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中国のキリスト教の歴史

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人口世界最大の国における、人口世界最大の宗教の歴史

 現代の中国のキリスト教徒の人口がどれくらいいるかは、調査によって様々な説があります。

Katharina Wenzel-Teuber氏の調査によると3%にも満たないそうです。と言っても13億の人口の3%なので、4千万人もいるのですが。

今後中国ではキリスト教徒の人口が増えていくことが予想され、2030年には中国は世界最大のキリスト教徒を抱える国になることが予想されているそうです。

これに対し、中国政府は「中国政府の支配下での信仰」を強化すべく、様々な規制や干渉をしていると言われています。今も強く国家の干渉を受けているように、これまでの中国のキリスト教の歴史は、 時の権力者や対外関係などの影響をモロに受ける非常に不安定なものでした。

 

1. 唐の時代・大秦景教の流行

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シルクロード経由でやってきたネストリウス派キリスト教

中国に最初にキリスト教を伝えた人物は、シリア人の阿羅本(Alopen)という男だと言われています。

彼は635年、二代皇帝太祖の時代に長安にやってきて、皇帝にキリスト教の布教を求めました。太祖はこれを認め、皇室の図書館に聖書の翻訳を納めるよう指示を出しました。

唐朝はソグド人を中心とした中央アジアの交易商人を取り入れ、彼らを味方につけることで大帝国を築いていったので、太祖は西域の事柄であれば宗教でも何でも知識として知っておくことが必要と考えていたのかもしれません。

そのことがきっかけで、長安にはシリア人の宣教師がシルクロード経由で多数来訪するようになり、長安はネストリウス派のアジアの拠点となっていきます。

 

781年、長安のキリスト教コミュニティは自分たちの業績を記録した石碑を立てました。これこそ、かの有名な「大秦景教流行中国碑」です。

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この石碑には、阿羅本(Alopen)から始まった中国でのネストリウス派の業績が記されており、これによると長安以外に複数の都市に教会が開かれ、司教を中心に極めて組織的に運営されていたことが分かります。

しかし、唐朝が907年に崩壊し、五代十国時代が到来し国土が戦禍に見舞われるようになると、中国のネストリウス派コミュニティも崩壊に向かっていきました。

最後の中国のネストリウス派についての記録は987年、アラブの作家アブール・ファラジ(Abu'l Faraj)が、中国から帰国したばかりのネストリウス修道士に出くわしたもの。

それによると、彼の教会は破壊され、キリスト教徒の多くは戦禍に巻き込まれて死亡。今や彼の地にはキリスト教徒が一人しか残っていない、というもの。

こうしてネストリウス派は中国で衰退していきます。

次に中国でキリスト教が盛んになったのは、モンゴル人の元朝の時代です。

 

2. 元の時代・皇帝をキリスト教徒に改宗せよ

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「モンゴル皇帝をキリスト教徒に改宗させた」

モンゴル帝国がユーラシアを席巻していた時代、モンゴルに関する正確な知識はヨーロッパでは手に入れづらく、モンゴル軍は「東方のどこかにあるキリスト教の王プレスター・ジョンの軍である」という勘違いすら生じました。

ワールシュタットの戦いでポーランド・ハンガリー連合軍がモンゴルに圧殺されたこともあり、防衛という観点からもモンゴルに関する情報を入手する必要があり、数多くのカトリック修道士が東へ向かいました。

彼らは道中にネストリウス派キリスト教徒に出会い、

「我々がモンゴル皇帝をキリスト教徒に改宗させた」

と自慢されました。

色めきだった教皇は、より多くのカトリック宣教師をモンゴル帝国に派遣し、皇帝をネストリウス派からカトリックに改宗させ、モンゴル帝国をキリスト教国にしようと試みました。

これにはちょっとした勘違いがありました。

当時のモンゴル人は宗教に全くこだわりを持っておらず、どんな宗教でも神に通じる能力があると思っていたので、皇帝が住むテントの近辺に仏教徒やイスラム教徒、ゾロアスター教徒など様々な宗教の聖職者を住ませ皇帝のために祈らせていました。

