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【太平洋戦争】日本軍が起こした忘れられがちな虐殺事件

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事実として認めたほうがいい過去

日本軍が起こした虐殺事件で最も有名なのは南京大虐殺です。

これはいまだに議論が盛んで、どういうわけかこの話になると普段は論理的な人も冷静さを失うほどです。

中国政府が発表する犠牲者の数が年々増えたり、多分に政治利用されているフシはありますが、火のないところに煙は立たないというか、数はともかく事実として事件はあったはず。

この、事実として受け入れるということが大事で、外からみたら日本の右派的な言説があれこれイチャモンをつけてなかったことにしようとしているように見えるので、かなり心象が良くないです。

今回は日本でも忘れられがちな「日本軍の虐殺事件」を見ていきたいです。

 

1. ラハ飛行場虐殺事件(1942年2月)

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掃海艇破壊の報復で300名以上のオーストラリア兵とオランダ兵を虐殺 

蘭印攻略を進める日本軍は1942年1月からアンボン島を空襲し、2月からオーストラリア軍とオランダ軍が抵抗を続けるラハ空港を攻撃しました。連合軍の抵抗は激しく戦闘は9時間にも及び、呉第1特別陸戦隊と若林中隊は手こずりますが両隊による挟み撃ち攻撃でとうとう降伏。

この時、連合軍が日本軍の掃海艇を破壊したことがきっかけで、怒った日本軍による捕虜への報復が起こり、日本兵は捕虜を後手で縛って日本刀で斬首したとされています。捕虜の集団殺戮は計4回起こり、合計で300名以上のオーストラリア兵・オランダ兵が殺害されました。

この事件は戦後、軍事裁判にかけられ90人以上の将校・兵士が関与したと判決が出て、4人が死刑となりました。

 

2. アレクサンドラ病院虐殺事件(1942年2月)

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 シンガポール制圧時に起こった病院関係者虐殺

1942年2月8日から攻撃が始まったシンガポールの戦いは、11日に連合軍のアーサー・パーシヴァル中将が山下中将に降伏したことで集結しました。

シンガポール陥落直前、アレクサンドラ軍病院に篭もるインド兵が日本軍に発砲したことがきっかけで、日本軍が病院内に侵入し医療スタッフや患者を殺害。この時に生き残った人々も中庭に集められ、翌朝に一斉射撃で虐殺されました。約200名近くが虐殺され、生存者はわずかに5名だったそうです。

しばらくして日本軍のある将校が病院を訪れ、イギリス軍のワイルド大佐にこの時のことを謝罪したそうですが、戦後、逮捕された山下中将はワイルド大佐にこの事件を聞かされ「知らなかった」「私が知らないということは、おそらく牟田口廉也の部隊の者の仕業だろう」と述べました。

 結局証拠不十分で、牟田口廉也がこの件で起訴されることはありませんでした。

 

 

3. パラワン島米兵捕虜焼殺事件(1944年12月)

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軍による組織的なアメリカ兵捕虜虐殺事件

1944年12月14日、フィリピンのパラワン島の日本軍守備隊は、アメリカ軍が侵攻を開始したという誤情報を聞き、アメリカ兵捕虜がこれに呼応して背後から攻撃されないようにと、管理する全ての捕虜を始末してしまおうと考えました。

150名のアメリカ兵捕虜を全員空襲避難所に閉じ込めそこに火をかけたのです。日本兵は逃げ出そうとしたアメリカ兵を撃って殺害。

運良く銃撃から逃れ海を泳いで逃げたりしてわずかに生存した捕虜による証言で、日本軍が組織的に捕虜の虐殺を行っている事実が判明。アメリカ軍はフィリピン全土の捕虜収容所の解放作戦を進め、カバナツアン捕虜収容所の解放作戦では、アメリカ軍のレンジャー部隊とフィリピン・ゲリラにより、489人の捕虜と33人の民間人が解放されました。 

 

 

4. ナウル島占領期の虐殺(1942年8月-1945年9月)

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 日本軍占領期間にいくつか起こった虐殺事件

南太平洋のナウル島は1942年8月から日本軍の占領下にありましたが、その間にいくつかの虐殺事件が起きています。

1943年3月にアメリカ軍機によるナウル島空襲があり、島に駐留する日本軍は報復として5名のオーストラリア兵捕虜を殺害。

また、島内のハンセン病患者39名を船に乗せて島から追放し、ある程度距離をとったところで艦砲射撃を浴びせて沈没させました。

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5. 駆逐艦秋風虐殺事件(1938年3月)

