間人による海上貿易の一切を禁じ、貿易は国家が行う朝貢貿易のみに限定することで、「海上秩序の回復・海外貿易の促進・朝貢体制の回復」の3つを全て成し遂げようと試みたわけです。

これがいわゆる「海禁政策」のスタートとされています。

 

2. 洪武帝の国際秩序構築

洪武帝は海禁政策を実行することで、元末の混乱で乱れた海上の混乱を沈静化し、東アジアに国際秩序をもたらし、つつがない状態でビジネスを行おうとしました。

そのため、中国とのネットワークを持つ周辺各国すべてが朝貢関係を持つことが重要になったわけです。

明は朝貢国による正式な貿易船が来航するように勘合を与えて持参を義務化すると同時に、関税を免除し事務手続きを簡略化して朝貢国が安心して貿易できる体制も整えました。

 

一方で約束を守らない国には厳しくあたりました。当時の東アジアの問題児は日本で、明政府は倭寇の取り締まりを強く日本に要求していたにも関わらず、日本は問題を放置し続けたため、光武19年(1386年)にとうとう国交を断絶されています。

制裁を受けたのは日本だけでなく、決められた入港回数や貢納品の量を守らない国は厳しいペナルティが課せられ、「朝貢ルール厳守」が求められました。それでも各国からすれば、朝貢貿易はかなり「美味しい」取引だったので、厳しいルールをかいくぐってでも中国に行くメリットが大きかったのです。

 

あまり効果が上がらない!

洪武帝はかなりのエネルギーを使って海禁政策を立案・実行したようですが、正直結果はあまり芳しくありませんでした。

当時の中国の沿岸部の民衆の生活の多くは対外交易と結びついており、危険を顧みずに海に出て外国船と貿易したり、時には倭寇と結託して略奪行為を働く者が相次ぎます。

さらには、東南アジアを始めとした各地に中国人が移り住み、中国人街を形成して貿易をして富を蓄え、現地の政治勢力と結託したり、逆に戦ったりなどして武力を上げ、ガチムチになり中国沿岸に帰ってきて沿岸部を荒しまわる始末でした。

さらに、せっかく作ったルールも、洪武帝亡き後、洪武帝の孫・建文帝と彼の叔父・永楽帝が戦った靖難の変前後の混乱でうやむやになってしまいます。

内戦に打ち勝ち第3代皇帝となった永楽帝は、洪武帝が定めたルールに則りながらも、さらに徹底したシステム構築をする必要に迫られます。

 

3. 永楽帝による国際秩序再構築

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 1403年に即位した永楽帝は、洪武帝が定めた海禁政策のさらなる推進を宣言。

海上の監視体制を強化し、朝貢使節をこれまで以上に積極的に各地に派遣しました。

永楽帝は洪武帝のような頭カチカチおじさんではなかったようで、日本人が帯剣したまま入港しちゃったりなど細かいルール違反には目をつむり、まずは朝貢体制が浸透することを心がけました。

 

永楽帝は諸国から明にやってくる人だけでなく、諸国自身の行動や、諸国に移り住んでいる中国人の行動まで干渉しました。

特にやっかいなのが諸国に移り住んでいる中国人。外国で力を蓄えて略奪や密輸などの悪さをする中国人に対して明政府はこう言います。

「お前たちいい加減にして、国に帰ってこい。言うことを聞いて帰ってきたら褒美をやろう。それでも帰ってこない場合は容赦しねえぞ」

ところが素直に帰ってくるやつがほとんどいない。

さらには諸外国も明の言うことを素直に聞くわけもなく、ベトナムやマジャパヒトなど、明が武力行使をやめるよう要求してるにも関わらず他国へ侵攻したり粗相を起こしたりする。

永楽帝からすると、アジア諸国の親分たる明帝国のメンツ丸つぶれ。

ここはひとつ、大明帝国の威厳を「実体験をもって」周辺各国政府や人々に知らしめる必要があると永楽帝は考えました。

それの方法がかの有名な、鄭和の大遠征だったわけです。

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4. 鄭和の大遠征の目的

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鄭和の大遠征は永楽3年(1405年)から宣徳8年(1432年)まで合計7回実施され、1回に派遣された船の数は大小合わせて200隻以上。訪問国数は三十数ヶ国にものぼり、遠くは東アフリカ沿岸にまで達したことは有名な話です。 