ネストリウス派キリスト教徒もそんな「お抱え祈祷団」の一員だったに過ぎないのですが、一神教の彼らからすると、自分たちが聖なる力で皇帝に祈りを捧げている以上、皇帝はキリスト教徒になっているという理屈になるわけです。

そんなわけで教皇が祝福の使いを皇帝に送ると、「全く意味不明」「我が国に従属したいなら国王自らが来い」などとと言われて突き返されてしまうという事態が起きたのでした。

 

皇帝の庇護化で普及するローマ・カトリック

そのようにして、中国をキリスト教国にすべく数多くの宣教師が派遣されたのですが、中でも最も有名な人物が、モンテコルヴィノです。

彼は1294年の元朝の都カンバリク(大都)にたどり着き、それから20年近く布教活動を続けました。教会を建ててミサを行い聖書について教えたり、学校を建ててラテン語を教えるなどして信者を増やしていきました。

モンテコルヴィノから教皇クレメンス5世へ宛てたの手紙にて、10年の間に約6,000人に洗礼を授けたと報告しました。

その後フランシスコ会やオドリコ会の修道士が続々と中国にやってきて布教が行われました。彼らは皇帝と自分たちが親密な関係にあること、皇帝から布施を受けていること、宮廷に指定された場所がありそこから常時出入りしていることなどを教皇に報告していました。

元朝では皇帝自らはキリスト教徒にはなっていないわけですが、キリスト教は保護され、1368年に明朝が順帝(トゴン・テムル)をモンゴル高原に追い払うまで活動は続きました。

明朝による征服により中国のキリスト教の活動は、一時停滞することになります。 

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3. 明の時代・イエズス会の「現地化主義」

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儒教の服を着たキリスト教

明朝の時代に再びキリスト教徒の普及活動が始まるのは1583年、イエズス会の宣教師マテオ・リッチの来訪からです。

宗教に対しておおらかだったモンゴル人の時代とは変わり、当時の明朝は伝統文化への回帰が進んでいたようです。

リッチは布教活動をするにあたって、キリスト教を儒教の一派のようにみせかけ、ゼウスを「天」や「上帝」とするなど、中国の伝統に則った上で布教しようとしました。

そのため、リッチなど当時のイエズス会の宣教師たちは、例えばキリスト教に入信した中国人が伝統的な祖先崇拝や孔子崇拝をすることなどの生活儀礼や、教会に「敬天」の文字を掲げること、死者の位牌を掲げることすら認めました。

そのため、当時の中国人はキリスト教が全く別の宗教である感覚は薄く、儒教の発展版のような感覚でいました。

そのため時の皇帝も特に彼らの活動を抑圧することはありませんでした。

リッチは北京で教会を建設し、1610年に亡くなる際には2,500人ほどの信者がいたそうです。イエズス会の宣教師は様々な西洋の物品や進んだ科学技術を持ち込んだため非常に珍重され、リッチの後継者アダム・シャールは後に清朝で欽天監監正(天文台長)に任命され、西洋風の暦の作成を命じられるなどしました。 

 

4. 清の時代・禁教となるキリスト教

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ローマ教皇「ちゃんとキリスト教徒の伝統を教えろ!」

 しかし、このようなイエズス会の「キリスト教の現地化」がアダとなります。

ドミニコ会系の宣教師の報告によって中国のイエズス会の活動内容が報告されると、ローマ教皇庁で大問題となります。

これまでイエズス会が認めてきた祖先崇拝や孔子崇拝は全面禁止とのローマ教皇庁からの命令が下り、それは清朝の康熙帝にも伝えられることになりました。

康熙帝は激怒します。

中華の皇帝は世界の中心であり、世界を統治する立場という原則があります。

そのような原則からすると、西洋から来たキリスト教の宣教師に対しては「ローマ教皇の支配下から脱せしめ、我が元の保護下に置く故、安心されたし」という立場で臨むことになります。

それが「宣教師は我が方の支配下にあるため、我が方の原則を貴国にて認め許容すべし」と宣言されたわけなので、到底認めるわけにはいきません。

 