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秋風艦上で起こったヨーロッパ民間人集団虐殺

ニューギニア島侵攻作戦により日本軍はニューギニア島東部を占領。

ここはかつてドイツの植民地であったこともあり、ドイツ人やオランダ人を始めとしたヨーロッパ人が暮らしていましたが、日本軍は彼らの身柄を捕らえて駆逐艦秋風にて輸送します。その途上の1943年3月18日、艦上で60名全員を殺害しました。殺害の理由は「スパイの疑いがあったため」ということですが、犠牲者の中には子どもも含まれていました

戦後この事件に関与した人物の捜索がなされますが、秋風自体が1944年11月にフィリピン沖で魚雷を受けて沈没し関係者は既に死亡しており、詳しい経緯は不明のまま。

責任者は南東方面艦隊の司令長官・草鹿任一中将であったことが後に明らかになりますが、彼がこの件で起訴されることはありませんでした。

 

 

6. ビハール号事件(1944年3月)

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重巡洋艦利根の艦板で行われた組織的な虐殺事件 

1944年3月、重巡洋艦「利根」は、インド洋ココス島南西にてイギリスの商船ビハール号を発見。すぐに停止するように警告を出しますが停止しなかったため、利根の艦長・黛治夫大佐は砲撃を命令。すぐにビハール号は沈没し、利根は海中に投げ出された乗客乗員80名を救助し、ジャカルタに向かいました。

報告を受けた第16戦隊の司令官・左近允尚正少将は、黛治夫大佐に「数名を残して捕虜を始末する」ように命じました。黛治夫大佐はこれに反対し、何回か左近允尚正少将に命を救うように申し入れますが聞き入れられず、とうとう殺害を部下に指示。夜中にバンカ海峡の沖合で、一人ひとり艦板に連れあげて殺害。死体を海中投棄しました。

戦後、左近允尚正少将は民間人の殺害の意思決定を下したとして絞首刑となり、黛治夫大佐は直接の殺害指示を出した人物ですが当初は殺害に反対したとして禁錮7年の処分となりました。

 

 

7. マニラ大虐殺(1945年2〜3月)

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未だに論争が残るマニラ10万人虐殺事件

太平洋戦争末期の1945年1月、ルソン島に連合軍が上陸。

司令官・山下奉文大将はマニラの維持は困難であるとして、マニラの放棄と地方での戦闘継続を計画しました。しかし、岩淵少将はマニラ放棄に反対し独自にマニラ海軍防衛隊を組織し市街戦を戦いました。

マニラの人口は約70万人。当時のフィリピンではアメリカ軍に内通し、日本軍に抵抗をするゲリラが多数おり、マニラでも都市ゲリラが多数出現し日本軍を苦しめていました。この時に日本軍は女子どもも含む多数の民間人を虐殺・強姦し、その死者は約10万人にもなると言われています。

ただし本当に10万人の犠牲者が日本軍によって起こったのかには論争があり、アメリカ軍によるムチャクチャな砲撃によって市内は廃墟となったため、巻き込まれて死亡した数もかなりあると考えられます。

 戦後、裁判でこの事件の責任を問われた山下大将は「虐殺の事実は知らなかった」と述べるも、「責任はとる」として罪を受け入れ、絞首刑となりました。

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まとめ

徴用工とか慰安婦とか、いま「歴史戦」を巡る議論が盛んです。日本・中国・韓国・アメリカなど様々な政治団体や国の支援団体が、政府や地方自治体と合従連衡、マウントの取り合いを繰り広げており、かなり複雑な様相を見せています。

その中で適切な対処を施していくのは相当難しいのですが、ただ前提として、国際的な世論は「戦時犯罪」「慰安婦」に明確に反対の立場であり、それに抵抗する姿を見せるのは本当に心象が悪くなっています。ハリウッドのセクハラ親父どもを擁護するのと似たレベルの行為です。

世界の世論が日本に理解を示して「戦勝国のウソ」とやらを検証することなどありえないので、今さら重箱の隅をつつくような議論をしても無駄であって、世界の潮流に積極的に乗った上で前向きな議論をすべきと思います。

日本軍による残虐行為についても、カッとなって「ウソだ、プロパガンダだ」と喚くのでなく、ある程度事実として受け入れた上で、どう「精算」させるかという建設的な議論をしてくべきではないでしょうか。

 

参考サイト

"The Carnage at Laha, February 1942 The Laha Airfield Executions"

"Palawan Massacre December 14, 1944" American POWs of Japan

秋風 (駆逐艦) - Wikipedia

"10 Japanese Atrocities From World War II" LISTVERSE