 この大遠征の目的は、経済的な目的より多分に政治的で、大帝国・明の威厳を周辺各国に示し、訪れた国々を明の国際秩序である朝貢体制に組み込むことにありました。

そのためには抵抗する国への武力行使も厭わず、例えば第3回遠征ではセイロン島のライガマ王国を攻撃して王国を崩壊させているし、第4回遠征ではスマトラ島西部のサムドラ・パサイ王国の国王を捕えて親明派の国王へ置き換えています。

第一次遠征ではパレンバンの中国人海賊団同士の抗争に巻き込まれ、梁道明という海賊に組して陳祖義という名の海賊を攻撃し、5,000名の海賊を殺害し頭目の陳祖義を南京に送って処刑しています。

このような武力を伴った明王朝の大船団の出現は、周辺の王国の明王朝への帰順を促し、また海の不法者たちの乱暴狼藉も沈静化し、多くの在外中国人も明に帰国しました。

いわば「カネ」と「大砲」によって明帝国の国際秩序構築は成ったわけです。

あれ、どこかで聞いたような話ですね…。

 

5. 明の朝貢体制の崩壊、民間貿易解禁へ

しかし、永楽帝が1424年に死去し、鄭和の遠征が1433年を最後に終わりを迎えると、再び南シナ海は海賊と密貿易者が跋扈する海に戻ってしまい、明に朝貢する国は激減し、沿岸の中国人たちは再び稼ぎを求めて各地に散っていきました。

 

というのも、モンゴル高原の北元がオイラート部のエセン・ハーンのもとで強大化し、たびたび長城を超えて華北に侵入。1449年には北京が包囲され、正統帝自身がモンゴルの捕虜となってしまいます。(土木の変)

これ以来、明朝の関心は北方への防備に注がれリソースが北方に割かれて海の防衛は蔑ろにされてしまう。一方で北方防備への物資の需要が高まり、国内交易が活性化されて中国人は急速に内向きになってしまいました。

北元の歴史についてはこちらの記事をご覧ください

reki.hatenablog.com

 

民間貿易解禁へ

15世紀後半には朝貢体制は完全に形骸化し、朝貢貿易を行う国はわずかになり、南シナ海は密貿易者が往来する海となりました。それでもやはり密貿易は違法で当局に見つかったら処罰の対処となったため、在外中国人の中には現地政府に取り入って自ら朝貢貿易を買って出る者まで現れました。

しかし16世紀に入ると、部分的に民間貿易が容認され始め、1507年には関税比率を20%とした上で海外商船の広州への入稿が認められます。

北方防衛により財政が破綻寸前の明政府は、南海の国際秩序の構築よりも、目の前の財布の状況の改善を優先する判断についに至ったわけです。

1576年に密貿易の拠点・漳州月港が開港されたことをきっかけにして日本を除く各地へ出航が可能になり、民間貿易は完全にオープンになったことで、明王朝の海禁政策=朝貢システムによる明帝国の国際秩序は終わりを迎えたのでした。

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まとめ

 莫大なカネを各地にばらまき、武力を背景に自らを中心に据えた国際秩序を作り上げ、自分たちが作ったルールの徹底を各国に強いて、場合によっては内紛にまで積極的に介入するという徹底っぷり。

中国人にしかできないよなあと思いつつ、こういう秩序を作られたら一番最初にぶっ壊しにかかるのは中国人自身だよなと思ったりしました。

現代の中国政府も「新シルクロード構想」を掲げ、武力と経済力で周辺各国を取り込みにかかっています。いかにして地元政府・地元住民を懐柔するかが大事ですが、鍵は秩序を作ろうとしている「中国自身」かもしれません。

 

参考文献

港町と海域世界 (シリーズ港町の世界史) , 村井 章介 (編集), 歴史学研究会 (編集), 青木書店