歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

東南アジアの火薬庫「タイ深南部紛争」はなぜ起こったか

f:id:titioya:20181019211834p:plain

 タイからの分離独立を図る「タイ・ムスリム」の武装闘争

「タイ深南部」と言われるナラーティワート県、パッタニー県、ヤラー県にソンクラー県を加えた4県は、現在でもタイからの分離独立を図る武装闘争が盛んな地域です。

元々この地域には、隣国マレーシアのクダ州、クランタン州、トレンガヌ州、プルリス州を含む地域を領有するイスラム王国「パタニ王国」が存在しました。

しかしシャム(タイ)に征服されて以降、連綿と抵抗運動が続いています。

 

1. パタニ分離主義者によるテロ活動

タイ深南部での暴動・テロは、パタニ王国がシャムに征服された19世紀から2000年代まで連綿と続いています。武装組織によるテロや襲撃に対し、タイ軍も報復や暗殺を敢行しさらなる復讐の応酬が続き、解決の見通しは一切立っていません。
2000年以降に起きた暴動やテロ、それに対するタイ軍の攻勢は主要なものでも以下の通り。

 

2004年1月4日:ナラティーワット県で武装組織が軍施設を攻撃し4名の兵を殺害し、350点の武器を奪う。翌日、パッタニー県で爆弾テロがあり警官2名が死亡

2004年1月末  :ナラティーワット県とヤラー県で仏教僧3名が殺害される

2004年4月28日:タイ軍兵士がクルセ・モスクに立てこもったゲリラ32名と80名の反乱者を爆殺

2004年10月25日:タイ軍がタクバイの町で逮捕したデモ参加者を軍施設に移送中に78名を窒息死させる

2006年9月16日:ソンクラー県ハートヤイで爆弾テロが発生。観光客4人が死亡し82人が負傷。

2011年7月2日:パタニ県で銃による襲撃、警察官2名が死亡、2名が負傷

2011年9月16日:ナラティーワット県で3連続爆弾テロが発生し、3名が死亡、60人が負傷

2012年9月21日:パッタニー県の市場で爆弾テロ。6人が死亡し40人以上が負傷

2012年10月8日:ナラティーワット県、パッタニー県、ヤラー県で連続爆弾テロ。少なくとも11人が死亡

2013年4月11日:パッタニー県で路上の爆弾が爆破しタイ軍兵士2名が死亡、6人が負傷

 

2004年に燃え上がった暴動は、2014年までに死者6,000人、負傷者10,000人以上を出す東南アジア最悪の地域紛争になりました。

この間、タイ政府も武装組織と停戦に向けた努力を進めたものの、タイ政府内部の混乱や武装組織側の内ゲバ、組織の内紛によって両者とも腰を据えた交渉がまともにできていません。

しかし2018年現在は暴動は低調で、2011年のピーク時は619件あった暴動は今年度は140件にとどまっているそうです。とは言えテロがなくなっているわけではないので、外務省渡航情報を見ると、ナラティワート県,ヤラー県,パッタニー県及びソンクラー県の一部は危険レベル3(渡航中止勧告)が出ています。

 

2. パタニ王国の崩壊

f:id:titioya:20181027091905j:plain

Work by Danieliness

シャム王国に征服されたパタニ王国

ナラーティワート県、パッタニー県、ヤラー県にソンクラー県と、隣国マレーシアのクダ州、クランタン州、トレンガヌ州、プルリス州を含む地域は、かつてイスラムのスルタンが支配するマレー人の王国「パタニ王国」が存在しました。その起源は1390年にまで遡ると言われています。

パタニ王国がイスラム化したのは15世紀半ごろのことで、東アジアとヨーロッパの貿易船が行き交う大航海時代、アジアとイスラム、ヨーロッパの間の中継貿易でパタニ港は栄えました。

 