さらには、民衆の間でも宣教師が行う「重病人の目に油を塗る秘蹟」が、目を抜き取って望遠鏡を作るためだとか、孤児院を作って子どもをかき集め売り飛ばすためだとか、様々なデマが流れ社会不安を起こすようになっていき、さらにはドミニコ派修道会の無許可の布教活動も発覚したこともあり、1723年に雍正帝により清朝にてキリスト教は全面禁止されることになりました。

 

5. 清末・弾圧されるキリスト教

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反キリスト教運動の発展

再び中国でキリスト教信仰が活発化するのは、アヘン戦争後の1884年のことです。 

ヨーロッパ各国と清朝との間に通商条約・特権条約が結ばれ、 広州や廈門などの港が開かれると、キリスト教の伝道師が今度は「正当」なキリスト教義を伝える活動を開始しました。

正当なキリスト教義は伝統的な中国の儒教的教義を真っ向から否定するものであるため、特に地方の政治・文化を担う名望家層との間にトラブルが多発するようになっていきます。

また、キリスト教の宣教師が弾圧されると自国民保護の名目で軍隊がやってきて支配されるなど、領土支配の尖兵となっていた面もあります。

さらには南中国を中心に広がった太平天国の乱の首謀者・洪秀全は、実態はともかくキリスト教を掲げていたこともあり、中国人からするとキリスト教は中国と中国人を支配しようとする邪教としか映らなくなっていき、排外主義と反キリスト教運動がセットになって展開されていくことになります。

 

当初はキリスト教は西洋文明そのものとみなされ、儒教を基本とする伝統制度を改革することによって欧米列強と対峙していく道が取られました。しかし、中華復興運動が進むにつれ、キリスト教に限らない普遍的な実証主義的知識、具体的には西洋の利器や軍事力などは取り入れるという動きに変わり、洋務運動が展開されるようになります。

ところが危機は膨らむばかりで、1895年に日清戦争で敗北したこともあり、伝統的な中国の制度そのものへの懐疑と儒教文明の打破が叫ばれるようになっていったのでした。 

 

6. 20世紀前半・革命への道

20世紀前半の中国では、中国内部の「伝統批判・近代改革」のうねりに加え、王道の伝道手法に固執し人々との摩擦を生んだ宣教師側の反省もあり、知識人層を中心にキリスト教信者は爆発的に増えていくことになります。 

伝道団による教育や医療活動は活発になり、清華大学や燕京大学などこの時にミッションにより設立された大学や病院は数多くあります。

このような近代化の機運の中から、清朝そのものを打倒する革命運動が成長していきます。実際に、中国建国の父・孫文はキリスト教徒でした。

 

キリスト教が急速に拡大する一方で、合理主義・実証主義を身につけた中国の知識人からキリスト教の非合理性、例えば受胎告知や復活の奇跡など、への批判が出てくるようになっていきます。

彼らはキリスト教と西洋文明はイコールではないとして、不合理なキリスト教を排除し、合理主義的な西洋文明のみを取り入れるべきと主張。

これらの運動はロシア革命後の共産主義の流行、そしてその後の中国共産党による中華人民共和国の成立への布石となっていくわけです。

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まとめ

自らが世界文化の中心であり、皇帝の徳と威光によって周辺各国を従属させるという世界観を持っている中国では、全く別の文明観を持っているキリスト教は馴染みづらいということでしょうか。

そもそも近代以前では、キリスト教が全く別の文明であるということすら理解されていなかったのかもしれません。

現代はキリスト教に関する正しい情報が理解され、特に西欧の文化への憧れや純粋な教義への共感から、中国でキリスト教が普及していくのは自然な流れです。

ただしそれが結社化して体制批判に結びつく可能性はあって、中国共産党が現在キリスト教団を共産党の支配下に組み込もうとすることは、体制庇護者からすると当然の行為とも思えます。

中国にキリスト教が「真に根付く」日はやってくるのでしょうか。 

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参考文献

岩波講座 世界歴史〈23〉アジアとヨーロッパ―1900年代−20年代, 東アジアとキリスト教, 坂本多加雄

移動と交流 (シリーズ世界史への問い 3), 岩波書店

"現代中国におけるキリスト教" 一神教学際研究 8 王 再興

Church of the East in China - Wikipedia