しかし18世紀後半から北部ソンクラーに多くの華僑が到来。地域経済を牛耳った華僑は政治にも介入するようになり、ソンクラーを事実上乗っ取ってしまいます。華僑はパタニ港にも大きな勢力を持つようになり、それをさせまいとするマレー人スルタンとの間で政治抗争が繰り返されるようになり、急激に国力が低下していきます。

1786年、ラーマ1世のチャックリー朝はパタニ王国に服属を命じますがパタニのスルタン・ムハンマドはこれを拒否。

ラーマ1世はシャム軍をパタニに送り制圧。スルタン・ムハンマドは殺害され、多数のパタニの民がバンコクに連行されました。

 

パタニの南北分断

シャムの従属国となったパタニでは反シャムの反乱が相次いだため、バンコクは旧パタニ王国を7つの県に分割し中央の役人を送り込んで直接統治に当たらせます。しかし抵抗が収まることはありませんでした。

そんな折、マラヤを植民地とするイギリスとタイとの国境を策定する協議がなされ、1909年に「英泰条約」が締結されました。これにより、タイはイギリス側に妥協し、クダ、クランタン、トレンガヌを英領マラヤに分割することになりました。

一方パタニのマレー人からすると、国を南北に分断されてしまった格好になりました。

PR

 

 

3. 第二次世界大戦前後

f:id:titioya:20181027095631j:plain

近代教育への反発

 タイ領となった深南部4県はタイ化が推進され、マレー系住民にタイ語教育と仏教の導入が推進されていきます。タイ政府は教育の近代化を進めるため、1921年から全土で初等教育を義務化し、全ての子どもに4年間タイ語教育を義務化しました。

パタニを始めとしたマラヤ地域では伝統的に「ポンドック(pondoks)」と呼ばれるイスラム教を基礎とした寺子屋のような教育機関が普及していて、イスラム教やマレー語の学習を始め、地域のコミュニティと深く連携していました。

伝統的なウラマー(イスラム知識人・教師)は「国による教育」という政府の政策に立場を失い強く反発し、深南部で反乱が相次ぐことになります。

当時はまだ自由主義の風潮があり、タイ政府もマレー系に議会の議席を与えるなどして懐柔を試みていました。

 

ピブーンの「ウルトラ・ナショナリズム」

f:id:titioya:20070102085050j:plain

Upload by DracoRexus, media.photobucket.com ,Marshall Plaek Pibulsonggram.

しかし1930年代に入り、保護主義と全体主義が世界の潮流になってくると、軍人プレーク・ピブーンソンクラームが首相に就任。大タイ主義・愛国主義が強調されるようになります。

タイ語の国語化と仏教の国教化が強く推進され、全ての住民にタイ風の名前を持つことが義務付けられました。さらには家族法やシャリーア法の適用も禁止され、全ての「反タイ活動」は国家反逆罪とされたため、マレー系にとってはさらに厳しい状況となりました。

 

▽「左のような未開な服装を捨て、右のようなタイ人らしい服装をしましょう」

f:id:titioya:20181027095609p:plain


ピブーンは枢軸国の日本と組みイギリスと敵対したため、深南部のマレー系指導者は英領マラヤのイギリス軍と連携しました。

しかし太平洋戦争が勃発しマラヤが日本に占領されると、日本は英泰条約でイギリス領となったクダ、クランタン、トレンガヌ、プルリスをタイに返還。皮肉な形でパタニは再度統合されることになります。

f:id:titioya:20181027101555p:plain

Work by  Shoshui

ところが戦後、日本が「勝手に」タイに譲渡した土地は英領マラヤに返還されることになりました。

1947年に設立されたパタニ人民運動(PPM)は、マレー人地域の統合を主張。1948年に「深南部のタイからの分離と英領マラヤへの統合」を国連に訴えました。

当然タイ当局の対応は厳しく、政治闘争を続けていたパタニ州イスラム協議会の議長ハッジ・スロン(Haji Sulong)が逮捕されます。これにマレー系は強硬に反発し、1948年4月26~28日にナラティーワット県で宗教リーダーが指揮する大規模な暴動が2件発生し、マレー系住民約400人が死亡。また4,000人のマレー系が英領マラヤに逃亡しました。

 

4. 紛争の発展

1950年代から1990年代にかけて、抵抗運動の組織が様々に生まれ、紛争のスタイル自体も変化していくことになります。

 

1950年代〜1960年代:パタニ民族主義の失敗

複数あったマレー人の政治組織と政策の統合を初めに試みたのが「大パタニ・マレームスリム運動連合(GAMPAR)」です。1959年にGAMPARの前指導者とパタニ人民運動(PPM)が統合してできたのが「パタニ解放戦線(BNPP)」。BNPPの指導者は伝統的なウラマー(イスラム知識人)でした。

ところが1960年代に入ると、これまでのように抗議デモや通りの占領などの活動だけでなく、武装してゲリラ活動を行う団体が登場してきます。

1963年に設立されたのがイスラム社会主義を目指す「民族革命戦線(BRN)」で、指導者は政治指導者。武器の調達と戦闘員の訓練を行いタイ軍や警察に組織的な攻撃をしかけるようになります。

1968年に設立され後に分離主義運動の中核となるのが、「パタニ連合解放組織(PULO)」。PULOはBRNと同じく政治指導者が中核でしたが、政治的にはBNPPとBRNの中間を取り、保守的なイスラム思想や社会主義とも距離をおいた中庸な姿勢が支持されることになりました。「宗教、人種、故郷、人道主義」を掲げ、深南部のマレー系地域を「イスラム国家として独立させる」ことを目指しました。

これらの武装組織は警察や政府の建物、政府系の学校などを第一目標として襲撃を行いました。

ところが、タイ当局の厳しい監視や指導者の逮捕などで組織は弱体化していき、1970年代以降主だった連中は中東や中央アジアなど海外に拠点を移します。そこで彼らはイスラム原理主義に接触することになるのです。

 

1970年代〜1980年代:世界のイスラム地域との連帯

1960年代のアラブ民族主義の崩壊に合わせて登場したイスラム復興主義の世界的な潮流は、深南部のマレー系住民も影響を与えました。特に1979年のイラン・イスラム革命、1978年から始まったソ連のアフガン侵攻がきっかけで文化的・経済的・政治的に世界のイスラム地域との連帯を強く志向するようになっていきます。

1960年代に低調に終わったパタニ民族主義を掲げた武装闘争は、イスラム主義を掲げることで資金・武器・人員など海外からの援助を受けることができるようになり、再び活発化することになるのです。

BNPPは分裂し、一部の者は「バリサン・ベルサトゥ・ムジャヒディン・パタニ(BBMP)」というイスラム原理主義組織に合流。1986年にはBNPPは「パタニ・イスラム解放戦線(BIPP)」に名称を変え、戦闘色を濃くしていきました。

 

1980年〜2000年:イスラム原理主義の勃興

1980年に成立したプレーム政権は、それまでのタイの為政者の権威主義的な姿勢を和らげ、言論の自由や自由選挙を実施しました。経済的にも年10%の驚異的な発展を遂げ、社会にも自由な雰囲気が満ちていました。一方でプレームは南部の治安部隊の展開を強化し、穏健派マレー系指導者たちと接触して協力関係を模索していました。

そのような中で、中東やアフガニスタン、パキスタンで軍事訓練を受け、「ジハーディスト教育」をも受けたマレー系戦闘員が深南部に次々に帰国

帰国した戦闘員は組織の指導者となっていき、1990年代にはマレー・イスラム式寺子屋ポンドックを通じ、「ジハーディスト教育」が子ども達に教えられることになりました。

また、サウジアラビアを拠点とするワッハーブ派普及組織が経済的に支援をする学費無償の学校がタイ深南部でも開講され、そこでイスラム原理主義が教えられました。

またこの時、アル・カイーダもタイ深南部のマレー系組織と連携を深め、インドネシアの「ジェマ・イスラミーヤ」、フィリピンの「モロ・イスラム民族解放戦線」、マレーシアの「クンプラン・ムジャヒディン・マレーシア」などの東南アジアのイスラム原理主義組織との横のネットワークも拡大しました。

ちなみにジェマ・イスラミーヤは公式に「ブルネイ、インドネシア、マレーシア、南フィリピン、シンガポール、深南部タイ」を領土とするイスラム国家の樹立を掲げています。

ただし現在有力なマレー系組織PULOは、あくまで「パタニ・ダルサラーム」の建国を目指す立場であるようです。

 

2000年以降:テロ活動の活発化

冒頭に挙げた2004年以降の激しいテロ活動とタイ当局の暴力の応酬が始まった背景には、2001年の9.11テロを受けてマレー系ムスリムが仏教徒から激しい憎悪を浴びたこと、それに2003年から始まったイラク戦争にタイ政府が賛同し軍を派遣しマレー系の反発が起こったことがあります。

時を同じくして2001年1月に首相に就任したタクシン・チナワットは、それまでのマレー系ムスリムに対する融和策を放棄して厳しい姿勢を取り、警察や軍当局による人権侵害とも取れる締め付けを促進しました。

9.11テロをきっかけに国際的にイスラム原理主義に対する警戒感が強まっていたため、タクシンは力でもって国内の「テロの危機」を押さえ込もうとしたわけですが、この政策は完全な失敗に終わり、タイ深南部は東南アジア最悪の紛争地帯になってしまいました。 

 

5. 貧困と経済格差の問題

タイ深南部の人々がタイからの分離を志向するのは、単に宗教や民族の違いだけでなく、貧困と経済格差が大きいとされています。 

 以下は深南部3県とタイ全土の失業率・貧困率・平均月収の比較ですが、平均月収はどの県もタイ全土と比較して低く、貧困率と失業率はパタニ県は圧倒的に高いです。

f:id:titioya:20181025210138j:plain

タイ経済の発展と共に深南部も経済発展をしているものの、タイの他の地域に比べればその速度は非常に遅い。一方で、かつてのパタニ王国の一部であるマレーシアのクダ州、クランタン州、トレンガヌ州、プルリス州は堅調に成長しています。

同じくタイ東北部(イーサーン)も、タイ全土平均と比べると貧困率が高く平均月収が低い地域ですが、深南部のような分離主義は発生していません。

イーサーンは伝統的にバンコクやタイ王家と同じく敬虔な仏教徒でタイ語を話す地域であり、分離主義の原因は「経済格差とアイデンティティ」が組み合わさって発生しているようです。

PR

 

 

まとめ

現在はさほどテロ活動は発生しておらず、あまりニュースにもなりません。

しかし、いつ再び過激派が勢いを増すか分からず、それはタイ政府の方針の変更、マレー系組織の統合と分裂、さらには国際的な政治状況の変化という様々なファクターに左右されるものとなっています。

これは起こりえないことですが、仮にタイ政府が譲歩して深南部に独立を与えたとしても、農業と観光業程度しか産業がないこの地域がやっていけるのは相当難しいだろうし、東ティモールのように国連やNGOに頼ってやっていかざるを得ないでしょう。

落とし所としては、深南部3県に高度な自治権を与えるということにありそうな気がしますが、2018年現在はタイは暫定政権のプラユット政権が続いており深南部の指導者たちとの本格的な交渉すら始まっていない状況です。 

 

参考文献

"Conflict in Southern Thailand_Islamism, Violence and the State in the Patani Insurgency" SIPRI Policy Paper No. 20 Neil J. Melvin

“タイ深南部が抱える紛糾:その原因と出口戦略” ASIA PEACEBUILDING INITIATIVE

" 深南部の暴力事件、11年から大幅に減少" NNA ASIA アジア経済ニュース